岩手県奥州市前沢陣場。お物見公園。北方に専念寺、秋葉山神社、熊野神社、霊桃寺、南方に山神神社、天神神社、白鳥神社などがあります。お物見公園は鎌倉期には三田氏の居城として、また、藩政時代には大内定綱氏の御物見台として、更に三沢氏の治世中は陣場と称して演武練兵の場となっていました。今日では、桜の名所として知られています。


ぼたん園がありました。

前沢城主の城跡であり、樹齢60年を超える約200本の桜並木は県南を代表する名所になっています。お物見公園に植えられている桜は染井吉野、江戸彼岸、山桜、枝垂彼岸、大島桜、盛岡枝垂、里桜。
前沢中学校跡。
校歌(第16回昭和38年3月卒業生33才年祝記念、昭和54年1月建之、飛翔亥子会、昭和22年23年生、還暦記念事業 平成20年4月吉日改築)。前中校歌(作詞小山■(王+定)・作曲福井文彦)『一、みどり濃きお物見の丘に はるかなる奥羽の山を望み わがまなびやはそびえたつ 新しき日の希望胸にたゝえ ともにたずねん真理の道を あゝわれら若き日を若き日をこゝに学ぶ 二、桜花ゆかしく香りて 静かなるわがまなびやをつゝみ 七百の友こゝに集う 新しき世界の春をめざし 共に築かん理想の里を あゝわれら若き日を若き日をこゝに学ぶ』


軽く散策。

五訓之森(海軍大将子爵齋藤實書)

勅論下賜五十周年記念(昭和7年4月24日、帝國在郷軍人會前澤町分會建設)

伊藤甚吉翁の碑(昭和10年)。碑文は見辛かったので読んでいません。

遠藤梧逸句碑「みちのくの町暗くして山焼くる」(1959年4月29日建之、仙台みちのく俳句会前沢文化協会)


「句碑のある丘に独り耒春惜しむ」風人

還暦記念植樹(昭和60年4月、しだれかつら、大正13、14年生同級生一同)

前沢城は鎌倉時代に三田将監が築いたのが始まりといわれます。三田氏は葛西氏の重臣・柏山氏の家臣でしたが、三田氏は柏山氏と対立し滅亡。葛西氏が豊臣秀吉により改易されると、前沢城は伊達政宗の支配を受け、政宗の家臣大内定綱が城主に任じられました。その後、成田氏、飯坂氏、三沢氏が城主をつとめました。
前澤城址。

前沢城史の碑…崩壊しています…が、何とか読めました。

『母なる川北上を俯瞰し父なる山束稲を仰ぐこの丘はその昔長き歴史を綴る前沢城の址である。鎌倉期の初め三田將監この地に封されるや本丸二の丸を擁する中世の堅城を築き下胆沢一万石の護りをここに固めた。その裔重明義広の名將出するに及んで胆沢の歴史はここを中心に華々しく展開したが故あって三田氏滅び六百年の城史を閉じている。徳川のはじめ大内定綱館を御沢に移してここを御物見台とし三沢氏百八十年の治世中は陣馬と称して演武練兵の場となった。いまここに佇み変転織りなす歴史を思うとき一睡の感傷の中にも御物見の丘こそ我が心のふるさとという感を強くする。鈴木透撰、宮地青柴書』

還暦記念(昭和55年、大正8、9年生)

前沢(前沢村)についてです。

前沢は北上川中流域、胆沢扇状地の扇端部の台地上に位置。地名の由来は「前胆沢」説・「駒胆沢」説・地形説などがありますが不詳。「伽羅先代萩」で有名な政岡のモデルは当地ゆかりの三沢初子といわれます。中世の前沢は南北朝期から見える地名で伊沢郡のうち。舞沢ともあります。「正法年譜住山記」永和2年条に「下伊沢郡舞沢郷之内、椙崎田千苅道於之寄進」とあります。黒石正法寺領として寄進された田地のことが知られます。「柏山平左衛門先祖の事」によりますと、柏山譜代の侍、三田仁左衛門は前沢4,000石を給されていましたが、謀叛の嫌疑をかけられて討死。三田刑部(将監)も同時に自害したといいます。三田氏の滅亡は天正16年頃の出来事かとされます。柏山家宿老としての三田氏の声望は大きく、郡内に肩を並べるものなしといわれました。三田主計にあてた葛西高信の文書1通、三田弾正少輔に宛てた葛西晴信の文書3通などが知られています。なかでも天正15年10月の晴信の文書には、三田刑部が柏山家の陣代として50騎を引率、気仙・元吉方面で活躍したことが記されています。三田氏滅亡後、柏山の一家、小山氏が前沢の領主となりました。三田氏生き残りの1人は和賀鬼柳氏の許に身を寄せました。近世には盛岡藩士となります。字陣馬の前沢城は町並を見下す比高80mの高台にあり、本丸跡は旧前沢中学校のグラウンドで今は公園。東西50m・南北120m。東・南・西の3面は断崖。城主は樫(柏)山彦九郎常治、または柏山平四郎と伝えます。三田氏滅亡後、当地に入部の樫山(小山)氏の一族とも推定。上野の白山社跡は中尊寺白山社の本宮跡と伝えます。檀ケ森は奥羽三十三番札所のうち18番漆寺長谷観音堂の旧跡と伝えます。村鎮守熊野社は天正年間に樫山彦五郎より田地3,300苅の寄進を受けたといいます。中屋敷の一里塚は平泉藤原秀衡時代のものと伝えます。楊生森は八幡太郎義家の的場跡と称します。同じく駒吸清水は義家の馬が吸い出した名水といいます。臨済宗宝林山霊桃寺は鎌倉後期の正応2年仏源禅師の開山、或いは文永6年の開山ともいいます。はじめ興化寺、慶長年間の泰安禅師によって興化山宝林寺と改められ、その後更に現在の寺号に改められたといいます。
江戸期以降の前沢村は胆沢郡のうち。前沢村宿ともいいます。仙台藩領。天和2年以降は三沢氏が知行。村高は寛永検地242貫余(田196貫余・畑45貫余)、「元禄郷帳」2,131石余、「安永風土記」302貫余(田222貫余・畑79貫余)、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに3,022石余。明和9年の家数226。「安永風土記」によりますと蔵入地4貫余・給地297貫余、人頭253、家数282(うち水呑35・借家22)・人数1,362(男733・女629)、馬149。神社は鎮守の熊野社のほか新山社・愛宕社・秋葉権現社・神明社・天神社、寺院は臨済宗宝林山霊桃寺・浄土宗無量山専念寺・曹洞宗光玉山西岩寺のほか観音堂3・釈迦堂・不動堂・聖徳太子堂があり修験は羽黒派常性院。物産は翠・簾・萱。宿駅でもあり、町住居186軒・村住居96軒、町場は七日町2町46間・三日町2町20間・新町2町24間の3町、計7町30間からなります。霊桃寺は飯坂宗章(伊達忠宗の子)の法名から名付けられたもので、天台宗北長谷漆寺として開山され、後に臨済宗の寺院になりました。菅江真澄もこの寺を訪れており「枯れし枝も花の恵をうるし寺となふ御法のしるしならまし」と詠んでいます。寛永3年にフランシスコ・イエズスが来村しており、その教導でキリシタンに入信した九兵衛(ペトロ)は奥州巡教の後に長崎で捕らえられ同7年殉教。邑学「進脩館」は文政年間に宍戸四郎左衛門が三沢宗為に建議して設立されたもので、宍戸は文武両道教授の功により天保6年三沢氏から表彰されています。大火にもしばしば見舞われており、享保9年129戸・明和8年116戸・天保5年105戸が焼失しています。地内の茂木家は高野長英の親戚で、長英が獄中から従弟の茂木恭一郎に宛てた書簡や漢詩の爪書などが現存。慶応4年会津追討の命が下り、三沢氏の前沢隊も総勢150余人の兵を組織して出陣。また、仙台藩から当村に課された御用金は551切5分でした。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県、水沢県、磐井県を経て、同9年岩手県に所属。一時胆沢県庁が三沢氏の居館に置かれました。明治6年下小路に前沢小学校を開設し、同10年の生徒数262(男191・女71)となっています。同13年の村の幅員は東西約1里8町余・南北約27町余、税地は田241町余・畑151町余・宅地54町余・荒地20町余の計467町余、戸数515・人口2,561(男1,275・女1,286)、牛2、馬107、舟7(荷船4・漁船3)、車38。前沢学校の生徒数289(男217・女72)。物産は米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・麺類・茶・生糸・漁網・菜種。職業別戸数は農業391・商業117・雑業2。新町には5等郵便局があります。同22年前沢町の大字となります。
一周してきました。
千田左馬・遠藤大学記念の碑…『縣下第一の米産地帯である胆沢平野も、徃昔は潅漑の途もなき荒野であった。それを今日の沃田と化せしめたのは、350年前の福原館主後藤寿安と共に寿安追放の後をうけて延長17キロメートルの寿安堰を完成した。関郷千田左馬、遠藤大学の功によるものである。当時に於て、斯有る大工事遂行の困難は、眞に言語に絶するものであったが、両先覚は地元農家の指導的家柄に生れたことの自覚、新山権現を氏神とする開拓精神、師寿安に学ぶ奉仕の精神によって、よく地元民の協力を得、その困難にうち克ったのである。堰の近代化既に成り米産の意義亦国に髙からんとするに際し、茲に、その徳を石に刻して、永く後進に伝えんとするものである。昭和41年11月遠藤後一識』・裏面碑文…『寿安堰関係農民建之』

・・・(上部破損)・・・五郎翁顕彰碑(岩手県知事千田正書)。

太田幸五郎でしょうか。一応ネットで「奥州市前沢 五郎」と検索してみたら「ちゃんこ部屋太五郎」ばかりがヒットしました。ごっつぁんです。










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