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八幡神社(能代市)』からの続きです。
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神輿庫。
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神輿。
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三吉神社鳥居。
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三吉神社。
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石塔です。
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中央に太平山。
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向かって左に琴平大神。
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向かって右に三吉大神像と太平山。
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三吉神社鎮座百二十五年記念新宮建設協賛者御芳名。
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三吉神社のすぐ横にある御神木。
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桂葉櫻。
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渟城毅書。
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裏面碑文「黒きことうる志の如し五月雨」
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広報のしろ(昭和61年4月10日)「のしろの碑①桂葉櫻」より…『「黒きこと漆の如し五月雨 桂葉」この碑は能代鎮守八幡神社の境内参道左側中央にある。表面に「桂葉櫻」裏面にこの句が刻まれ、側面には「渟城毅書」とある。八幡神社の別当である大光院三代目桂葉(名は尊為、号は晩翆堂1624年~1706年)を讃えた句碑である。桂葉は江戸幕府の歌学方北村季吟の門に入り、古今集、源氏物語の学殖が深く、また神道儒仏の道に明るく詩歌俳諧でも第一人者で、秋田俳壇の祖と言われる。井原西鶴と交友も深く、西鶴「好色一代男」の修験者大楽院のモデルといわれている。また、西鶴が京都三十三間堂の通し矢にならい大阪生玉社において一日四千句独吟(大矢数)のときの行司役を勤めたことでも有名である。天和元年(1681年)佐竹藩に修験大頭職が設置されたとき選ばれてその職につき、久保田清覚院で七年間藩の取締りを行った人でもある。著作は季吟序八束穂集、山水記、野代賦、光久寺奉加帳之序、太閤記(木版刷)などがあり、また元禄七年(1694年)能代地方を襲った元禄地震の情況を記録した「褪之記」には、自作の和歌「たのしみもなさけも同じ梢にて咲とちるとを花の世の中」を添えてある。この碑は渟城毅(十四代目)が建立したものである。』
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『春を惜め同じ流れの季吟門』露月山人(昭和三年「住吉探題」)
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『石井露月(明治6年5月17日~昭和3年9月18日)55歳。俳人(正岡子規門四天王の一人)医師。秋田県雄和町出身、本名、祐治。明治33年3月島田五空と図り「俳星」を能代より創刊。東北に日本派の三大拠点を築いた。「奥羽調」を唱え、秋田に露月ありと中央俳壇に重きをなした。右ハ「住吉吟行の句」』・『晩年、芭蕉の境涯に達した俳人。「露月生誕百三十年記念」02世界俳句フェスティバルin雄和町開催(平成14年9月20日~22日)を祝し、本句標を建立す。03「俳星」1000号記念。』
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けやき。
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けやき周辺。
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力士大蛇潟粂藏之碑(菅禮之助書)
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碑銘…『本名錦島粂藏明治二十三年一月秋田縣能代港幸町ニ生レ十四歳ニシテ七代錦島三太夫ノ門ニ入リ力士トナル四十三年幕内ニ昇進シ関脇タルコト三タビ剛強天下ニ聞コエ大正九年病ヲ以テ隠退シ八代錦島ノ名ヲ襲ヒテ年寄トナル昭和七年一月衆望ニヨリ大日本相撲協會ノ取締ニ推サレ八年五月十五日東京両國ニ於テ逝去ス昭和十四年門人大蛇山事九代錦島三太夫師恩追謝ノ志ヲ以テ此碑ヲ故人ノ郷土ニ建テ昭和三十二年七月木村今朝三事十代錦島三太夫之ヲ再建ス』
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留魂碑(あゝ特攻)。㈶特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会日本人の心を伝える会。碑文・揮毫吉田學、慰霊碑像デザイン塚本哲(平成20年10月)
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『県内唯一の東雲原能代飛行場は各飛行学校の分校として多くのパイロットを養成して来ました。然し大東亜戦争も後半愈々戦局も苛烈となり猛訓練の為、多数の殉職及び出撃戦死者を出しました。謹んで其の御英霊の御名を記します。陸軍少佐牧野忠恕、同中尉原田穣、同少尉西野晃太郎、同少尉小川次郎、同少尉柴田正也、同伍長穴田宏志、同伍長加納岩男、同少尉春田準太郎、同少尉渡辺嘉司、同軍曹浅井寧典、同伍長牛内善一、同軍曹渡里清美、同大尉石丸勇、同軍曹中山政利、同伍長町田、同軍曹稲村政夫、同少尉増井正一、同少尉長嶺武雄 殉職 同少佐山岡浩、同少尉面谷直治 戦死 同大尉若杉是俊、同大尉日野二郎 特攻 陸軍中佐渡部利夫、同少尉米山佐市、海軍少佐高橋恒夫、同少尉工藤丑雄、同少尉信太廣蔵、同兵曹長松枝金作 能代市関連の特攻戦死者 東雲飛行場慰霊祭第十四回の年に当り、「特攻勇士之像と慰霊碑」を建立して、祖国の為に玉と散った将兵の御魂を永久に弔うものであります。平成20年10月吉日北海道河東郡音更町、飛行第三十八戦隊戦友会会長林常材、陸士五五期。東雲飛行場慰霊奉賛会事務局幹事武田祐幸、陸士六十期』
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「睡蓮も河骨も花過ぎたるか」虚子
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高濱虚子先生…『昭和21年9月当八幡神社池畔にての作。昭和52年5月20日建之、京病長・ホトトギス同人京五紅。後援能代山本ホトトギス会』
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「締切の雨戸に窓や雪籠」平尾
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高濱年尾先生…『昭和30年2月能代市京五紅宅にての作。昭和52年5月20日建之、京病長・ホトトギス同人京五紅。後援能代山本ホトトギス会』
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金神社の銀鳥居。
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金神社。
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金神社…『【祭神】金山彦大神、金山姫大神、天目一箇大神、三吉大神【由緒】能代一郷町々鍛冶講中享保年間、社殿造立シテ爾來營繕ヲ加ヒ栄敬仕來候【例祭】宵祭旧3月16日、本祭旧3月17日』
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住吉龍神社(水門龍神社)鳥居。
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史蹟…『末社龍神社拝殿明治元年戊辰奥羽鎮撫副總督澤三位爲量卿參謀大山格之助桂太郎多賀谷家知勤王密議之所』
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社殿。
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唐破風懸魚・蟇股等。
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向拝神額。
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日本伝承大鑑HPより…『能代の町の鎮守とされる八幡神社の敷地内にある池の中ほどに境内社がある。水門龍神社。一名、住吉龍神社とも呼ばれるこの神社は、明治元年(1868年)に能代に入った奥羽鎮撫副総督の沢為量以下、参謀・大山格之助、隊長・桂太郎が、秋田藩の多賀谷家知らと密議をおこなった史跡としても有名である。しかしこの神社の創建由来には、あやしい伝説が残されている。能代は日本海側の交易港として江戸時代に大いに栄えた。交易のための商家は当然であるが、船乗りのための施設も栄えた。その中には遊郭もあった。享保年間(1716~1736年)の頃の話。播磨国から1隻の船が能代にやって来た。船は荷物の積み卸しなどのため、1ヶ月近くは港に停泊する。その間に、船乗りの一人がとある遊郭の女と懇ろになった。特に女の方が男にぞっこんとなってしまったから、始末が悪くなってしまった。船乗り達は当然の如く、荷を積めば郷里の港へ戻る。男も出航の日を待つばかりとなったが、女の方がいきなり自分も播磨国へ連れて行って欲しいと言い出した。ところが男には郷里に妻があったらしい。あまりに女がしつこく言い寄ってきたため、やむなく「船に乗せてやる」と女を誘い出して小舟に乗せて沖に出ると、その場で首を絞めて殺してしまったのである。そして重しを付けて港近くの米代川の河口辺りに投げ捨ててしまったのである。(一説では、男が妻子持ちであると告げたために、女が逆上して、そのまま河口に身投げして死んでしまったとも)素知らぬ顔で男は他の者と一緒に船に乗り込んで、能代の港を出ようとしたその時、いきなり大風が吹き荒れだした。帆を揚げたばかりの船はたちまち風に煽られて、港に引き返そうとしたが河口辺りで転覆し、結局乗り合わせた船頭は全員溺れ死んでしまった。それ以来、能代の港では播磨国の船が来ると必ず大荒れになるため、これは遊女の祟りであろうと、元文3年(1738年)に河口付近に龍神を勧請して社を建てた。それが水門龍神社の始まりであるとされている。その後嵐でたびたび社が流失するため、現在地に移転し、今に至っている。この神社が出来てからは遊女の祟りはおさまったと言われるが、時折港で変事が起こると播磨国の船があるためだという話はその後も残ったとされる。』
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裏に池があります。
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太鼓橋。
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島に鳥居と本殿が見えます。
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史蹟…『八幡神社、末社水門龍神社拝殿は、明治元年戊辰(1868年)、奥羽鎮撫副総督、澤三位為量卿参謀大山格之助、隊長桂太郎(後の内閣総理大臣)、桧山の多賀谷家知等勤王の人達が密議をした場所です。』
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御神木。
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稲荷神社鳥居。
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稲荷神社。
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石殿。
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拝殿神額「伏見稲荷神社」
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拝殿内。
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本殿跡かな。
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御神木。
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49.5
崩壊している石灯籠。
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石碑。
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三吉大神(三吉講中安全、明治38年旧3月17日)
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琴平大神。
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伏見稲荷大明神。
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54.5
神額(昭和44年5月、石山栄之助、石山栄一、石山義三奉納)
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横に崩壊した石鳥居がありました。
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稲荷っぽい小祠と狛犬一対。
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小祠や不明の石。
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庚申塔。詳細までは見ませんでした。
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太平山。
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60.3
こちらは不明。
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成田山。
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興味のある方は現地へどうぞ。
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包丁塚。
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能代市長宮腰洋逸。
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「食文化の今日と明日」(社団法人日本料理研究会会長三宅康夫)
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