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岩手県奥州市胆沢若柳愛宕。はじめ愛宕山神社西方、国道397号沿い、Googleマップで「あたご駅」と「食事処おふくろ」の間にあったこちらの巨大狛犬ゾーンが愛宕山神社だと勘違いして驚きました笑
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神社入口付近。
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奥州胆沢パワースポット「秋田三吉愛宕山神社」
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案内板「愛宕と愛宕社」より…『愛宕は、元々は「愛宕原」と呼ばれ、松林と原野の広がる所でした。江戸時代を通して、ここには一軒の民家もなく、明治になって、いくつかの分教場を統合して愛宕分教場(愛宕小学校の前身)が建設された頃から、ぽつぽつと民家が増加し始め、県道(現在の国道)を定期バスが走り始めると、この地域の中心地として「散居」の中の住宅密集地になり、現在に至っています。愛宕の地名は、「愛宕さま」と呼ぶこの岩山の頂上に鎮座する「愛宕社」に由来します。昭和31年、増沢ダム建設に伴い、上衣川字増沢の愛宕社がここに合祀されました。「愛宕さま」は、火防・火伏せや疫病除けの神様(権現様)として信仰されてきました。愛宕コミュニティのシンボルとして、平成10年、現在の形に整備されました。参道口から三基の石碑が並んでいます。順に「馬頭観世音」「愛宕岩供養」「梵字(十一字)」碑です。平成11年3月胆沢町』
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鳥居。
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石灯籠一基。
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愛宕神社環境整備事業(平成10年9月27日)※特別寄附者名及び協力企業名省略
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馬頭観世音(大正11年)
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若柳は胆沢川中流右岸、胆沢扇状地の扇頂から西部山岳に跨る地域に位置。地名は若稲置(わかいなぎ)からきているとの説がありますが確証はありません。上萩森遺跡は3~2万年以前と推定される県内最古の先土器遺跡。また、戦国期以前のものと推定される鹿合(ししあわせ)館址があります。戦国期の若柳村は伊沢郡のうち。天文3年8月7日、石河越後守は郡主柏山明吉より「若柳村ニ而五千苅」を給されました。若柳要害の関合館は千田氏宅の一帯。北面に土塁・水濠の跡を残します。東西100m・南北50m。館主不明。字兎口の兎口館は土橋から丑転へ抜ける峠上にあります。円郭式の山城(比高30m)。東西200m・南北120m。西辺に空濠があります。館主不明。字市野々の猪鼻館(栄花館)は胆沢川に突き出た断崖上にあります(比高30m)。土塁・空濠によって2郭に分かれています。東西80m・南北160m。八谷冠者定国の家臣某の居所と伝えます。鹿合の鹿合館は胆沢川北岸の山城(比高80m)。本丸北面には馬蹄形の土塁と二重空濠が残ります。本丸南面に伸びる出曲輪には山の神の小祠と「館の杉」(樹齢500年)が立っています。東西100m・南北200m。館主不明。南麓の平場は山居寺の跡とされています。字蜂谷の蜂谷館は奥羽山脈の一角、笹森山系の一嶺、蜂谷山(標高750m)の中腹にあります。天然の巨岩のほかに遺構はありません。文治年間、八谷冠者定国の居所と伝えます。松尾の曹洞宗松原山鳳凰寺は玉室嘉玖和尚の寛正元年開山と伝えており、本山は永徳寺村永徳寺。
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江戸期の若柳村は胆沢郡のうち。明治初年には上若柳・下若柳の2ヶ村に分かれて村名が見えます。仙台藩領。村高は、寛永検地268貫余(田237貫余・畑31貫余)、元禄郷帳2,097石余、安永風土記377貫余(田332貫余・畑45貫余)、天保郷帳3,791石余、旧高旧領3,797石余。明和9年の家数262。安永風土記によりますと、蔵入地53貫余・給地324貫余、人頭282(うち寺1)、家数304(うち水呑14)・人数1,663(男920・女743)、馬444、神社は猿山神社・山神社3・愛宕社・若宮八幡社・牛頭天王社・白山社・熊野社3・伊勢社3・八幡社・伊豆社・七夜権現社、寺院は曹洞宗松原山鳳凰寺・馬頭観音堂5・観音堂3・不動堂・十一面観音堂・大日堂2・地蔵堂があり、修験は羽黒派の明性院・林生坊。猿山神社は坂上田村麻呂が勧請したと伝えており、もとは胆沢郡式内七社の中の1つ於呂閉志神社であったといいます。下堰袋の胆沢川神社も同式内社の1つであり、大同2年郡民の勧請と伝えます(胆沢郡誌)。供養塚は宝永年間に肝入三郎兵衛が一字一石の供養法華経を埋めたものと伝えており、野上田の供養塚も同じであり、西部には経塚山もあります。市野々の御番所は、秋田領手倉村との藩境に設けられた南向縦5間半・横3間の境目番所で、境横目衆が配置されていましたが、寛文3年以前は地内下嵐江に置かれたものです。下嵐江は金・銀・鉛を産出する鉱山としても知られています。元和9年バテレンのカルバリヨが下嵐江銀山のマチアス次兵衛宅に潜伏、同10年逮捕されました。金入道を取り入れ口とする寿庵堰は、キリシタン領主後藤寿庵が元和・寛永年間に開削し、のち千田左馬・遠藤大学が末流の工事を完成。茂井羅を堰元とする茂井羅堰は元亀年間に北郷茂井羅という女性が開削したと伝えています。茂井羅堰は上下胆沢18ヶ村の入会用水で、溜高2,105貫余うち当村分は190貫余。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県、水沢県、磐井県を経て同9年岩手県所属。明治6年上若柳・下若柳の両小学校が開校し、同8年両校が合併して若柳小学校となっています。同10年の生徒数は男子のみ120。同13年の村の幅員は東西約7里11町・南北約5里31町、税地は田402町余・畑172町余・宅地46町余・荒地18町余の計638町余、戸数273(うち農業170)・人口1,997(男1,057・女940)、牛8、馬449、若柳学校の生徒数は男子のみ99、鉱山には砂鉄鉱・鉛鉱・石炭鉱があります。同22年若柳村の大字。同22年以降、胆沢郡の自治体名。若柳村と東田村の一部(旧新里村域)が合併して成立。若柳・東田の2大字を編成。役場ははじめ若柳字松原、のち字供養塚に置かれました。明治22年の戸数372・人口3,110。同32年市野々・鹿合・萱刈窪・野山田の4分校を統合して愛宕尋常小学校が、同34年若柳・新里両小学校を統合して若柳尋常小学校が各々開設。大正12年の家畜は牛42・馬525、同14年の世帯数688・人口4,221。昭和12年胆沢川改修工事に着工。工事費の村負担額は15,232円。同24年若柳中学校を字愛宕原に新築。同年県立水沢高校定時制若柳分校開設。世帯数・人口は昭和23年1,039・6,866(男3,668・女3,198)、同27年1,812・7,714(男4,177・女3,537)。同30年胆沢村の一部となり2大字は胆沢村の大字若柳となりました。同42年からは胆沢町の大字。明治22年の戸数259・人口2,287。大正3年胆沢川電気会社の発電所を字下田に建設。同4年幅員9尺の道路が字馬留まで開通、同12年県道に昇格。昭和8年馬留橋架橋。同28年日本初のロックフィルダムとして石淵ダム完成。同29年胆沢川第一発電所、同32年県営胆沢川第二発電所を建設。昭和30年東田を編入。
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うん?!
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凄い!富士塚みたいです!
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大きさは直径約30m、高さ約15mほどでピラミッド状の岩山です。この頂上に愛宕山神社が鎮座しております。
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ってことで登ります。
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石碑2基と石殿1基がありますが、石碑については上記案内板の説明通りです。
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合目石とか富士山に関するものはありませんでした。
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ちなみにこの岩山は自然にできたものか、人工的に造られたものか分かっていないそうです。
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伝説によりますと、その昔、秋田三吉という大男がおり、三吉はある日のこと、胆沢地域に日本一と称する力持ちがいることを耳にします。「自分こそが日本一だ」と、その男を訪ね力比べをしますがなかなか決着がつきません。イライラした三吉は「俺はここに西山(奥羽山脈)から石を運んで、一夜にして駿河の富士山に似た山を仕上げて見せる」と豪語し、石塊を背負っては凄まじい速さで石を放り投げ、一晩のうちにこの岩山を作り上げたのだとか。
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頂上より。
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愛宕山神社社殿。
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昭和31年に増沢ダム建設に伴って上衣川字増沢の愛宕社がここに遷ったようですが、それ以前から何かがあった場所なんでしょうね。そういう岩山に感じます。元は愛宕神社で、この岩山に遷って愛宕山神社になったのでしょう。そもそも「愛宕」というお地名が残されているので歴史は古いと思います(愛宕はもと「愛宕原」と呼ばれており、後に住民の希望で「原」が削られました。その名残りとして愛宕原郵便局という呼び名に残されています。愛宕の由来になった「愛宕森」は町並みの西はずれにあり、岩盤そのものが御祭神といわれています。愛宕原は「はら」の名が示すように一面の原っぱでした。)。
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なお、当愛宕山神社については上記のように安永風土記に愛宕社と見えますが、それ以外に由緒等詳細はわからず。
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向拝神額「愛宕神社」(昭和32年6月24日)。遷座された時のものですね。
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石殿です。
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