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三戸郡南部町森越上小路。
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森越についてです。
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かつては森之腰とも記しています。名久井岳の東北方、馬淵川右岸の河岸段丘上に位置しており、馬淵川を挟んで剣吉・斗賀と相対します。集落の東と西を小流が南から北上、それぞれ狭長な沢を形成しながら馬淵川に注ぎます。北部は馬淵川流域盆地に臨み、南部は緩やかな丘陵地帯。地名の由来について確説は存在せず、当地の方言で土地の小高い所を「もり」ということから丘の中腹の意味ではないかとの推測。縄文遺跡が数ヶ所に散在しており、早朝・前期・後期・晩期の土器破片を出土。森越野月遺跡からは県重宝の早朝尖底土器を出土し、館野遺跡からは土師器を出土。この土師器は奈良期のものとされ、籾や麦の圧痕のついたものもあります。集落の南西端に森越館跡があり堀の一部が残存。
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戦国期では森之腰と見えます。糠部郡のうち。永禄10年頃と推定される10月16日の南部晴政書状に「四戸殿人馬別ニ被立馬、見吉・森之腰へ被致打立、かせき被申候」、同日付の東政勝書状案に「昨日も四戸殿人馬別ニ被立馬候而、森の腰しふりをとらせ候而、二階之にをゝ悉被為焼候」と見え、四戸氏が当地を攻撃しています。当地の森腰館には剣吉館主北氏の一族北十兵衛が在城していました。永禄年間の南部一族の内紛の際に北氏は反晴政派となっていたため攻撃を受けたと推測。
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鳥居。ちなみに紹介するのは関連はするものの同地区にある森越稲荷神社ではありません。森越稲荷神社は別記事にしております。
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橋を渡ります。
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橋を渡ったすぐ正面に小祠。
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稲荷神社。
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御祭神は速開都比賣大神、大綿津見神、建御雷神、元三大師、慈覚大師、智証大師、伝教大師、弘法大師、根瘤大師…あれ?稲荷神社じゃない!?御祭神が独特ですね。
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改修工事棟札奉納者…『西舘勉、西舘貞明、堀内進、栗生智恵子、四戸富三、久保田与吉。管理者堀内良一』
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稲荷神社なんですね。宮司八木田義廣。平成10年7月19日。
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石塔群。
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いずれも読み取れず。
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諏訪明神。
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神社前の風景。
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神社の横には北十左衛門(北重左衛門)の首塚があります。森越館について名川町教育委員会が平成2年3月に発行した「名川町歴史マップ」には次のように記しています…『森越部落の南西、現稲荷神社のある丘である。剣吉城主北信愛の養子北重左衛門の居楯である。九戸戦前天正初年(1573)頃の「南部方舘持諸士の石高」に森越五百石北十左衛門とある。また、慶長3年(1598)10月「三戸御在城中高知并平士館持御支配帳」にも森越舘三百石北重左衛門と記されている。永禄10年(1567)頃と思われる10月16日付南部晴政書状、同じく10月16日付東政勝書状に森の腰に兵馬を出し戦をしたとあり、南部内紛の攻防で当舘も剣吉の配下として攻められたと判断される。重左衛門は文武に秀いでた人物であり、鹿角郡白根山、尾去澤の金山を開発し、金山奉行を勤め藩に非常に貢献し、諸候の間では南部家の名声を冠たらしめたが、後に大坂夏の陣には豊臣方に走り、戦後捕えられ南部利直(27代)に酷い極刑に処せられた。利直が二股政策の犠牲にしたとも云われている。参考文献「青森県の地名」「二戸郡誌」「南部諸城の研究」「青森県史」』。このように森越稲荷神社は、北十左衛門をはじめとする北一族の氏神様でもあったわけですが、北十左衛門は岩手県盛岡市の小鷹処刑場で、むごたらしい最期をとげています。その小鷹で初めて処刑されたのが北十左衛門であり、現在その場所には供養塔が建っています。供養塔については平成3年11月発行(デーリー東北新聞社発行)の「南部の碑は語る」にて次のように記されています(一部抜粋)…『小鷹に処刑場ができたのは、元和元年(1615)のことだったという。処刑第一号は北十左衛門で、彼は南部家の重臣・桜庭安房の次男で、母は名家老といわれた北信愛の妹という名門に生まれ、南部二十七代利直公とは血縁の関係にあった。文武に秀で、鹿角の金山奉行であったが、慶長17年(1613)、多額の公金を横領して出奔してしまった。翌年、豊臣方と徳川家との大阪の陣が起こると、この時、利直公は徳川方に属して出陣したのだが、いくさのさ中"南部十左衛門"という銘が入った矢が大阪城から飛んできて、利直公は困り果ててしまったという。十左衛門は、出奔してから大阪城に入り、十万石格という重い身分で、豊臣方の部将に列していたのである。その後、大阪城は陥落し、十左衛門は捕えられ、南部家にお預けとなり、小鷹で処刑されたのであった。手足の指を一本ずつ斬られた後、利直公自らが弓を取って躬殺したといわれている。この刑場ではその後、火あぶりの刑、のこぎり挽きの刑など数々の処刑が執行され、有名なものでは、蓮子(のちの三十一代藩主南部信恩公の生母)の父・岩井与一郎がキリシタンという罪で処刑されたのもここ小鷹である。そして、小鷹で最期の処刑が行われたのは、明治4年(1871)3月28日であったという。今日では、ここ処刑場があったなどとは想像もつかないが、日誠上人(法華寺18世)が建てた慰霊碑(天保7年建立)のみが、その生き証人として、われわれに語り伝えているのである。参考文献「もりおか物語」「盛岡市史」』
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北重左衛門直連(北十左衛門直連)の首塚。
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結構新しいものです。
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もしかしたら隣にあるこちらが旧首塚の標柱かも知れません。
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碑文…『(梵字)森越館主北重左衛門直連公之御首塚』・『捐館北旭院重孝直心禅定門 麾下 将士霊位 三百八十年大遠忌』・『熊野本宮大社 平成十五年四月 称十左権現』・『没後三百八十年にして法号を授ける。法光寺楢山武徳大和尚 平成六年九月建立 森越 岩間美千雄 八戸 名久井功雄 関川文男』
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(案内板)「悲運の武将北十左衛門の首塚」より…『北十左衛門(1569~1615)桜庭光康二男母方の伯父北信愛の家系に列し、森越村・下坂村を治める。南部領を侵した和賀忠親の伊達政宗勢を撃破した弓馬に長ける闘将であり、いっぽう、羽州鹿角郡に白根金山を発見その経営に敏腕を振るい、南部藩初期の豊富な財政づくりに貢献した偉才の武将である。豊臣・徳川の天下分け目の争乱が起こるや、藩主南部利直の密命により大阪城の豊臣方に参陣するが、戦いに利なく敗れ捕われの身となった。徳川方に着いた利直は将軍秀忠から二心ありと詰問されるが、藩存続の危機に密命はかくされひとり十左衛門だけ責められ、盛岡仙北原で利直により処刑される。なきがらの首は夜陰に乗じて持ち出され、十左衛門の曾ての居城ここ森越館の一角にひそかに葬られた。この処いまに至るまで首塚と言い伝えられてきた。首塚は藩の存続に命を掛けた悲運の武将北十左衛門直連公を偲ぶことができる森越ゆかりの碑である。平成十六年三月三十日名川町教育委員会』
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