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岩手県紫波郡紫波町二日町古舘。歩道(階段)もありましたが車で向かいました。なお、私が想定していたよりもかなり広い公園であったため、時間の都合上、一部だけの紹介になります。県内最大規模の城館跡の一つで、中世に当地を支配した高水寺斯波氏の居城跡。斯波氏は足利氏の支族で、室町幕府の奥州管領に任ぜられた名族でしたが、南部信直の侵攻により滅亡し、天正19年に郡山城と改称され、盛岡城が築かれるまで南部氏の居城とされました。中世城郭の一形態を示す貴重な遺跡です。
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道中にあった吉兵衛館遺跡。
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城山公園と連なりますが、住所的には二日町向山で、城山公園の南方。
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行きませんでした。
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こちらも道中にあった承慶橋中島跡の案内板。
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『眼下に見下ろすと、北上川の中ほどに舟形をした石積が見えます。これは、盛岡南部藩三十八代藩主利済(としただ)公の命により、日詰の豪商四代目金子七郎衛保憲が弘化元年(1844)から二年がかりで造った承慶橋の中島の跡です。この中島から左右に土橋を架け、川東と川西を結んでいました。石は、高水寺城本丸跡の石垣が利用されたと言われています。たび重なる洪水のため、わずか八年あまり利用されただけで消え去りました。紫波町教育委員会』
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全然見えませんでしたが、今も北上川に残ります。
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グーグルマップの航空写真か何かで見てください。
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こちらも道中にあった「古碑城山観音入口」標柱。
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道がありましたが、ロープで立入禁止のようになっていたのでスルー。
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11.5
若殿屋敷跡。
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12.5
城山公園は町のほぼ中心にある小高い丘で、中世期には斯波氏の居城高水寺城が築かれたといわれており、歴史的にも価値が高い遺跡です。春には約2千本の桜で公園が彩られ、少し離れたところから見ると丘全体が桜色に見えるほど。花見シーズンにはたくさんの見物客で賑わいます。自由に散歩やジョギングができ、キャンプ場で楽しむこともでき、夜景も素晴らしいそうです。
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「若殿屋敷跡」とあるだけで特に案内板は見かけなかったと思います。
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14.5
御殿跡。
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『城山公園・高水寺城跡は町のほぼ中央に位置する小高い山にあります。室町幕府とゆかりの深い斯波(しば)氏の居城であり、御所ともいわれ、中世紫波郡の中心として約400年栄えた場所です。2,000本を超える桜が咲き誇る桜の名所で、公園へ続く遊歩道にできる桜のトンネルは見ごたえがあります。標高180mほどの小高い丘の上にある公園で、室町幕府にゆかりのある斯波氏が、高水寺城を構えた場所としても知られ、歴史的にも価値が高い。春には約1,100本の桜で丘全体が淡いピンク色に染まり、ライトアップされた夜桜も鑑賞できます。この桜は、1928(昭和3)年陸軍特別大演習の際、昭和天皇の御野立所となったのを記念して植えられた。ソメイヨシノ、ヤエザクラ、ヤマザクラ、エドヒガンなど多種多様な桜が楽しめます。』
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斯波氏の居城「高水寺城址」の碑。
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二日町についてです。北上川中流右岸で岩崎川が流入する地点に位置。地内の小丘陵地帯には、縄文中・後期の遺跡が分布しており、小円墳も4基知られていました。墨書銘のある土師器(坏)をはじめとして土師器・須恵器の出土も多く、字栗木田の杉ノ上遺跡は焼窯遺跡であると考えられます。字古館には高水寺(郡山)城址があり、字山子には吉兵衛館(高田氏館)跡があります。
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江戸期以降の二日町新田は紫波郡のうち。盛岡藩領。日詰通に属します。村高は「邦内郷村志」344石余(うち給地16石余)、天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」366石余(御蔵高342石余・給所高23石余)、「旧高旧領」288石余。もとは高水寺村と一村であり、貞享年間以後分村したといわれますが「仮名付帳」では郡山村の項に郡山三町のうち二日町に付属する新田として見え、「本枝村付並位付」には二日町・下町(郡山三町の1つ)が当村のうちとして記されます。なお、「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名は見えません。「邦内郷村志」では、日詰新田・郡山三町を合わせて家数395・馬200。「本枝村付並位付」によりますと位付は中の中、家数124、集落別内訳は二日町43・同所横丁11・下町56・同所之内14。弘化年間頃の二日町新田のみの居住者は2軒で、肝入などの村役人は郡山三町の町人によって占められ、地内の百姓も同町の町検断の支配下に置かれていました。幕末期の給人とその高は、高橋東作4石余・野村兵八1石余・大槻茂2石余・小川広治6石余・久慈千治6升余・小川惣五郎12石余、他に盛岡の高水寺24石余。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。明治初年郡山三町のうち二日町・下町を地内に編入。同10年の村の幅員は東西約26町・南北約15町、税地は田33町余・畑108町余・宅地8町余・荒地1町余・鍬下23町余の計175町余、戸数186・人口880(男434・女446)、馬60、職業別戸数は農業145・工業14・商業18・雑業1、物産は米・大豆・小豆・大麦・小麦・蕎麦・粟・稗・黍・大角豆・蘿菔・胡麻・麻・胡瓜・胡桃・藺席・粒荏。郡山古城は当地のうちに記されます。同22年古館村の大字となります。明治22年面積180町余、戸数194・人口897。古館尋常小学校は大正2年高等科を併置し、昭和3年に高水寺に移転。同30年紫波町二日町となります。
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御殿跡には愛宕神社が鎮座しておりますが別記事にしております。
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御殿跡から一段下った付近。
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『北上川右岸の段丘にあり、最頂部の標高は約180m。規模は東西550m南北700mに及び、南西に「吉兵衛館」、その西方に「西御所」が続く。「志和軍戦記」には、「志和の城と申すは、前に北上川とて大川なり。後は深堀左右の深淵にて竜王も住居する程の大堀、要害堅固の城にて飛鳥も飛越し兼ねる程の居城なり」と記されている。最頂部の本丸(御殿)跡は東西60m南北120mで、二の丸跡は東西50m南北100mほど。各郭には階段状の腰郭が続く。主要な郭を巡る空堀と土塁は改変を受けて不明な点も多いが、急崖をなす東辺を除いて二重、三重の塁濠が中腹から山裾にかけて残っている。』
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『高水寺城の名称は「吾妻鏡」に記されている紫波地方きっての古刹・高水寺の一郭を居館としたことによるとされるが、建武2年(1335)に足利尊氏が斯波高経の長子・家長を奥州管領として下向させ、北朝方の勢力拡大を図ったことに始まるといわれる。斯波氏は足利泰氏の長男・家氏が陸奥国斯波郡へ下向し、高水寺城に在城して斯波氏を称するが、4代高経までは家臣に支配させた可能性が強く、独立した城郭を築いたのは家長以降と推定されている。細川氏・畠山氏とともに室町幕府の管領家としても知られる斯波氏は足利氏の名族で、高経は尊氏に従って新田義貞を討つなどの軍功を重ね、越前、若狭などの守護を務めた。家長以降の斯波氏は現在の紫波郡・花巻市東部などの66郷を支配し、さらに大永元年(1521)および天文6年(1537)には南部氏と交戦し、岩手郡を攻略している。隆盛を極めた斯波氏は「斯波御所」と称され、詮高(あきたか)の代には次男を雫石に、三男を猪去(いさり)に配して「三御所」といわれる。しかし、三戸南部の南進政策は対立抗争を激化させ、天正16年(1588)岩清水右京の謀叛を契機に南部信直の攻略を受け滅亡した。南部信直は高水寺城を郡山城と改め、中野康実(なかのやすざね)を城代に任じ、郡山は郡治の中心となった。盛岡城築城に際しては南部利直の10数年間の居城にもなったが、寛文7年(1667)に至って廃城となり、古材は盛岡城本丸に使用されたと伝えられている。昭和3年、陸軍の演習に訪れた昭和天皇の御野立所となり、記念に全山ならびに道路側面に桜を植えたのが始まりで、その後も植栽を続け、現在は桜の名所として知られている。』
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高水寺城…『岩手県紫波郡紫波町の北上川右岸の段丘に築かれた中世の山城。奥州探題を務めた室町時代の名門、斯波氏の一族の居城である。斯波氏は足利氏の一族で、管領を務めた最有力の一門だが、足利尊氏の4代前の足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡へ下向して斯波氏を称したのがその始まりである。家氏は奥州下向後、古刹の高水寺の一郭を居館とした。その意味では、高水寺城は斯波氏発祥の地といってもよい。その後、1335年(建武2年)、足利尊氏は一族の斯波高経の長子家長を奥州管領として下向させ、北朝方の勢力拡大を図ったが、その際、高水寺城は独立した城郭として築かれたのではないかといわれる。奥州斯波氏はこれ以降、現在の紫波郡や花巻市東部の66郷を領有して、この城を拠点に北の南部氏と勢力を争った。斯波氏の家格の高さから、その居城の高水寺城は「斯波御所」と称された。しかし、奥州斯波氏は内部対立抗争などによりしだいに衰え、1588年(天正16年)に南部氏(南部信直)から攻められて滅亡した。その後、高水寺城は南部氏の属城となった。江戸時代の初め、南部氏第27代当主で盛岡藩の初代藩主の南部利直が盛岡城完成前の十数年あまり、この城を居城としていた。1667年(寛文7年)、この城は廃城となり、その古材は焼失した盛岡城の本丸の再建に使われたと伝えられている。城跡は現在、城山公園となっている。』
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見下ろした若殿屋敷跡方面。
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25.5
wikipedia「郡山城 (陸奥国紫波郡)」より一部抜粋…『郡山城(こおりやまじょう)は、岩手県紫波郡紫波町に所在した日本の城。別称 高水寺城(こうすいじじょう)。紫波町指定史跡。【別称】高水寺城(こうすいじじょう)、斯波御所。【城郭構造】平山城【築城主】斯波氏【築城年】不明【主な城主】斯波氏、南部氏【廃城年】寛文7年(1667年)【遺構】横堀、土塁【指定文化財】町指定史跡【概要】郡山城は岩手県紫波郡紫波町二日町字古舘に所在する。高水寺城の名称は、斯波氏の居城が高水寺という寺の一部を城柵として用いたことに由来する。高水寺の古館は郡山の北西2km、高水寺の西方に近接していた。現在は、紫波町立城山公園として整備されている。【沿革】中世から江戸初期の山城で、斯波郡斯波氏の本拠地で、建武2年(1335年)に足利尊氏が奥州管領とし斯波高経の長子家長を下向させ居城としたことに始まるといわれる。戦国時代に入り、平野部の本城のみでは防御上の不安が生じたため、郡山の丘陵上に詰の城を築き、最頂部に本丸がありその南に二の丸(若殿屋敷)、東に家臣の右京屋敷や姫御殿などがあり、郡山の山城が斯波氏の本城と見なされ、高水寺城または志和館(城)と称された。斯波氏が隆盛をきわめていたころは「斯波御所」と称されていた。室町時代後期にいたって三戸南部氏の南進政策により対立が激化し、天正16年(1588年)、岩清水右京の謀叛を契機に斯波氏の滅亡ののち、南部信直は高水寺城を「郡山城」と改め、中野修理康実を城代としておき、その後、中津川や北上川がたびたび氾濫して石垣などが崩れたりしたため、不来方(盛岡)城築城に際して、南部信直の元和~寛永年間の居城として南部領の中心となった。南部氏が居城を盛岡城に移した後の寛文7年(1667年)に破却されて城代も廃され、古材は盛岡城本丸に使用されたと伝えられている。』
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野村胡堂の歌碑…『「故里の春日の丘にかたくりのむれ咲く頃のなつかしきかな」胡堂』。野村胡堂は紫波町生まれの作家、音楽評論家(筆名:あらえびす)で、小説「銭形平次捕物控」の作者。この碑には上京した胡堂が故郷である紫波町の風景を懐かしみ詠んだ歌を刻みます。野村胡堂の生家を望む高台に「野村胡堂・あらえびす記念館」があります。
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プロフィールもありました。有名な方なので他でお調べになってください。
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駐蹕之趾(紀元二千六百年、岩手中學校建之)
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平和塔。
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30.5
平和の礎(平成7年5月吉日、日詰遺族会)
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碑文…『遠くふるさとを離れ帰ることのできなかった 果てしない道を苛烈な異国の戦場に往き 我らの祈りもむなしく紺碧の南の海に 他国の野辺に母を妻の名を呼びながら 眠ったあの人びとをしのぶ歴史の彼方に消えてゆく 戦死した子に流した母の涙と 戦場に散った夫を思う孤独な妻の悲しみを 再びくり返さぬ誓を込めて不滅の平和の火をともさん』
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岩動道行(鯨丁)詩碑
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33.5
「郭公や杜の都の山河映え」鯨丁
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石動炎天の歌碑(昭和40年)。
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35.5
台座碑文…『田村麻呂の城と北上と夏野哉 炎天岩動康治先生は明治16年紫波町に生まる。盛岡中学時代に俳句をはじめ、生涯医業を営みながら、俳諧に親しむ。"渋柿""俳星"に據り中央において名をなすと共に岩手俳壇の興隆に尽くす。昭和38年2月3日歿80才 句碑の設計、レリーフの製作は東京芸大教授船越保武氏』
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文語詩「丘」より(宮澤賢治文学碑)…『野をはるに北をのぞめば紫波の城の二本の杉かゞやきて黄ばめるものはそが上に麦熟すらし うちどよみまた鳥啼けばいよいよに君ぞ恋しき野はさらに雲の影して松の風日に鳴るものを 宮澤星河書』
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丘…『森の上のこの神楽殿 いそがしくのぼりて立てば かくこうはめぐりてどよみ 松の風頬を吹くなり 野をはるに北をのぞめば 紫波の城の二本の杉 かゞやきて黄ばめるものは そが上に麦熟すらし さらにまた夏雲の下、青々と山なみははせ、従ひて野は澱めども かのまちはつひに見えざり うらゝかに野を過ぎり行く かの雲の影ともなりて きみがべにありなんものを さもわれののがれてあれば うすくらき古着の店に ひとり居て祖父や怒らん いざ走せてこととふべきに うちどよみまた鳥啼けば いよいよに君ぞ恋しき 野はさらに雲の影して 松の風日に鳴るものを』
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文語詩「丘」と紫波について…『宮澤賢治は大正3年、盛岡中学校を卒業して間もなく、病気のため岩手病院に入院した。賢治は朝夕の世話をしてくれた白衣の天使にあこがれ、募る想いを多くの短歌に残した。その看護師は日詰の人と言われる。退院後の賢治は、父と進路問題などで対立し、家業にも身が入らないまま、悶々とした日々を送っていた。思い余って、紫波の城山までやってきても、その悩みは増すばかりである。「思はずも たどりて来しか この線路 高地に立てど 目はなぐさまず」時にはまた、賢治は近くの胡四王山から遥か北の城山を眺め、その人への切ない恋心を詠った。「志和の城の麦熟すらし その黄色 きみ居るそらの こなたに明し」賢治はこうした青春の想いを童話「めくらぶどうと虹」「マリヴロンと少女」に綴り、晩年には「丘」などの文語詩にまとめている。ここ紫波は宮澤家とゆかりが深く、特に祖母の出身地として賢治にはなじみの深い土地であった。また晩年まで詩と音楽を通して、賢治と無二の親交を結んだ藤原嘉藤治は、紫波に生まれた人である。賢治の没後、嘉藤治はただちに全集の出版に力を尽くし、その二度の発行を果たした後は、賢治精神の実践者として、東根山の麓で開拓の道にいそしんだ。賢治没後80年、東日本大震災から2年、賢治の存在が増々注目されているこの時、ここに紫波との深いきずなを記し、賢治顕彰の道しるべとしたい。平成25年4月城山に宮澤賢治文学碑を建てる会』
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高水寺城跡(紫波町指定史跡)…『標高180mの独立丘に立地したこの高水寺城は、中世斯波氏累代の居城であった。 斯波氏は、足利氏の有力な分族であるが、この地を領知するにいたった経緯や築城の時期については定かではない。 それが南北朝対立の時を迎えると、にわかに日本史の表舞台に登場するようになった。すなわち、足利尊氏によって奥州管領に任ぜられた斯波家長は、この城を本拠とし奥州における北朝方の重鎮として活躍しているのである。次いで、室町時代になると紫波郡一円の領主として地歩を確立しただけでなく、一時は南岩手から雫石方面へも勢力を伸張するほどであった。しかし、三戸南部氏との抗争が激しくなるにつれて次第に衰えをみせ、ついにはその攻略に屈して没落する運命となった。時に天正16年(1588)8月のことである。高水寺城を占領した南部氏は、城名を郡山城と改称して城代を配したが、寛文7年(1667)に至って城代制は廃止され、城も破却された。紫波町教育委員会』
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御殿跡をぐるりと回って…
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41.5
姫御殿跡方面へ。
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眺望。
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杏蔭日記(明治39年)の碑(菊池寿人)
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44.5
紫波町名誉町民菊池壽人略歴…『元治元年(1864)10月20日盛岡市に生れ、本籍地の紫波町二日町で育つ。教育者、国文学者。明治29年東京帝国大学文科大学文学科大学院を終了。同31年第一高等学校国文科教授になる。同42年同校教頭。大正8年同校の16代目の校長に就任。昭和10年「萬葉集精考」を刊行。同17年9月30日79歳で逝去。高等官一等勲三等瑞宝章に叙された。位階は正四位。同60年3月16日紫波町名誉町民となる。』
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菊池壽人顕彰碑。
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杏蔭日記(菊池壽人)…『「明治三十九年九月」一日 盂蘭盆とて一家うちつれて善念寺の先塋に詣づ。黒川博士卒去の報来る。二日(日)二百十日、昨日けふ日は照りながら雲行きあやしく折々雨などうち注ぎて只ならず見えしが、昼過ぐる比より全く晴れ渡りぬ。夕刻より大﨑氏(村の小学教員)を招きて酒食を饗しつ、八時頃送りて門辺¥に出づれば月いとさやか也。今日は二百十日といふに、いと珍しくおぼえて、我知らずうかれ出でたるが、酔に乗じて登ることもなく城山に登りぬ。路はあしけれど草葉の露はまだ繁からず、やがて山上に登り立ちたる時の心ちは、幼き頃此里に生ひ立ちたる身にもまだ知らぬ所なりき。煙るが如き麓田の趣、独り夜の色を誇りげなる北上川の眺めなどは言はずもかな。年豊かにして民の喜び大方ならずと聞けるもしるく、遠邇の村々にて打ちなす「豊年太鼓」の音の或は高く或はかすけく、四面斉しく響き来るなど身にしみて覚ゆるに、いづれの里ぞ(星山村か)田の面に立てつらねたる百八の燈籠、薄靄を破りて希望の光あざやかに(これは盂蘭盆ゆゑなれど豊年ならねば催さぬ事也)、対岸なる鎮守の杜(館山神社)よりはさんさ踊の声さへ勇ましく水を渡ってとよみ来るなり。げに興ある様かな。山上の清風に酔を吹かせて、かかる中に二百十日の明月をめづるよと思へば、いかでかうれしからざらん。つくづくと聞き、つくづくと眺めて「田舎はよきものかな、年豊かなる田舎の秋はうれしきものかな」と思ひぬ。』
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