
秋田県能代市柳町。能代市は米代川の河口の町として発展し、秋田杉の製材を中心とした木材加工の町として栄ました。明治中期、秋田木材株式会社を設立した井坂直幹が機械製材を導入してから木材加工業は急速に発達し、市内には製材工場が立ち並びました。製材された材木は国内のみならず海外まで輸出され「東洋一の木都」と称されるまで発展しました。七つの大屋根を持つ入母屋が特徴的な数寄屋造りのこの建物は、栄華を極めた材木界の迎賓館として、取引き先の方々をおもてなしするために昭和12年に建てられました。天然秋田杉の良材を余すことなく使用した上品な造りが今も見るものを魅了します。木材加工で栄えた「木都」の栄華を今に伝える貴重な歴史的建築物です。

昭和12年に建てられた旧料亭で、天然秋田杉を使用した雄大で優雅な造りは、能代の木材加工技術の繁栄を伝える歴史的建造物として国登録有形文化財(平成10年10月26日)となっています。1階中広間の約9mの中杢天井、2階の大広間の格天井は一見の価値あり。




御主人。

案内板「国登録有形文化財旧料亭金勇」より…『能代市は、米代川流域で生産された天然秋田杉の集積地であったことから木都能代として栄えました。金勇は、明治23年に操業された料亭で各種宴会や会合などに幅広く使われました。現在の建物は、二代目金谷勇助氏によって昭和12年に建て替えられたもので、木都能代の象徴とも言える秋田杉の殿堂です。当時の営林署でも後世に残る建物をと、資材の提供に全面的に協力したと言われております。外観は、屋根の両端に入母屋造りの屋根が重なり合う豪壮な造りで、日本建築の美が凝縮された純木造建築であります。一階中広間の天井には、今では入手出来ないと言われる長さ五間の1本の杉から採った中杢天井板5枚が使用され、二階の大広間は杢目板を四畳半に組み合わせた格天井になっております。当時の建築、設計、材料、技術の集大成であるといわれ、平成10年10月に国の登録有形文化財として登録され、平成21年3月に能代市に寄贈されました。平成21年11月能代市』能代ロータリークラブ創立50周年記念

玄関。Wikipedia「金勇」より一部抜粋『【玄関】1956年(昭和31年)厨房の増改築と共に玄関の位置を変更した。手前天井は中板目天井板の目すかし張りの縦づかい、奥の天井は「なぐり加工」の2本組み合わせの竿椽に中板目天井板の横づかいに目すかし張り等を施し、既存建物との調和を図るため造作材などの使い方に意匠性がうかがえる。』
中へ。

樹齢260余年。

初代金谷勇助氏が明治23年(1890)に創業。木都能代を象徴する建物で、県内屈指の料亭として各種宴会や接待、婚礼などに広く使われました。
現在の建物は、昭和12年(1937)に2代目金谷勇助氏によって建てられたものです。平成20年8月末に閉店し、翌21年に能代市に寄贈されました。


大広間…Wikipedia「金勇」より一部抜粋『【大広間】二階の大広間は10間×5.5間の110畳に舞台の49.5畳を加えた159.5畳の大空間で、天井は一面希少な天然秋田杉の中杢を利用した「秋田杉全面杢四畳半仕切り格天井」で構成され圧巻とされている。この全面杢は秋田杉立木の根元の方を6尺に玉切りした丸太から採材したもので、根元直径が2m級の丸太が使われた。【大広間の建具】間幅の硝子入り障子は、簡素な造りと大きさが大広間に確り馴染んでいる。建具の製作は地元の建具職人に任され、その技術・意匠は高く評価された。』
大広間…『樹齢260年以上、直径2メートル級の天然秋田杉から伐り出した畳1畳の杢目板を卍型に配する「四畳半仕切り格天井」が見どころです。広さ110畳の大空間は側面に壁がなく小屋組みにはトラス構造が用いられ洋風建築の技術が取り入れられています。床柱はイタヤカエデで、十和田湖畔から伐り出されたものです。幅5間半の床の間と共にどっしりとした独特の存在感を放っています。』

大広間舞台…Wikipedia「金勇」より一部抜粋『【大広間舞台】梅田棟梁自ら造った総檜の箱舞台だったが、歌舞伎座の能代公演の度に貸し出したため傷が多くなり、現在は作り付けになっている。背景の松の絵は酒田市の絵師が一晩で描き上げたものと伝えられており、松の絵の前に三味線や鼓の楽師が座る台を置く為、根上りに描かれている。』
舞台…『往時には能代芸者が手踊りを踊っていた舞台。完成当時は箱舞台でした。』

2階廊下。

床の間・床柱…Wikipedia「金勇」より一部抜粋『【大広間の床の間】幅5間半、床の間の製作は、東京の大工に任されたところ。』・パンフレットより『幅5間半の床の間は、110畳の大広間に見合った格調高い空間を作り出しています。丹念に磨きあげられたイタヤカエデの床柱は十和田湖畔から伐り出されたものでどっしりとした独特の存在感を放っています。』
旧料亭金勇の歩み(パンフレットより)
明治23年(1890年)初代金谷勇助、柳町に貸座敷の開運楼を創業。
明治26年(1893年)4月政談演説の場として現在地に山本倶楽部を建築。他に劇場の米代座、能代公園の和洋料理 紫明館(昭和7年焼失)を経営。
明治38年(1905年)12月柳町に火事があり開運楼が全焼。
明治39年(1906年)9月開運楼を再建し金勇楼と称した。
明治45年(1912年)7月柳町に再度火事があり金勇楼が全焼。再建後、山本俱楽部別館と称した。
昭和12年(1937年)2代目金谷勇助、山本倶楽部を解体し金勇倶楽部として建て替え。8月着工9月上棟式11月10日竣工、大工45人、人夫20人を常用。
昭和26年(1951年)料亭金勇へ名称を変更。
昭和32年(1957年)10月別館解体に伴い玄関を改築し厨房を増築。舞台を改修し空調を取付。
昭和45年(1970年)大広間舞台の緞帳を新調。
昭和54年(1979年)上げ汐の間、曙の間などを増築。
昭和58年(1983年)日本海中部地震により一部損壊、大広間の照明などを改修。
平成10年(1998年)10月国登録有形文化財に登録。
平成20年(2008年)8月料亭金勇閉店
平成21年(2009年)3月4代目当主、能代市へ土地建物を寄贈。
平成25年(2013年)増築部分を解体し耐震補強工事。12月観光交流施設「能代市旧料亭金勇」として開館。




西側廊下…『数寄屋造りの化粧室は、天井も凝った造りになっています。大きな襖は、現在は作り手もなく貴重なものです。』

Wikipedia「金勇」より一部抜粋…『金勇(かねゆう)は、秋田県能代市柳町にあった老舗料亭およびその建物。国の登録有形文化財に登録されている。現在は、観光交流施設能代市旧料亭金勇として開館している。【概要】能代市中心部の柳町に所在する。1890年(明治23年)に料亭として創業され、1937年(昭和12年)に本館が現在の建物に建て替えられた。天然秋田杉などを豊富に使用した建物は、木都として栄えた能代市を代表する歴史的木造建築物として評価され、2000年(平成10年)10月に国の登録有形文化財に登録された。長く市民の商談や会合の場として使用されてきたが、2008年(平成20年)8月に諸事情により料亭は廃業した。その後建物の保存を求める動きが高まったことに加え、経営者の「今後も何らかの形で市民に利用してほしい」という意向もあり2009年(平成21年)3月に建物と敷地が能代市に寄贈された。試験的な無料公開を経て、2013年(平成25年)12月に観光交流施設「能代市旧料亭金勇」として開館。天然秋田杉の良材を余すことなく使用した上品な造りなど、館内を見学することができる。また有料で部屋の貸出しを行っており、部屋で食事の手配や、イベント会場としても利用されている。』
池坊能代華秋会支部いけばな池坊展が開催されていました。涼風にのせて~和やかなひとときを~


各説明についてはパンフレット、Wikipedia及び現地案内板から抜粋していますが、すべての写真を撮ってはいません。


満月の間…Wikipedia「金勇」より一部抜粋『【満月の間(中広間)】中広間42畳と小広間14畳合わせて56畳の広さで、特に1本の秋田杉丸太から5枚採材された長さ30尺(5間・約9.1m)、元口幅 約3尺≒100cm~80cmの中杢天井板で、今では入手不可能と言われる逸品。 通し柱などに必要な10mの長尺材を採材するために選木した中の1本を木挽きにかけて割ったところ、小節一つない垂直で中杢の材面が現れた。滅多に見られない良材で、柱材にはもったいないと板材に木取り、材面に傷を付けないよう鳶などの道具を使わず全て人力で森林鉄道のトロッコまで運んだと言われる。』
満月の間…『天井の一枚板が見事です。1本の木から5枚取られた長さ5間(9.1m)の中杢天井板は木挽き職人が1枚を3日程かけて挽いたものです。』・パンフレットより『天井の一枚板が見事な1階、満月の間。1本の木から5枚取られた長さ5間(9.1m)の中杢天井板は木挽き職人が1枚を3日程かけて挽いたものです。長尺の長押も産地ならではと言えます。』
満月の間…『天井の一枚板が見事です。1本の木から5枚取られた長さ5間(9.1m)の中杢天井板は木挽き職人が1枚を3日程かけて挽いたものです。』・パンフレットより『天井の一枚板が見事な1階、満月の間。1本の木から5枚取られた長さ5間(9.1m)の中杢天井板は木挽き職人が1枚を3日程かけて挽いたものです。長尺の長押も産地ならではと言えます。』

川風の間…『欄間の「割氷の紋様」が特徴的です。3代目当主がこの紋様を好み金勇の銚子と盃の模様に使いました。』・Wikipedia「金勇」より一部抜粋『【川風の間】広さ12畳。欄間の割氷の紋様が特徴的。』

Wikipedia「金勇」より一部抜粋『【建物】7つの入母屋造の破風の重なりあった木造2階建て鉄板葺で、枯山水の庭園を有する。建築面積469平米、延床面積1,565平米、土地3,356平米。1936年(昭和11年)から12年にかけて、地域の企業らを中心とした後援会や能代営林署などの協力を得て、東京の大工と地元の大工によって建設された。建築にあたっては、能代の木材加工技術の紹介も兼ねて、後世に残るような能代を代表する建物にしたいとの意向があり、選び抜かれた材木と日本建築の技巧が随所にみられるものとなった。2010年(平成22年)には改修工事ならびに耐震工事にむけた調査がされている。』
田毎の間…Wikipedia「金勇」より一部抜粋『【田毎の間】この部屋だけは出入り口が2箇所ある特殊な造りで、政治家や上客が会合や商談に利用した部屋。卍張りの折上天井は杢板や絞り丸太、網代編みなどが使われている。』
田毎の間…『政治家や上客が会合や商談に利用した部屋です。卍張りの折上天井は杢板や絞り丸太、網代編みなどが使われ大変凝った造りとなっています。』

吉野の間…『天井が柾板と蒲で分かれ、上座と下座がはっきりしている点が特徴的です。』・Wikipedia「金勇」より一部抜粋『広さ10畳。天井板が柾板と蒲で分かれている上座と下座がはっきりしている点が特徴的。』

階段と廊下。廊下は長さ25m、幅1間。継ぎ目のない特注の上敷。
展示物に集中していたら、どこがどこの部屋だったのかわからなくなっています笑




曙・上げ汐の間(中広間)・多津美の間…『【多津美の間】1979年、明治期の建物を移築し再建しました。構造材のみを再利用しています。もともとは庭からも直接入れる造りで、上客がお忍びで使ったそうです。』・Wikipedia「金勇」より一部抜粋『【上げ汐の間(中広間)】昭和54年に改築した中広間で、取り次ぎ洋間と和室で構成されている。江戸時代から一子相伝の技により継承されてきた能代の伝統工芸品春慶塗(故東山鉱平氏寄贈)の他、現代の名工武田久雄氏作の組子建具を展示している。【多津美の間】改築前の大正時代に作られた部屋。大広間で開催された囲碁本因坊戦ゆかりの品々を展示している。』

第76期本因坊戦ゆかりの品々。
組子入仕切戸「松陰風光」
木都能代の父井坂直幹について…『井坂直幹は1860年、茨城県に生まれ、水戸国学を学びました。明治維新後、福沢諭吉の書生となり慶應義塾に学び、西洋文明と福沢諭吉の合理主義を身につけました。29歳で林産商会能代支店長となり、林産商会解散後も能代に残り、能代材木合資会社、能代挽材合資会社、秋田製材合資会社を設立しました。イギリスから新式の製材機を購入するなど、大規模な近代設備と技術力を導入し、「木都能代」としての地位を確立しました。』

金勇の掛け軸、酒器、俳句屏風等。
金勇建設当時の写真(昭和12年)

検番太鼓…『検番に置いてあった太鼓です。検番とは料理屋・芸者屋・待合の三業組合の俗称で客席に出る芸者の取り次ぎや玉代の計算などを行いました。』

男べらぼう凧・女べらぼう凧。

能代ふるさとPR大使。

ってことでパンフレット及びWikipedia「金勇」より残りの説明…『【浅黄の間】侘茶の草庵風小座敷。広く見せるため床柱を切断し袖壁を切り欠いています。天井は杢板と皮付きの椿で仕上げています。【硝子戸・建具】建具はすべて能代の建具職人によって作られました。柔かな揺らぎの硝子は建設当時のものです。1間幅の硝子障子と襖は圧巻です。【花籠】竹と木の根を編んだ大きさといい、京都まで出掛けて捜し求めた大変珍しい書院敷きの置物。2代目当主自ら京都で買い求めたものです。【いたや楓の床柱】床柱は大空間の中で存在感のあるものをということで、方々に問い合わせ、十和田湖畔から伐り出された「いたや楓」。原木のまま搬入されたので丹念に磨き上げられた。【小部屋】5つの小部屋は位置により、間取りや天井、床の間などにそれぞれの特徴を表している。これらの細工は地元の大工には難しく、東京からの大工に任せて造らせたもので、梅田棟梁はその出来ばえを賞賛している。【有明の間】広さ8畳。当時の最先端技術であった柾単板を張った柱や張柾天井板などの見本として造られた部屋。当時すでに能代にはその技術があった実証として初期の張柾製品は貴重なもの。』



このような造りです。




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