
三戸郡南部町麦沢差和。麦沢集落の西端。


両部鳥居。

達者村百景「愛宕神社」

麦沢は馬淵川の中流左岸の山地に位置。天正19年、島守館が八戸政栄(根城南部氏18代当主)に討たれた際、城兵が落ちのびてきた場所という伝承があります。
御神木。


おさご場(平成10年9月4日、嶋守勝四郎家内一同奉納)


満洲・支那・大東亜従軍記念碑(昭和59年9月4日麦沢村建之、八戸市大字尻内町字三条目施工古舘石材店)

裏面には戦死者「伍長島守安藏(南支、27才)・兵長八幡兼太郎(ルソン島リザール州ハコノエ町、35才)・兵長島守金作(沖縄)・八幡文藏(18才)」ほか発起人名(省略)。

鳥居。
狛犬一対(大正8年旧8月4日、地引村字麦沢、島守松次郎建、八戸大工町石工杉本安太郎刻)
征露紀念碑(明治39年旧8月4日)

社殿。

間口四間×奥行三間半。

由緒等は不明。

例大祭は旧暦9月4日で、御神酒上げで各戸500円ずつ徴収して飲食をともにし、懇親を深めたり、境内の土俵で相撲大会を開催しています(※現在は不明)

拝殿内。祭壇には五基の内御堂が並べられています。薬師如来と記した明治15年の棟札を祀ったもの、金精様を祀ったもの、「天保三年秋葉さま」と書かれた木札を祀る内御堂などもあり、乙金澤(オッカラジャと呼ばれています)の信者たちが崇拝したことが記されています。※福地村史下巻に「麦沢の八幡正義家の山神堂は、敷地内の樅の大木の根元に鎮座している。このあたりをオッカラジャ(乙金沢)と呼び、砂鉄が採掘されたことから、多くの採掘を祈って山神を祀ったのだと思われる。」との記述があります。
手水石(明治20年8月4日)

末社。棟札には「天神様 奉納嶋守勝四郎家内一同」「平成十七年十二月吉日 八戸市豊崎町字高張二十二ノ三 大工 小泉善蔵」とあります。

石が祀られています。






コメント
コメント一覧 (11)
以下は乙金沢と同じくネットにまったく情報の無い南部町の寺下観音ですが、現地で道を尋ねてようやく辿り着けました。
https://x.com/yotuyabeta/status/1822203790885269983
https://x.com/yotuyabeta/status/1822203965234110637
yuki
が
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あくまでも私の経験上ですが、この場合の私有地内は恐らく個人宅のちょっとした庭のことで、道路から見える位置ならば散策して特定はできるかも知れません。現存していればの話にもなりますが。
yuki
が
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https://x.com/yotuyabeta/status/1821836266125848919
https://x.com/yotuyabeta/status/1821836407306129868
乙金沢=剣吉金沢かは判りませんが、大仏から金沢への古い街道はあったようなので、その辺りから探ってみようと思います。
yuki
が
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山の中に神社や小祠・石碑等がある場合、私の経験上では、要衝とまではいかなくとも、当時の重要な生活ルートの一つであった可能性はとても高いと思います。
yuki
が
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以下は妄想です。
なぜ苫米地や剣吉、三戸等ではなく乙金沢なのか?わざわざ石に彫るほどの重要な場所…?と地図を見ていたら大仏から大体乙の方角に金沢を見つけてここかな、と。
現在は何も無い場所ですが、北に上ると浅水城、南に下ると剣吉城、西に進むと寺下観音を経て虎渡から相内館という交通の要衝だった?と考えると、大仏→鷹ノ巣→麦沢→斗賀→金沢と山の中にポツリポツリと目印のように神社や祠があるんですよね。
なので、これが大仏と乙金沢を結ぶルートなのでは!と思ったですが…
やっぱり正確な場所が判らないとなんとも言えませんねえ。
時間が取れたら図書館に行って調べてみます。
どうもありがとうございました。
yuki
が
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神社巡りの参考にさせて頂いております。
唐突で申し訳ありませんが、「乙金澤」について教えて頂けないでしょうか。
というのも、先日八戸市尻内町の大仏地区で
左 右
乙
金 五
沢 戸
と彫られた追分石を見つけたのですが乙金沢が判らなく、無い知恵を絞った結果、乙は「きのと西南西」で、金沢は「剣吉金沢」であり
左(の道から)乙(西南西へ進むと剣吉)金沢(へ至る)
と推測したのですが、こちらや南部町ふれあい公園の記述を見ると乙金澤村が存在していたようですね。
大体の場所だけでも判るとありがたいです。
よろしくお願いします。
yuki
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