秋田県能代市柳町。柳町通り沿いに社号標があり、鳥居も見えます。
社号標「鎮守八幡神社」(御大典紀念奉納、大正8年6月建設、侯爵佐竹義春謹書)。側面には社標発起人名、社標石寄進者名、石橋寄進者名が刻まれています。石橋…があったのかな。


参道。鳥居手前右手には旧料亭「金勇」、左手に料亭「魚松」があり、その雰囲気もまた趣があります。
鳥居。
幟には「奉納鎮守八幡神社 昭和15年5月吉日 願主小林幸太郎」
案内板「能代鎮守八幡神社」…『【御祭神】八幡大神、住吉大神、恵比須大神【例祭日】9月14日宵宮祭、9月15日神幸祭【由緒】人皇37代斉明天皇4年(658)越の国、国司阿倍比羅夫が、齶田(秋田)渟代(能代)両郡、蝦夷征伐の時、蝦夷降伏の八幡と号して海岸中嶋に鎮祭し、延暦年間(797~805)坂上田村麻呂が東夷征討の時、御旗を納めて戦功を報賽したと伝えられている。弘治の頃(1555~1557)に至って川筋が変り中嶋欠流につき愛宕山に遷座し、慶長年中(1596~1614)盤若野に遷座した。江戸時代藩主佐竹氏歴代の崇敬篤く、元禄7年(1693)に現在地に遷座し、同9年、本殿、拝殿を造営、藩内崇敬の一社と成していた。』

渟城毅(1890~1952)八幡神社宮司(体育社会教育家居住地跡)標柱。

標柱側面…『能代市鶴形、小林甚太郎家に生まれ、渟城家を継ぐ。性、明朗闊達。県内で初めて能代体育会を結成。子弟を養育。私学の振興をめざし昭和4年渟城幼稚園。昭和5年渟城女子専門学校(旧渟城女塾)を創設した。』・『北前船~播摩船にまつわる神苑の中に「菅江真澄の道」由縁の龍神池と龍神社がある。』


めおとまつ(夫婦松)
社務所。

手水石等。


八幡神社の史跡巡り「八幡神社史跡巡りマップ」…よく見えない状態でした。

江戸期以降の柳町について。江戸期の柳町は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)能代湊のうち。秋田藩領。町立ては貞享年中。沼が多く柳の密生地と想定されていたことが町名由来と推定。能代五町組制では当初より後町組。戸数は「享保郡邑記」で130軒。元禄7年の地震では町立て直後でもあり被害数記事未見。宝永元年の地震では新町・鍛冶町とともに全壊・半壊は出ましたが出火はなし。享保7年絵図で東は畑谷町へ接続、途中南へ出戸小路に通じ、また赤館町通りと結びます。その接点付近(柳町東部)には元屋敷、周辺に畠とあります。南に住吉社、その前面に門前町と大光院、北に稲荷明神があります。西光寺脇道は柳町と直角に交差しておりその延長は袋小路。享保13年絵図で柳町両側すべて町屋。前記出戸小路は「ホシハミチ」の文字。住吉社には「八幡住吉社地」の文字、スケッチがあり、社殿の他に境内に小家屋5、6軒。東西長さ66間。境内前に「別当大光院屋敷」の文字。柳町北に町屋が連続立地し、稲荷社地・光明院明神社地間に境界道が新しく見えます。寛保3年の大火で八幡住吉・稲荷などが残り、赤館町・伊藤杢右衛門屋敷(柳町北近接)が焼け残ったことから柳町に類焼なしと推定。翌延享元年に柳町後兵助屋敷裏地通りに小路ができます。また左五兵衛・半左衛門間の小路改修。宝暦4年住吉3社残らず類焼し御神旗など焼失。明和3年下川反町より出火し、八幡神社の拝殿・本殿類焼。寛延3年の町役出銭156貫文余、表間口総丈数は217丈余。除屋敷は小走源兵衛屋敷分。借家・長屋数8軒。礼銭として柳町旅人(他国商人か駐在者)ら35人が1人につき50文ずつ納入。寛延3年、柳町年長は佐藤兵助。元禄年中、清助町・新町の傾城が柳町へ移り揚屋急増、他町内は自然禁止。文化11年、柳町諸商売として遊女宿・下駄足駄類。安政2年の「東講商人鑑」には柳町商家の記載がありません。但し、絵図に「柳町遊女町なり」の記事。また勝長清右衛門・古屋八郎兵衛・鶴屋某の旅籠があります。鎮守は山王社・八幡社。宝永3年より住吉社が八幡社地に建立されてより能代は3社を鎮守とします。明治22年からは能代港町、昭和15年からは能代市の町名。昭和41年住居表示実施により、赤館町、字住吉後、住吉町の各一部を編入、現町域確定。
石灯籠一対(寛政8丙辰年正月吉日)。北前船の船主との交易で財をなした大坂の廻船問屋が建立したもの。
狛犬一対(昭和7壬申年正月吉日。寄進:能代出身、在函館山谷孫吉、在札幌高田米藏。彫刻:三輪嘉尚、三輪藤吉)
鳥居。
石灯籠二対(嘉永7年寅8月日、昭和17年2月15日)
参道。
八幡神社の逆さ松です。
八幡神社の逆さ松(能代の古木・名木、平成12年12月能代市教育委員会)…八幡神社の境内にあるクロマツは、樹幹の胸高周囲が1.9mのもの2本、1.99mのもの1本で、樹高はともに7mほどである。樹齢は二百年内外と推定されている。八幡神社は、八幡・住吉・恵比須の三社が合祀されたものであるが、このあたりの社地一帯を住吉ともいわれる。菅江真澄の『霞むつきほし』に「波貴野住吉の松原」という一文があり、それに添えられた絵には八幡神社が厚く松原に囲まれて描かれている。現在ある松は、古くから何代も植え継がれ、神社を守ってきたものの名残であろう。そのうちの一本は、不思議なことに幹の中間が太くなっており、これを「逆さ松」と称し親しまれている。

八幡神社境内にはこの逆さ松や夫婦松の他に、御神木の松・欅・桂があり、それらを巡ると良縁が訪れるとされているそうです。

こんな御神木もありました。


御車清祓所。

石灯籠一対(大正5年辰8月吉日)


社殿前参道。

御神馬(昭和30年9月祥日)。白馬です。

狛犬一対(明和6己丑年3月吉日、秋田伊多波氏)
不明の石。

こちらは何かの台座かな。「昭和11年5月吉日畠成信還暦」とありました。

社殿。神社庁より…『斉明天皇4年、越の国国司、阿倍比羅夫が蝦夷征伐の時、蝦夷降伏(エゾムケ)の八幡と号して海岸中嶋に鎮斎し延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征討の時、御旗を納めて戦功を報賽すと伝えられている。弘治年間、米代川の変化で中嶋が欠流につき愛宕山に遷座し、慶長年間、磐若野に移り元禄9年現在地に鎮座す。旧藩主佐竹累代の社参造営して藩内崇敬の一社と成した。昭和31年能代大火の際、社殿類焼したが翌年9月に再建す。(宝物)佐竹義和公の「忠信渉波濤献額」の原本。宝暦12年に庄屋三嶋嘉右衛門公豊から奉納された「能代浜鰯漁絵図」(昭和49年能代市指定文化財)。』


御祭神は八幡大神、住吉大神、恵比須大神。例祭9月15日。


拝殿向拝神額「神社本廳統理鷹司信輔謹書」

拝殿内。
玉串奉奠。


幣殿・本殿。

長くなりましたので…

『能代鎮守 八幡神社 ~其之弐』へ続く。




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