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岩手県花巻市石神町。宮沢賢治の菩提寺。花巻市文化会館、花巻市立図書館、ぎんどろ公園の南方。
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日蓮宗遠光山身照寺。応永元年(1394)創建。御本尊日蓮聖人御尊像。賢治ゆかりの菩提寺として有名で学問成就を祈願します。
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「日蓮宗身延別院身照寺」「宮澤賢治墓所、賢治氏悲願建立の寺」
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フクロウの石像が出迎える石段。
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題目塔(立正安国萬民和樂)
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石神町は昭和29年から現在に至る花巻市の町名。元は花巻市南万丁目・里川口の各一部。町名は当地に石神大権化の石碑があったことに由来すると伝えられています。石神大権化の石碑は天保15年の銘があり、現在鼬幣稲荷神社の裏の丘にあります。寺院は日蓮宗身照寺があります。遠野南部家の菩提寺として南部政光が奥州八戸に建立した身延寺は天正19年焼失しましたが、山梨県の南部日実上人が花巻を再建の地と決め、町有志・信者の努力により身延寺を継承し、昭和21年遠光山身照寺と称しました。昭和27年の世帯数155・人口809(男400・女409)。同29年以降南部の宅地化が進みます。同29年一部が藤沢町・桜木町2丁目となります。昭和40年の世帯数377・人口1,586。
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南万丁目は北上川の支流豊沢川下流の北に位置。江戸期は稗貫郡のうち。盛岡藩領。万丁目通に属します。村高は「邦内郷村志」1,082石余(うち給地94石余)、「旧高旧領」1,272石余。万丁目村が貞享年間頃に当村と北万丁目村とに分村して成立したといわれますが、「貞享高辻帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名が見えず、南北両万丁目村を合わせた万丁目村として記されています。領内では南北2か村として把握されていましたが、幕府へは万丁目村として届けられていたと考えられます。宝暦初年の「万丁目通御代官所惣高」によりますと村高1,082石余、うち役高987石余・新田高3斗余・給所高94石余(伊藤甚之助77石余・佐藤長右衛門9石余・神山義右衛門6石余・岩清水和右衛門1石余・村井勘助2斗余)。「邦内郷村志」では家数29、馬69。「本枝村付並位付」によりますと位付は上の中、家数25、集落別内訳は栗ノ木4・雷4・成田6・石神11、花巻城下御同心丁の吹張町の40軒のうち南の21軒は当村のうちでした。鼬幣稲荷神社は天和元年南部重信により社地が寄進されて仮宮が建てられており、貞享元年に神社として建立。明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同9年の村の幅員は東西約30町・南北約12町、税地は田142町余・畑51町余など計207町余、戸数99・人口483(男258・女225)、馬44。職業別戸数は農業80・工業10・商業4。物産は馬・米・稗・蕎麦・カタクリ・陶器。神社に鼬幣稲荷神社・大神宮、寺院に浄土真宗安浄寺・専念寺・宝寿庵があります。同22年花巻川口町の大字、昭和4年花巻町、同29年4月からは花巻市の大字。昭和27年の世帯数104・人口171(男91・女80)。同29年5月若葉町・相生町・末広町・材木町・吹張町・花城町・石神町・藤沢町・南万丁目となります。元は花巻市南万丁目・北万丁目の各一部。昭和29、42年若葉町の一部を編入し、同51年一部が若葉町となっています。
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本堂。遠野南部家の菩提寺として南部政光が奥州八戸に建立した身照寺(身延寺)は天正19年の焼失以来廃寺となっていましたが、政光の子孫である山梨県身延町鏡円坊住職南部日実上人は、これを残念に思い再建を発願しその地を花巻と定めました。昭和3年宮沢賢治の叔父宮沢恒治ほか町有志及び有縁の信徒は敷地を求め堂宇を建立して、これを南部日実上人に寄進。熱心な法華経の信者であった宮沢賢治は、このとき叔父の求めに応じて「法華堂建立勧進文」を創案。その後、町有志、信者の努力によって身照寺(身延寺)を継承して昭和21年に遠光山身照寺と称するようになりました。昭和26年宮沢家の菩提寺であった安浄寺(浄土真宗)より当寺に改宗されました。
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「身延別院」(身延山九十二世日総書)
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堂内。
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宮沢賢治。
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(内容がかぶりますが…)日蓮宗総本山身延山久遠寺の最古の寺である身延別院を久遠寺開基建立の南部家(波木井南部実長公の一族)が、宮沢賢治氏の援助もあり現在の地に再興。賢治ゆかりのぎんどろ公園のそばにあり、フクロウの石像が出迎える石段を上ると本堂があります。願い、芸事、幸福成就の寺として知られ、受験生も多く訪れます。昭和3年に宮澤賢治の叔父が有志とともに堂宇を寄進し、その際に「法華堂建立勧進文」を賢治が創案。
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堂内にあった資料より一部抜粋(住職牛崎海秀上人談)…『(前略)南朝側の南部氏は北朝側の室町幕府・足利家と対立、これが元で甲斐を離れて当時天領地であった奥州八戸を拝領、根城を築き根城南部氏として一帯を治めます。この領地替えに伴い身照寺は根城内に建立されました。八代政光公は実長公からの法華信仰を守り、応永元年(1394)に身延より日崇上人を招き遠光山身照寺を建立しますが、上人が三年で遷化されたため政光公は身延山九世成就院日学上人を招いて応永三年九月二十五日、実長公の命日に合わせて開堂式を行います。この時に寺号を円公山身延寺と改め、以来身延山最古の別院として根城南部家の帰依を受け発展します。しかし天正年間に焼失し、多くの歴史資料を失いました。江戸寛永年間に根城南部氏は現在の岩手県遠野へ移り、以後遠野南部家となります。大正昭和と時代を経て、遠野南部家三十六代で男爵・南部日実上人が初代実長公からの法縁により出家し、身延山鏡円坊の住職となります。日実上人は南部家が正式に建立した身照寺の廃寺を嘆き、再興のため何度も八戸へと通われましたが叶いませんでした。遠野から八戸への道中にある花巻は宗派関係なくお念仏を唱えていました。今では考えられないかもしれませんが、法華信仰に改宗すると村八分にされたほどです。細々と法華信仰を続けていた人たちが南部の殿様が出家して花巻を通っていると聞きつけ、信仰の支えになってもらおうと家に招いて読経やご祈願、法話をお願いするようになります。すると参加者が次々に増え、法華堂を建立する運びとなりました。創立発起人として賢治さんの叔父・恒治さんが推薦されますが、恒治さん自身は法華経のことを知らない身でした。困りながら家に帰る途中たまたま賢治さんに会い、法華堂を建てるにあたりアドバイスを求めます。この時、賢治さんは陰から援助しますと伝え、一晩で「法華堂建立勧進文」を書き上げ恒治さんへ贈ったそうです。その文章は仏教用語をそのまま用いて法華経がどれだけ素晴らしい教えであるかを説いた名文です。この助言によって恒治さんは発起人を決意し、昭和三年に信者さん達と共に日蓮宗花巻教会を設立します。昭和二十一年になると日実上人は花巻教会を寺院に昇格させ、自らの先祖が八戸根城に建立し、天正の火災以来廃寺となっていた身照寺・身延寺の寺歴由来を継承して遠光山身照寺として再興し今日に至っています。なお本堂には身延山清水坊(内野日運上人)に奉納されていた日蓮聖人像が奉安されており、日本近代医学の祖ベルツ博士が発見し、故あって日運上人に託されていた日興上人発願の霊像と伝わっています。(中略)昭和二十六年、賢治さんの父・政次郎さんから当山に電話があり、自分は身体が良くないので賢治さんの弟・清六さんを遣わせるということで、それが身照寺への改宗の申し出でした。昭和二十七年にお墓を当山へ移し、賢治さんの骨壺を埋葬、角塔婆を建てました。二十三回忌の折に五輪塔のお墓を建て、現在では宮沢家先祖代々と賢治さんのお墓が並んで建っています。宮沢家は元々浄土真宗の家で、政次郎さんは念仏講の代表や筆頭総代を務めるほど熱心でした。僧侶を招いて勉強会を開くなども行っており、賢治さんも幼少の頃から参加していました。風呂敷の中にあった法華経を読み身震いしたというエピソードも家庭に信仰があったからこそです。賢治さんが父と対立したというお話を耳にされるかと思いますが、それは間違いです。親子関係は良好で、信仰面だけは譲らなかったのです。実際に賢治さんの妹・トシさんが亡くなるときに、"お題目で助けてあげなんしぇ"と言っています。日蓮宗へと改宗したのは政次郎さん自身の勉強によるところが大きいのです。この決断がなければ今の賢治さんの姿はなかったでしょう。』・『(前略)寺の周辺には、賢治が教師として勤め、豊かな創作活動を行っていた花巻農学校、現在は「ぎんどろ公園」があり賢治を愛する人々が訪れています。身照寺の開創は、身延山開基の波木井南部実長公の一族に関わります。実長公は八戸根城南部氏の祖とされますが、実際に根城南部氏が、八戸(青森県)を拠点とするのは、四代目の南部師行公が国司代として青森全域、秋田岩手の一部という広域な領地を治め、八戸に根城を築いたことを始まりとします。南北朝時代には師行公以降五代にわたり南朝一筋に尽し、八戸根城は南朝方の拠点とされました。江戸寛永年間に根城南部氏は遠野転封となり、以後遠野南部家と称されます。身照寺は当初、八戸の根城内に建立されました。八代の政光公は実長公からの法華信仰を守り、応永元年(1394年)に身延より日崇師を招き遠光山身照寺を建立しました。ところがこの日崇師が僅か三年で遷化されたため、政光公は身延山九世成就院日学師を屈請し応永三年九月二十五日、実長公の命日を卜し開堂式を挙行しました。この時寺号を円公山身延寺と改めました。以来、身延寺は身延山最古の別院として、根城南部家の帰依を受け発展しますが、安土桃山の天正年間に焼失し、多くの歴史資料を失ってしまいました。時代が変わって大正昭和、遠野南部家(根城)三十六代、男爵南部日実師が、初代実長公からの法縁により出家し身延山鏡円坊の住職となっていました。ちょうどその頃、花巻では法華信仰者が増え、遠野花巻と縁のある日実師をお招きしました。日実師もまた故郷奥州の伝道を志し度々花巻を訪れるようになると、昭和三年、信者らと共に花巻教会を設立、折しも身延山清水坊(内野日運師)に奉納されていた日蓮聖人像を寺に奉安しました。この尊像は、日本近代医学の祖ベルツ博士が発見し、故あって日運師に託されていた日興上人発願の霊像と伝わります。昭和二十一年になると、日実師は花巻教会を寺院に昇格させます。自らの先祖が八戸根城に建立し、天正の火災以来廃寺となっていた身照寺・身延寺の寺歴由来を継承して遠光山身照寺として再興し、今日に至っています。』
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境内はしだれ桜の名所!!ですが、季節外れの参詣です。山梨県の総本山久遠寺から贈られた桜。
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日が落ちてライトアップされればこんな感じらしいです。花が空から降ってくるかのような圧巻の光景とのこと。樹齢は94年。
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身照寺しだれ桜…『しだれ桜で有名な山梨県の日蓮宗総本山身延山久遠寺様にある桜の姉妹桜です。身延山久遠寺並びに身照寺を開かれた南部家によって御手植えされた桜です。春の開花には、薄紅色の花が華麗に、そして優雅に枝垂れ一面に咲き誇ります。その姿はとてもきれいで見事な桜です。開花の頃御来寺の上、御覧下さい。』
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本堂裏手には宮沢賢治のお墓があります。毎年命日の9月21日に墓前供養会が行われています。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という優しくも厳しい言葉を残した賢治の世界観を思いながら祈りを捧げましょう。
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フクロウがいるのでお墓までは迷うことはありません。
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身照寺之由緒…『日蓮宗の総本山身延山久遠寺の別院として、熱心な法華経の信仰者であった賢治さんの御尽力も頂きながらこの地に再興建立された寺です』
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当山開山・開基歴代上人の墓碑の側面に身照寺の由緒が側面に刻まれています。
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『南部政光公に依り八戸根城に創立せられたる遠光山身照寺、圓公山身延寺(勅願所、身延山最古の別院)と傳えらる。南部家菩提寺と昭和二十一年九月十二日遠光山身照寺を再興せるものなり身照寺中興開基・南部家三十六代大信院日實』
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向かって左が宮沢賢治供養塔、右が宮沢家先祖代々之墓。法號には「真金院三不日賢居士」とありました。賢治の葬儀は安浄寺(浄土真宗大谷派)で行われましたが、後に身照寺に改葬されたといわれています。今も賢治を慕う多くの人々が花を供えています。
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