
秋田県男鹿市戸賀浜塩谷和山。
県道121号線沿いに位置し、戸賀湾・一ノ目潟・二ノ目潟・奥羽山脈・青森県境までもを眼下に眺望できる景勝地となっています。
「高松宮殿下御手植松」

「八望台」という名は昭和27年7月5日に高松宮殿下が命名されたそうです。秋田市で開催されたボクシング全国大会のために来県し、その際に男鹿半島も視察され、八方の雄大な眺望を楽しむことができることから命名(※旧北浦町が景勝地を一望できるこの台地の名称を公募し、その中から最もふさわしい名称を殿下が選定)


菅江真澄の道「一の目潟・二の目潟」…『文化7年(1810)4月12日、一の目潟・二の目潟を眺望する。(男鹿の春風)。鋤台(かんだい)山の峡(かい)をわけ出て、蓼沼(たでぬま)の平(たい)から二の目潟を望み、戸賀の浦の根太島・塩戸のはなれ磯にある宮島を眺めて、芝生に時のうつるまで休んだ。ふたたび大平(おおたい)に来て、一の目潟を眺望した。』

桂宮宜仁親王殿下御手植(平成19年9月3日)

「男鹿国定公園」(副総理環境庁官三木武夫、昭和48年7月20日男鹿市長斎藤久治建立、大洋石材株式会社製作)

抑留回想平和祈念碑。

男鹿国定公園八望台標高180米。

裏面碑文「建立の主旨」…『1945年8月15日、第二次世界大戦終結後、旧満州駐留の日本軍は進攻してきた旧ソ連軍に武装解除されてソ連各地に抑留され酷寒と飢えと病気に苦渋し過酷な重労働に堪えながら、ソ連各地の凍土に眠った秋田県出身者1285名同胞の念を想う時、生きのこって帰還した吾々が、ソ連に最も近いこの地に祈念碑を建て、亡き戦友の霊を慰め世界悠久の平和を祈念するものである。題字秋田県知事佐々木喜久治書』

全国抑留者協議会秋田県連合会。

祈念碑建立協力者。

何かの痕跡。

神社跡か何かかなって思ったけど…

トイレだったりして。

八望台へ。

案内板「八望台」…『八望台は八方の雄大な眺望を楽しむことができることから、昭和27(1952)年に故・高松宮殿下によって命名されました。旧北浦町が景勝地を一望できるこの台地の名称を公募し、その中から最もふさわしい名称として殿下が選んだことによります。展望台からはその名にふさわしく、本山、真山、寒風山を含めた景色を一望することができます。江戸時代の紀行家である菅江真澄は一ノ目潟や二ノ目潟、戸賀湾を望み、図絵を残しており、現在も同様の景色を望むことができます。』※故・高松宮殿下によるご視察の写真あり

菅江真澄が描いた文化7(1810)年の八望台付近からみた一ノ目潟・二ノ目潟・戸賀湾。
八望台…『日本海を一望できる絶景の展望地として名高く東側に「一ノ目潟」、西側に「二ノ目潟」と呼ばれる世界的にも珍しい神秘的な火山湖(マール)をはじめ、北は青森県境、南は奥羽山脈まで望むことができる。この景観から高松宮殿下が、命名されたものである。』

マール(二ノ目潟)
マール(二ノ目潟)…『マールは、火山活動のとき水蒸気やガス爆発によって出来た世界的にも珍しい特殊火山湖である。男鹿半島には、二ノ目潟のほかに一ノ目潟、三ノ目潟の三つのマールがある。』

マール(二ノ目潟)と戸賀湾。
戸賀湾…『前方手前は二ノ目潟であり、その後方に見える戸賀湾は、二ノ目潟と同様、第4の火山湖といわれ、湾内は波静かで海水浴場として有名であり、養殖漁場としても活用されている。また、古くから日本海を通る船の避難場所として知られ、地方港湾(避難港)に指定されている。』

二ノ目潟・戸賀湾…『二ノ目潟は直径約400m、深さ11.8mです。一ノ目潟と同じマール(爆裂火口)の淡水湖で、男鹿目潟火山群の一つです。一度の火山活動で出来た火山を単成火山といい、男鹿目潟火山群も含まれます。戸賀湾は単成火山の火口に海が侵入して形成された湾です。この火山活動は約40万年前に起こりました。火口の周りに噴出物(軽石など)が積もった丘があり、タフリングと呼ばれます。目潟も単成火山ですが、火山噴出物は少量です。』


上空から見た男鹿目潟火山群。
案内板より二ノ目潟と戸賀湾。
一ノ目潟方面。
一ノ目潟。
一ノ目潟…『一ノ目潟は、二ノ目潟、三ノ目潟と共に火山活動による水蒸気やガス爆発によってできた火山湖で、マールと呼ばれ、地質学上貴重な価値を持つ。●一ノ目潟…直径/約600m、水深/42.0m●二ノ目潟…直径/約400m、水深/11.8m●三ノ目潟…直径/約400m、水深/31.0m』

一ノ目潟…『一ノ目潟は二ノ目潟、三ノ目潟とともに男鹿目潟火山群を構成しています。東北地方では唯一の火山形態の一つであるマール(爆裂火口)として知られる淡水湖で、男鹿市の水源にもなっています。直径約600m、水深約44.6mで、6~8万年前に形成されたと考えられています。また、地球の地下深いところから噴き出た岩石である「カンラン岩」が見られる火山として、さらに湖底堆積物の層が縞状に堆積する「年縞」が確認されている湖として、世界的に注目されている貴重な文化財です。』


寒風山。
寒風山…『全山が芝生に覆われた、なだらかな寒風山は標高354.8mで、山頂からの眺望は、東に八郎潟干拓地、南に日本海、さらに秀峰鳥海山、西から北にかけては真山・本山の連峰、入道崎など360度の大パノラマが一望できる。』

真山・本山
真山・本山

真山・本山…『男鹿半島の西部に位置する真山(571m)、本山(716m)は「お山」と呼ばれ、古くから山岳信仰の霊場として名高い。真山神社から門前までの遊歩道(修験道)は約10kmあり、歴史と自然にふれ、天然秋田杉での森林浴が楽しめる。』

浜塩谷は享保郡邑記では浜野塩谷、正保国絵図では浜塩屋とも記され、男鹿半島西端部の戸賀湾の東端に位置。地名は遠浅で天日製塩に適することによると伝えます。
戦国期の浜塩谷村は出羽国秋田郡のうち。天正19年正月17日、豊臣秀吉が秋田実季の当知行地を安堵した朱印状写に、加茂村など5ヶ村とともに「はま塩谷村」84石余とあるのが初見。耕地狭小にもかかわらず開村が早いのは日本海運上の中継地として利用されたためです。戦国期を通じ安東氏領。天正末期、秋田実季は知行制のもとに支配を固め、慶長6年の「秋田家分限帳」では当村3石3斗余が館嶋彦左衛門御代官所支配。
江戸期以降の浜塩谷村は秋田郡小鹿島のうち。秋田藩領。「正保国絵図」では戸賀ノ内浜ノ塩屋と記されており村高の記載はありません。「享保黒印高帳」では村高8石余・当高7石余(うち本田5・新田2)。「寛政村附帳」では当高5(うち蔵分4・給分1)でほとんど変化はありません。村域も中世末期を踏襲。「天保郷帳」では村高7石余。戸数は「享保郡邑記」で15軒、「秋田風土記」では17軒。但し、嘉永期の実態を示す「絹篩」では戸賀村の枝郷とあり12軒。「寛政村附帳」には親郷北浦村の寄郷扱いとあります。半農半漁で小村に終始。楳取立の御留山があります。二ノ目潟を村内に含み、また吉右衛門という狩人が居住するといいます。鎮守は山神社で、他に修験の湯元常楽院末十王堂が見えます。明治11年南秋田郡に所属。同22年南秋田郡戸賀村の大字となります。同29年からは戸賀を冠称、男鹿市の大字となります。
それにしても、もっと有名になってもいいくらいの絶景ですね。あれ!?そういえばブラタモリもここに来てたような…
ってことで調べてみたら…『八望台(秋田県男鹿市戸賀浜塩谷和山)へ移動したタモリさんと林田アナ一行。男鹿半島の様子が一望できる展望デッキで、戸賀湾(とがわん)を眺めました。江戸時代、戸賀湾はマール(水蒸気爆発によるえぐられた地形)による地形のせいで波が静かなため、沖で難破し漂流したロシア船などがたまに入ってくるそうです。そのためナマハゲは遭難したロシアなどの異邦人が日本に住み着いたのではないか?という説もあるとのこと。』とありました。
この後、近くにある大瀑(男鹿大滝・男鹿市北浦西水口大滝沢)へ向かったのですが、途中から道がとても狭くて不安になったので、現地にてネットで調べたら、渡渉するとの口コミがあったので断念しました。

いつかリベンジします。

大瀑入口付近にあった碑。


同じく大瀑入口付近にあった菅江真澄標柱(大滝)…『文化7年(1810)4月12日大滝に着き、旭桜を見る。(男鹿の春風)「その花の あらばやいかに 八重がすみ あさひかげろう 虹のたきなみ」』





























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