
秋田県大館市曲田。

曲田村鎮守の八幡神社。
曲田はかつて「まがった」とも呼んでおり、西流する米代川の中流域北岸部に位置し、北方に鞍掛山の山地を負います。耕地は狭少で不良湿地帯にあり地名の由来となっています(「マガ」は「ゆがみ」・「悪」の意)。西方の中山地区との境付近の山麓部に縄文早期~前期の土器片を含む野沢袋C遺跡及び土師器・須恵器片を出土する野沢袋B遺跡があります。江戸期以降の曲田村は出羽国秋田郡南比内のうち。秋田藩領。十二所所預の管轄下の村。正保国絵図及び元禄7郡絵図ともに23石の村として図示。その後は中山村を枝郷として一時は曲田中山村と称しており、享保年間の郡村改めで両村分立。親郷十二所町の寄郷として享保黒印高帳では村高151石余・当高88石余(うち本田25・本田並24・新田39)。寛政村附帳では当高90石余(すべて給分)。天保郷帳では88石余。用水は鞍掛山から流れる小沢川と、集落西北部に構築した堤用水によります。安政年間、豪農畠山武左衛門は1里余の曲田堰用水路を開削し、20町歩の開田に成功しています。給分は文化年間の大館給人児玉氏を含む多数の十二所給人らに細分給。戸数は享保郡邑記で22軒、秋田風土記で25軒。安政年間には30軒・145人・馬81頭。村鎮守八幡社のほか鞍掛山に淡島社が鎮座しており、近村住民の崇敬を集めています。明治11年北秋田郡に所属。同22年北秋田郡十二所町の大字。同22年以降ははじめ十二所町、昭和30年からは大館市の大字。

両部鳥居。

境内。
末社の稲荷社。荒れています。

こちらも稲荷社かな。ちなみに神社庁によりますと境内神社として相善社、稲荷社、庚申社があります。

石殿一基があります。

境内社。

向かって右から…馬頭観音社です。棟札には「昭和四拾四稔九月十五日社殿改築曲田郷中之修」とあります。

唐松神社です。神額には「昭和七年旧九月十五日曲田村講中」とあります。石殿には棟札も納められています。

観世音尊霊。木札には「昭和七年旧九月十五日曲田村講中」、棟札には「奉齋観世音尊霊御鎮座建保六年春月」とあります。建保六年!!

御神木。
参道。
石灯籠一対(昭和3年5月11日)


神厩舎。

こちらは読み取れず。

御神馬。

社殿。現社殿は本殿拝殿兼用の建造物であり、修理等が行われているものの、古くからの原型を保ちながら今日に至っているそうです。なお、再建・修復年代については不詳。
御祭神は応神天皇、天照皇大神。例祭9月15日

大同2年創建と伝え、旧十二所町唯一の古社。明治43年5月に曲田字沢口にある無格社神明社を合祀。

社殿裏には広い敷地があり駐車もできます。

裏参道付近にあった庚申塔。ツタで詳細は見えず。

曲田基盤整備事業碑(曲田土地改良事業共同施行)…『ここ曲田の田地は所々に林檎園あり、原野あり、少しの日照りでも干上がって了う小さな沼があったりで農道は個々の田地に行けない状態や農業機械が交差出来ない状況でした。用排水路と殆んど兼用水路でした。この様な実態では農業の近代化は望めないと深くその憂いを心に抱いておられた今は亡き畠山久太郎氏が先駆者となって関係者全員の同意を得られ共同施行として揚水機事業を手始めに区画整理事業を第一期第二期と三年の歳月要して成し遂げられたのであります。着工より二十年の月日を経た今借入金の返済も無事終了し経営の合理化を計り、より安定した農業を目指し一層明るい曲田社会を築き上げたい願いから茲に銘し記念するものであります。』



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