1
秋田県鹿角市八幡平堂の上。大日霊貴神社(大日堂)。鹿角観音霊場第17番。社務所はすぐ近くの八幡平小豆沢地区にあります(平安神社)。
2
参道正面の新しい建物ではございません。
3
この参道を左に直角に曲がった門の先が正面です。
4
神社入口にあった庚申塔。
5
平成御修復記念奉賛者芳名碑。
6
当大日霊貴神社は近くにある五の宮岳やだんぶり長者伝説に関わる神社で、だんぶり長者伝説における鹿角市の小豆沢・長牛及び大館市比内町独鈷の大日霊貴神社の内、小豆沢の大日霊貴神社になります。
7
継体天皇が大日神とダンブリ(とんぼ)に導かれてこの地域を開拓したダンブリ長者の徳と、娘の吉祥姫(継体天皇の后)の御霊を慰めるために建立したのが始まりとされています。ダンブリ長者の伝説については長くなるので省略します。ネット上でもたくさん掲載されているでそちらを参照ください。
8
手水舎。
9
石灯籠一対(嘉永5壬子歳7月17日)。
10
10.5
牛一対。
11
11.5
石灯籠一対(明治41戊申年4月)。
12
12.5
狛犬一対。
13
13.5
御祭神は天照皇大神、菟皇子命、吉祥姫命、大己貴命、少名彦命、豊宇気毘売命、猿田彦命、天宇受売命、大鞆和気命、素盞嗚尊、崇徳天皇、伊弉册尊、保食神。例祭日は1月2日・4月28日。特殊神事として大日堂舞楽(国重要無形民俗文化財、ユネスコ無形文化遺産・1月2日養老例祭)があります。
14
社伝によりますと、継体天皇の御代、高徳により醴泉を授かった長者の善行を伝えようと、善記2年(継体天皇17年・西暦523年)勅願により大日示現社を創建。元正天皇の御代、美濃に醴泉湧水し、孝子の徳行により養老と改元され、この地に伝わるだんぶり長者の物語を奏聞したところ、名僧行基を下向させ、養老2年(718年)9間4面の大日社を再建されました。この時行基に随行した工匠・音楽師等が、里人に舞楽を伝授したのが、現在の大日堂舞楽です。以後、両部神道の堂社として崇められ、寿永2年に鎮守府将軍藤原秀衡の命により、堂社の大修理が加えられ、文明18年に南部家15代政盛の命で大日堂を修復した棟札が記録上最古です。元和2年、27代藩主南部利直から社領80石余を寄進され、明治維新まで85石の社領を1里4方の山林の社地によって維持されてきました。寛文5年の大晦日の火災にて大日堂及び尊像を焼失しましたが、29代重信により直ちに復建され、以後南部家崇敬、八大社の1つとして、社殿の修理が藩主の命により度々施されてきました。昭和24年社殿全焼し、同26年に拝殿は元の9間4面の土台に建立し、幣殿本殿を増築して、同31年竣工。
15
大日堂舞楽(養老礼祭)の起源…元正天皇の養老2年(718)、天皇の勅令により大日堂が再建された際、行基とともに都から下向した楽人が舞った祝賀の舞楽が里人に伝えられたものと云われており、今日まで伝承されてきました。その年の国土の平安・五穀豊穣・無病息災などの祈りを込めて、毎年正月2日に奉納。養老年間に始まった時から、舞楽を行なう人たちには土地が与えられ、地付神役とされてきました。江戸時代も南部藩から田畑などが与えられるなど崇敬されてきました。昭和27年に当時の文部省から無形文化財の指定を受けたのを期に大日堂舞楽保存会を結成し舞楽の伝承に努めています。昭和51年に重要無形民俗文化財に指定され、平成21年にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。
16
大日堂舞楽は、舞人全員が舞う神子舞(みこまい)・神名手舞(かなてまい)、本舞と呼ばれる七つの舞(権現舞・駒舞・烏遍舞・鳥舞・五大尊舞・工匠舞・田楽舞)が4つの集落により奉納されます。小豆沢は権現舞と田楽舞。大里は駒舞と鳥舞と工匠舞。長嶺は烏遍舞。谷内は五大尊舞を担当。舞楽を行なう人たちは厳しい精進潔斎をして舞楽にのぞみます。当日は早朝に各集落の決められた所に集まり、身を清め、集落の神社などで舞楽を舞ったあと、行列を組んで大日霊貴神社へ向かいます。境内に参集して整列するとお祓いを受け、地蔵舞(旧地蔵堂前で行なう権現舞)を舞います。これが終わると幡笛に合わせて行列を組んで境内を3周する幡綜(はたへい)、次いで神社の階下で花舞(神子舞・神名手舞・権現舞)が行なわれます。花舞と同時に堂内では籾押しという農作業を踊りにしたものが舞われます。花舞を終えた能衆は堂の外廊を3周すると、龍神幡を持った若者たちが堂内に走り込み、幡を殿上へさし上げ、更に梁にあげられて掲げられます。各集落の能人の神子舞・神名手舞に続き、大小行事により舞台が清められたあと、宮司により祝詞が奏上され、7つの本舞が奉納されます。
17
かなり大きな社殿です。
18
拝殿向拝神額「無限敬愛此郷 無涯心據此社 昭和50年42歳年会一同 昭和51年4月28日掲額 金澤正司書」(42歳年会一同名省略)。
19
鹿角総鎮守大日霊貴神社御神徳。
20
拝殿内。
21
外から見るよりも中の方がかなり広く感じます。
22
秋田県内の社殿建築では最大級とされており、舞楽を演じるのにふさわしい空間構成がなされています。
23
なお、文政3年(1820)10月7日付で、相馬大作事件で相馬大作が第1回の現場視察の折、内部の板壁に書いたと言われる文書が残されていましたが火災により焼失しています。
24
天井。
25
平福穂庵筆の武者絵2面。間に大きな天狗の面。
26
牛(杉本峯泉)。昭和12年牛年生・宮麓会奉納。絵には宮麓会田中光夫・阿部公子の名があり、その下に東京宮麓会と地元宮麓会の氏名が書かれた額があります。
27
こちらも牛(鹿角市花輪昭和49年62歳寿会有志奉納)。いずれもかなり上に掲げられているので近くで見ると相当大きいでしょうね。
28
2009年ユネスコ無形文化遺産登録記念奉納(畠山彦義・彦人)。
29
その下の版画。
30
30.5
境内の神木姥杉(※昔の写真)。
31
周囲にも色々飾られています。
32
拝殿前から見た境内。
33
社殿横の英霊塔。両脇の石柱には「八幡平軍恩支部」「八幡平遺族会」。
34
英霊塔の隣の建物。
35
大日尊神馬。
36
地蔵尊。
37
神木姥杉。
38
38.5
神木姥杉…『往古より境内におじ杉おば杉の二大老杉あり、吉祥姫の父君ダンブリ長者、神籬と崇めたとも言われ、おじ杉は数百年前枯死す。おば杉は巍然として社前に聳え、神木として貴ばれる。寛文6年正月昭和24年11月火災に罹り近年著しく枯腔衰弱昭和47年9月剪除す。樹齢1500有余年・樹高40米周囲10米。』
39
大日堂の板碑。
40
板碑一基(鹿角市指定有形文化財・正安2年)。不整五角柱で三面を碑面としています。大日堂別当家により法花一字一石の供養の三尊石として語り継がれてきました。江戸時代には表御門の右にありましたが、明治初年の廃仏毀釈の際に、人目を避けるように本殿左側にある金刀羅宮の右側に移され、昭和54年に再び表御門の右方に戻されました。種子の下に施主として藤原朝臣の刻銘があります。これらの銘は種子に比べ細く浅く彫り付けられています。輝石安山岩。地上高80cm、碑面幅24cm、23cm、19cm)。
41
標柱「板碑一基」(鹿角市指定有形文化財(考古資料)・昭和54年2月21日指定)より…『ややずんぐりとした五角柱で、三面を碑面としています。正面には正安2年(1300)の銘が、また左側には施主として藤原朝臣の刻銘があります。大日堂別当家によって三尊石として語り継がれてきました。』
42
案内板「大日堂の板碑」(八幡平史談会・東京八幡平会)より…『大日堂境内の板碑は、鎌倉後期の紀年銘をもつ、秋田県内、最古に属するものである。江戸時代には、その種子(梵字)が阿弥陀三尊であることから、三尊石とよばれていた。このおうよそ五角柱という、特異な形の自然石板碑は、高さ80cm、五面のうち三面を用い、つぎ(※下の写真)のように刻んでいる。種子は、正面に阿弥陀如耒、向って右に観音菩薩、左に勢至菩薩、いずれも薬研彫りである。この様に三面に配した弥陀三尊碑は、県内にもあまり類例をみないものである。平成7年9月』
43
何かの建物跡。
44
石祠。何らかの神もしくは仏様が彫られています。よく見る陶器製の巳神があったので、水神かも知れません。
45
末社の小祠。
46
末社の大己貴神社。
47
茅の輪くぐり。
48
鳥居と拝殿。
49
拝殿向拝。
50
御神徳。
51
拝殿内。
52
大己貴神社横の桂(かつら)の御神木。
53
53.5
錬石文字が見える奉納碑(明治)と手水石(明治20年)。
54
復建記念碑…『大日霊貴神社は、だんぶり長者土壇を築き大日神を祀れる趾に、継体天皇の勅願に依って創建され、養老二年行基菩薩下向し再建せるものと社伝に言う歳を重ねる事、四百六十余年、寿永二年鎮守府将軍藤原秀衡は長子国衡を奉行として之を復興し、文明十二年大膳大夫南部政盛修復す。爾来奥州鹿角の大日堂として里人の尊崇厚く、十三年に一度の修理を例とせしが、寛文六年元旦堂宇尊像烏有に帰せり。同年十二月二日藩主源朝臣重信郷人有司に命じて元の如く九間四面の堂宇再興し、尊像を長牛の大日堂より遷座す。養老の昔を偲ばせる舞楽と厳然と聳える姥杉は里人の心の拠り所なりしが、昭和二十四年十一月八日再び不審火により焼失す。翌年正月六日氏子等神殿復建奉賛会を組織し、神慮を奉戴して復興に奔走す。復建奉賛会役員各位の尽力に依り主材を大葛に求め、外は、白沢、長木沢、花軒田、並本村悲瀬沢国有林から調達し、更に、第四十九代宮司安倍仁所有林及び小豆沢部落有林の寄進に依り二十六年十二月二日九間四面の拝殿上棟祭を齊行す。この建設費七百五十余万円は総べて氏子並びに崇敬者の協賛進納せる浄財なり。更に翌年正月二日山本徳太郎の篤志による新刻の御神体遷座祭を挙げ、三十一年九月二十五日本殿上棟祭、同十二月二日本殿遷座祭を以て神殿復建の事業を終える。本殿建立費二百五十余万円は六代目関直右エ門の献納に頼る。再建に際し協賛尽力の各位に深甚なる謝意を表し、茲に氏名を刻し永く後世に畄むるもの也依って第五十代大日霊貴神社宮司安倍洋直この碑文を撰す。』
55
境内案内板より(由緒)…『当社の創祀は、ダンブリ長者の娘吉祥姫の願いにより、継体天皇の17年に大日神社として建立されたと伝えられている。その後、元正天皇の命により養老2年に名僧行基に伴なわれた工匠により再建された。その際に楽人により祝賀の舞楽が奏され、里人に伝えられたのが1300年間連綿と伝承されてきた「大日堂舞楽」である。平安時代末期には、平泉の藤原秀衡の命により、神社の大修理が加えられと言われ、室町中期の文明18年には大里上総により修復がなされた。その後、南部氏の領地となり明治に至るまで、領主の庇護を受け、寄進や修復がなされてきた。神仏習合の時代は、奥州鹿角郡の大日堂として、厚く崇敬を受けてきた。明治維新により神仏分離が行われ、元の神社に復し大日霊貴神社と改称した。正月2日に行なわれる大日堂舞楽は、平成21年にユネスコの無形文化遺産に登録された大変貴重なものである。』
56
主な祭礼日(境内案内板より)。
57
関連記事
58
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ