三戸郡南部町森越上小路。剣吉城主北信愛の養子北重左衛門愛吉の居館だった森越館の南西丘陵地。旧村社で館神として祀られていたのが森越稲荷神社です。本殿の背後からは旧北川村を一望に見渡すことができる場所に鎮座(※現在は鬱蒼としていて見渡せませんが)。かつては森越集落に限らず、多くの近郷在住の人々が参詣した社でしたが現在はひっそりと鎮座しております。
社号標(平成8年12月吉日名久井タマ73才奉納)

手水舎。

手水石(昭和46年9月3日)

参道。
灯籠一対(平成8年4月吉日、家運隆盛・家内安全、願主名久井勲)


参道脇に巨木の切株があります。


御神木。
巨木です。
参道。
狛犬一対(昭和53年9月3日、稲荷神社唐獅子建設委員)


石灯籠一対(明治30丁酉年9月29日)
関連記事:『稲荷神社・森ノ腰城跡(南部町)』
間口5間・奥行3間の拝殿に2.5間四方の幣殿・本殿。旧村社。御祭神は宇賀能御魂命。例祭日7月17日。名久井勲談話によりますと、例大祭は毎年11月3日であり、角力大会を催していたそうですが、11月では寒過ぎて角力大会ができなくなることも多く、10月3日に変更し、更に9月3日に変更されたそうです。昭和27年9月26日に県神社庁に提出した神社明細書によりますと、氏子数83世帯、崇敬者数249人、例大祭9月13日、春祭4月3日、秋祭12月23日、元旦祭1月1日と記されており、「大正四年七月三日、幣帛供進神社として指定せられた。昭和二十五年十二月二十二日、指令第四一五一号を以て國有境内地六八参坪〇五を神社有地として譲與せられた。」とあります。

境内地984坪、本殿1坪、幣殿2坪、拝殿15坪。
文亀元年(501)頃、宇賀能御魂命を祭祀申し上げて御創建。その後文政10年(1828)社屋の改築が行われ、昭和46年には御鎮座500年を記念して新築。
拝殿向拝蟇股・木鼻等。

拝殿向拝神額。

拝殿内。文化3年10月、森越村で疫病が流行した際に、当社で悪疫退散の祈祷と執り行っており、八戸藩日記には次のように記しています…『十月十五日晴 一湊九郎太口上書 口上 私拝知森越村、当早春頃より疫癘甚流行仕、追々人別相煩死亡之者数人御座候間、田畑仕付等も任所存兼、勿論手入行届兼甚不作仕候、然処今以家並相煩居、且前々相煩候者共も一切肥立早我取不申ニ付、当作毛尓今苅収不申、作場ニ其侭打捨置候者共御座候而、追日朽果或は手遠之場所は不残鹿荒相成候得共、村方一統之儀ニ御座候間、互ニ助力を以取収候様も無御座、殊病症柄ニ付、他村よりも礑と立会申者も無御座、旁病中看病人無之体之者共は飲食も仕兼候体相聞得候申候、依之村方鎮寺於稲荷庵ニ祈祷執行も為仕、医師も無油断差遣申候得共験無御座、今以太病人共数人相聞得不安心奉存候、右ニ付、人馬等一円召仕候様無御座、第一九月金より年貢相滞申候間、暮金之者勿論無覚束奉存候、右ニ付、麦作一切仕付不申候付、来年迚も百姓共取続方有之間敷、旁私儀追而勤仕相支迷惑至極奉存候、不成一通次第ニ御座候間、此段一先申上置候、宜破仰上可被下候、奉頼候、以上 月日 湊九郎太 御目付役宛様付』

幣殿・本殿。本殿の中には御神体として数枚の棟札が納められており、宝暦11年の棟札をいると北氏の根拠地、剣吉の氏神として「稲荷大明神」の他、「法霊大権現」「月山大権現」の三柱を祀っています。安政6年には「正一位」の格を得、明治になり森越稲荷神社となりました。※棟札1…表『天長地久宝祚興隆将軍庄徳当国鎮主武運長久 法霊大権現 陸奥国三戸郡剱吉村稲荷大明神 三座 月山大権現 国家静謐五穀成就風雨随時万民息災延命豊鐃』・裏『旹宝暦十一辛己歳九月三日 代三世前社司 大高兵庫頭藤原正供 代四世前社司 大高右京藤原光貞 神祇官領長上從二位卜部朝臣兼雄卿御門第 代五世社司 大高因幡守藤原善正修行謹書』。棟札2…表『正一位稲荷大明神安鎮之古文 右雖嶌本宮之奥秘■格別之願望略式修封之 厳■令被■焉 祭祀慎之莫怠也 山城国紀伊郡本宮祠官』・裏『安政六年三月豊日正四位 陸奥国南部三戸郡八戸通剱吉村 出町喜八郎殿』。棟札3…表『青森県第九大区六小区陸奥圀三戸郡森越村鎮守稲荷神社星霜己久雨蝕露敗清宮既廢礼典有闕故今脩造輝其旧儀鳥冀神明垂感応四海艾安部内康楽風雨須序梁殻豊登矣 敬白』・裏『明治七甲戌十一月七日 祠官小笠原長知 准祠掌小島宝二美 七口区准祠掌大高織江 戸長 苫米地魯也 副戸長古館左平 同盛域證 組頭工藤徳次郎 上名久井村大工砂葉吉五郎 惣代久保田甚五郎 名久井弥惣治伍長■一統』。棟札4…表『昭和二十年旧十二月三日奉齋宇賀能大明神鎮座建立 招福長命子孫繁栄 社守 名久井由太郎』・裏『大工 三戸郡田部村大字森越 名久井由松』。棟札5…表『奉新築青森縣三戸郡北川村大字森越字上小路九番地鎮座稲荷神社御本殿一宇 国家安奉 風雨随時 氏子安穏 梁殻豊饒』・裏『総工費金拾壱万七阡八百八十円也 氏子人天弐百八拾人 馬車八台 昭和弐拾九年九月六日竣工(陰暦八月十日)白米壱升金壱百弐拾円 清酒壱升金四百八拾円 大工作料壱回四百円 氏子総代兼責任役員岩間千之助 仝久保田弥太郎 氏子総代田中源太郎 仝中林要之助 仝岩間典七 総代田中牛次郎 社守名久井興三郎 部落総代久保田市太郎 仝副総代中林由次郎 仝副総代名久井重三郎 部落評議員久保田平■郎 仝岩間芳雄 仝竹之内馬次郎 仝奥谷末吉 宮司八木田政衛 工匠梁名久井由松 戸番走茶立場弥七郎』

記念碑(社殿新築)碑文(名川町長工藤専吉書)…『森越稲荷神社は、今から凡そ五百年前、宇賀能御魂命を、祭祀申し上げ、御創建されたものであります。その後文政十年社屋改築され今日に至ったのでありますが、老朽いちじるしく、昭和四拾六年御鎮座五百年を記念して新築に踏み切ったのであります。總工費弐百四拾萬円でその主な内容は、工事費百拾萬円、施設費八拾萬円、製材費弐拾萬円その他諸経費参拾萬円であります。そしてこれに要した建設工事費一切は氏子達並びに篤志方々の御寄進によるものであります。使用材料は部落有林から、伐採製材したものですが、厳寒の一月原木の伐採作業、運搬、そして製材と氏子達全員による奉仕作業が雪と斗かいながら行なわれました。この間工事竣工まで四百人に上る奉仕作業が続きました。私達はこゝに稲荷神社を再新築申し上げ、平和な森越部落を築き上げる様、神の御加護を戴くために祭典を奉仕して、神慮を慰さめ道義立国の基を拓いて、人類正義の精神高揚に微力を捧げようとするものであります。昭和四拾六年九月二日建之』

裏面は稲荷神社社屋新築寄附者芳名。

崩壊している石灯籠。


こちらには「稲荷神社」とあります。※手前の石は読み取れず

紀年銘は大正11壬戌年旧3月。

こちらは読み取れず。一ヶ所だけですが矢穴のような穴があります。

末社。稲荷神社のようです。棟札には「奉齋宇賀能大明神鎮座建立 昭和二十年旧十二月三日 招福長命 子孫繁榮 社守名久井由太郎 大工三戸郡田部村大字森越名久井由松」と見えます。そういえば「森の腰舘の白龍大明神」もこちらにあるのかと思っていたのですが違う場所のようですね。どこだろう?白龍大明神の小祠(堀内良一管理)は森の腰舘水堀り沿いのヤグラ竹に囲まれており、中には高さ約1mの自然石を御神体として祀っているそうです。小祠の隣には弘法大師碑もあるようです。

新撰陸奥国誌によりますと「稲荷神社境内五十四坪本村の西にあり 相殿 厳島神 祭神厳杵島姫命 旧は福田村の鎮座にして享保九甲辰年九月二十九日の勧請なりしと云ふ明治六年九月遷し祭る 月山神 祭神 月読命 右同日法師岡村より遷し祭る 本社旧三間四方東向鳥居一基あり何人の勧請にて何の頃の草創にや宝暦十一辛巳年四月再建せりと云り明治六年十月二十七日本社炎上して再建末た就らす准祠掌中野大三司る」と記されており、稲荷神社の他、境内末社として厳島神と月山神が勧請されていたことがわかります。

境内の西南に一間半四方の行屋堂が建っています。出羽三山参りの際に精進潔斎する場所です。

稲荷神社境内の一画にありますが、微妙に入口は別になっています。入口から来ればこのように正面に石塔が数基建っています。


そして入口脇に道(下り坂)がありましたが、何となく険しそうだったので行ってません。

十和田山(天保15甲辰年7月吉日、當村若者中)。十和田山へ参詣する際も当行屋堂に籠ったと推察されます※隣の石塔は読み取れず。
出羽三山(湯殿山大権現・月山大権現・羽黒山大権現、慶應3丁卯年9月8日立)
これらの石は不明。


部分的に「大正5年1月8日田中丑松」と読み取れますが。

手水石。

「月山大神・羽黒山大神・湯殿山大神」。昭和53年の出羽三山参詣並びに行屋堂新築記念碑です。昔から現代に至るまで、森越集落では出羽三山参詣が盛んだったことがわかります。

行屋新築記念寄附者御芳名。

行屋。



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