
岩手県奥州市江刺伊手御堂。

鳥居。

この鳥居から真っ直ぐ進もうとしたのですが、いきなり木々に遮られていたので車道を歩いて行きました。
車一台が通れるほどの道です。

そこそこ距離がありますが車はおすすめできませんね。

伊手は東及び南は洞山・阿原山、西は七曲山・前田山・銚子山、北は阿茶山などに囲まれた北上山地における丘陵地帯に位置しており、北上川支流伊手川の源流域。地名の由来については「いで」は「いいで」(飯出)であり、食糧(主食)の多く産するところの意とするという説があります。また「和名抄」信濃郷の故地とする説もあります。

中世の伊手は戦国武士伊手高屋氏の本拠地。江刺郡のうち。高屋氏は源三位頼政の後裔、本姓を及川と称します。天正末年葛西氏滅亡の後は南部家臣。伊達家に仕え医術をもって知られた人物もいます。「深秘抄」(奥南旧指録)には、南部家「予参御普代並」の士として「高屋氏 頼政の末流なり 昔葛西清重の手に属し下る 及川 下川原 小田代は高屋氏の別なり(中略)以上江刺家人なり」と記します。天文7年、江刺美濃守信重と気仙高田千葉大膳大夫胤継の合戦が江刺郡伊手郷で行われたと伝えます。伊手町裏の新谷城(荒谷城・古館)は伊手高屋氏の居所と推定。本丸跡山頂(比高80m)には荒谷神社を祀ります。神社裏側には長大な空濠が残っているそうです。二の丸跡の雑木林、馬場跡が東に続きます。山麓には伊手の集落と街道が走っています。東西300m・南北300m。城主は及川左近。天正末年葛西氏没落の際に桃生郡神取山(宮城県)で左近は討死。町裏の愛宕古館、宇津良の宇津良館(館ケ森)も近くです。下伊手新山の下館は連郭式の山城。本丸跡(比高20m)には新山神社が鎮座。館主不明。陣馬館は街道を隔てて下館と対峙。水田の中の島状の丘(比高5m)。館主不明。伊手久田(林崎)の平館も館主不明。林崎屋敷(千田氏宅)裏山の尾根上にあります(比高80m)。伊手久田猪ノ子の建久館は伊手小学校に続く尾根上にあります(比高80m)。平泉藤原氏の家臣、佐藤一族が建久4年に築いたと伝えます。宇津良館は佐藤一族が後に移住した新城といいます。伊手隅川の古館、伊手馬場崎の菊池館、上伊手地神の山谷館、伊手大中田館下の上館、伊手松木田の小野間館などの存在も知られていますがいずれも館主不明。

江戸期以降の伊手村は江刺郡のうち。伊手村宿ともいいます。仙台藩領。村高は寛永検地159貫余(田104貫余・畑55貫余)、「元禄郷帳」1,429石余、「安永風土記」216貫余(田130貫余・畑86貫余)、「天保郷帳」2,206石余、「旧高旧領」2,203石余。天正19年伊達政宗の所領となり、岩谷堂城(旧江刺城)に重臣を配して当地を統治させました。正保2年藤田但馬守が当村荒谷館に転封され、御預足軽20人を上町に置き治安・警備にあたりました。延宝6年、藤田氏断絶の後は奥郡奉行の代官(代官所は岩谷堂宿)のもとで東方大肝入支配となります。村の東南部を上伊手、西部を下伊手、北部を北伊手と通称します。村の中心は荒谷館のある伊手町で、浜街道の宿場であり、享保年間以来幕府巡見使の宿泊が数度に及ぶ交通の要衝であり、町検断・伝馬所・旅人宿などが置かれました。町場は本町・新町からなり、家数63・人数359。寛永19年検地の郷村絵図では東西7,410間・南北5,400間。「宝暦風土記」の人数2,389。「封内風土記」の家数435。「安永風土記」によりますと蔵入地151貫余・給地61貫余、人頭479、家数499・人数2,520、馬743。神社は羽山権現社・深山権現社・稲荷明神社2・戸隠明神社・熊野権現社・疱瘡神社・明神社3・住吉明神社・地神社・神明社・山ノ神社2・八幡社・牛頭天王社・愛宕社2・二渡権現社・宇南権現社。寺院は曹洞宗報恩山明蔵寺・同宗心相山的叟寺・同宗大白山高林寺・真言宗如意山真行寺、修験は自性院・三条院・正善院・大智坊・善教坊・修善坊・長覚坊、他に観音堂・毘沙門堂・大師堂・薬師堂があります。観音堂は廃寺立金山自性院の本尊を祀り、江刺三十三観音霊場第17番札所。陸奥国開拓期の初め紀州熊野権現を勧請したと伝える字角屋の熊野神社では伝統行事として毎年正月蘇民祭が行われます。寛政9年、江刺郡一円の3,000余人による百姓一揆が蜂起し、17か条にわたる訴状をかかげて岩谷堂要害に迫りましたが、当村口沢の清三郎が頭取として斬殺されました。宝暦年間、町医河島潤安が当地に転住しており、医業のかたわら寺子屋を開いて子弟を教え、また文政年間に修験稲田恵俊の寺子屋は寺子100余人に及びました。その他、薬師堂別当稲田直江の他、上伊手に菅野直記、下伊手に高橋西松・佐藤庄治郎らがおり、彼らの寺子屋は明治初年まで続いたといいます。明治6年には伊手・上伊手・下伊手の3小学校が開校。明治元年松本藩取締、以後江刺県、一関県、水沢県、磐井県を経て、同9年岩手県に所属。同年乙第11大区2小区に属し、第2番扱所が当地に置かれました。同12年村役所が置かれ、同17年戸長役場と変わります。明治14年の村の幅員は東西約2里16町・南北約2里1町、税地は田219町余・畑344町余・宅地27町余・荒地52町余の計642町余、戸数477(うち農業468)・人数2,445(男1,255・女1,190)、馬613。伊手小学校の生徒数173(男137・女36)。物産は馬・米・大豆・小豆・柿子・生糸・魚網・薪・炭・姜活・蒼木。また金鉱2か所、銅鉱1か所がありました。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。明治22年以降の伊手村は江刺郡の自治体名。大字は編成せず村役場を字荒谷に設置。江刺郡役所から約3里10町。明治23年の戸数465・人口2,836。交通はほとんど徒歩で、運送はすべて駄馬を利用。岩谷堂~伊手間の乗合バスは昭和2年開通。同26年村井安之助の日本製鉄が銑鉄年間2,900tを産し、昭和20年創業の藤田鉱業は同37年1日の選鉱が1,000tに及びました。同29年伊手集落22戸33世帯を焼く大火があり、同年自動車ポンプをはじめて導入。同29年世帯数750・人口5,039、馬501・牛158、耕地面積550町余、うち田272町余・畑277町余。同30年江刺町伊手となります。昭和30年以降ははじめ江刺町、昭和33年からは江刺市の地区名。町政施行の末端機関として旧伊手村役場に支所が置かれました。

注連縄で繋ぐ巨木間に堂宇が見えました。
上ります。


江刺三十三観音霊場第十七番札所立金観音堂(聖観音)。

江刺88箇所霊場第51番札所。
立金観音堂の名称は廃寺の立金山自性院からきているようです。

御本尊は立金山自性院の御本尊のようです。

堂宇内。
江刺三十三観音参り(江刺春羊会同行者53名、平成9年6月19日)

苔生した手水石。

こちらの石も苔生しており不明。

もう一つ建物がありました。

何かは不明。

石殿が一基。



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