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看板(上写真)の所にあった「大日堂前遺跡【独鈷遺跡】・中世「甲斐源氏浅利氏」十狐城址入口」案内板(下写真)…『これより上る高台は、上野(うわの)と称して縄文中期以降の遺跡と戦国武将「浅利氏」の居城跡が連なる古代比内地方の重要拠点であった。近年まで野中・庚塚の集落も存在した。鹿角市にある小豆沢長牛の大日堂と独鈷大日堂はダンブリ長者物語で知られるように創建由緒を同じくするも、物語は独鈷より始まり東方へと進んでいく。奥州藤原時代・戦国期の浅利時代・江戸時代は佐竹氏(十二所城代塩谷氏)と尊崇されてきた大日堂(現在の大日神社)には重要文化財が多数所蔵されている。【大日如来座像(木造)】桂材の一本造り。身高1.6m。肩幅0.9m。日本最初の大僧正行基菩薩の作と伝えられる一木三体の如来像を大日堂三社に安置したが、現存するのは独鈷大日堂のみである。【十一面千手観音菩薩立像(木造)】身高2m。一本造りで背ぐりを施す。頭髪は毛彫りに表現され、裳の作風は藤原期の古型に見る量感がある。【四天王像(木造四体)】身高1.5~1.6m。如来座像と同時期の作と推定される。【毘沙門十王像(木造十体)】制作年代は江戸時代以前であるが不明。【大絵馬・二連遠雁図(一対)】胡粉彩色。享保19年(1734年)5月18日と奉納記入があり、県内最古の絵馬である。【鰐口(一口)】大館城主佐竹西家第6代義村の息女。病気平癒祈願のため奉納されたもの。【琵琶(木種・鉄刀木)】十狐城主浅利則頼遺愛の古器。菅江真澄「雪の秋田根」に詠まれている短冊が納めてある。「むかし誰が手に馴らしけむ四つの緒に調べかへたる松風のこゑ」。平成14年3月比内町教育委員会』
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道中にあった標柱「独鈷城跡・大日神社」。
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神社入口前にあった標柱「先住民族の遺跡・縄文時代中期3500年-4000年前」。
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大日神社・神明社両方の社号標があります。大日神社社号標は新しいですね。神明社の社号標は大正11年建立。
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社号標と鳥居。だんぶり長者の伝説に関わる鹿角市の小豆沢・長牛及び大館市比内町独鈷の大日霊貴神社の内、独鈷の大日霊貴神社になります。
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参道石段。
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鳥居。
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駐車場前。ここまで車で来ることが可能です。
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鎮座地は秋田県大館市比内町独鈷大日堂前。かつての独鈷村。慶長8年8月、佐竹氏の支配に対して当村の浅利旧臣岡田七兵衛や野呂孫四郎らは、大館村の浅利伝兵衛を中心に結束を固め、旧勢力の維持を迫りました。秋田藩ではこの勢力に対応するため、当村を十二所所預の管轄下に置きます。後文化年間より一部が大館給人知行地となります。正保国絵図や元禄七郡絵図には十古村369石と図示。この間も新田開発が進み、享保黒印高帳では村高768石余、当高733石余と村勢は伸びました。親郷扇田村の寄郷。犀川水系の米作地域であり、羽州街道の脇街道で南に大葛金山、東に貝峠越えに藩境の要地十二所へ通じる中間点として宿駅が設置され、切支丹高札場でもありました。周辺の山中では慶安年間に梅坊主銅山、元禄年間に炭谷銅山、享保年間に佐比内沢鉛山などが請山として採掘。鎮守は大日堂のほか、諏訪社、八幡社、稲荷社を祀っており、寺院は大館町に移った玉林寺に代わり、真言宗寺院から改組された曹洞宗金剛山立昌寺が当地方の寺請制の中心となります。他に修験源乗院。
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金剛山大日堂…『紀元一千百年代真言宗の霊場として創められ後浅利氏の氏神となったが大永2年(1522)浅利氏と南部氏との戦に堂がこわされ大永6年浅利則頼によって再建された現拝殿は寛文13年(1673)十二所の塩谷民部少輔重綱の再建したものである。1988年10月吉日比内町教育委員会』
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大日堂の創建…『ダンブリ長者伝説によると継体天皇17年(西暦523年)勅令による創建と伝えられ、養老2年(718年)僧行基が大日如来像を作り神亀2年(725年)九間四面の御堂再建されて小豆沢[ア]・長牛[バ]・独鈷[ウン]の大日堂に如来像を安置した[ア・ウンは向かい合い一対]。御堂建築の折、御用材の運搬に使用した牛をたくさん亡くしてしまい、牛霊を祀り慰めたことが牛の絵馬を奉納する発端となった。一代様として羊・申歳生まれの守本尊信仰と共に丑歳の守護神、また化身とされる不動明王も合祀しており酉歳の崇敬も厚い。各時代の統括者が変わるごとに再建されてきた。長禄4年(1460年)藤原信継再建。大永6年(1526年)浅利則頼再建。現拝殿は寛文12年(1672年)に十二所城代塩谷重綱により再建され北鹿地方に残る数少ない江戸時代の建造物で、宝物の中には大館城主第6代佐竹義村の息女病気平癒祈願として奉納された鰐口などもあり神仏混淆の形態を留めている。明治維新、神仏判然令により神社形式に変革となり神明社と称するも今上陛下御大典を契機として大日神社に改称』
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菅江真澄の道(大日堂)標柱…『享和2年(1802)浅利一統の悲運を記録<雪の秋田根>「むかし誰が 手に馴らしけん四の緒にしらべかえたる松風のこゑ」』
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大日神社所蔵文化財…『【一、大日如来坐像(木造一体)】桂材の一本造り、身高1.6m、肩張0.9m行基菩薩の作と伝えられ、一本の桂を以って三体を刻み、鹿角市小豆沢、長牛及び独鈷に一体づつ祀ったといわれる。【一、十一面千手観音菩薩立像(木造一体)】身高2m、一本造りで背ぐりを施す。頭髪は毛彫りに表現され裳の作風は藤原期の古型に見る量感がある。江戸時代の優れた刀法を示すものである。【一、四天王像(木造四体)】身高1.5~1.6m、一本造りであるが、両腕は別木を寄せ肩以下は欠失現存しない。如来座像と同一年代の作と考えられる。【一、毘沙門十王像(木造十体)】制作年代不詳、大日如来制作と同時代から江戸時代までの作と推定される。【一、絵馬一対】胡粉彩色、享保19年(1734年)5月18日奉納とあり横1.6m、縦1m。昭和48年10月11日指定。【一、鰐口(一口)】京あたりの既製品に文字を陰刻させたもの。【一、大日堂の琵琶】浅利則頼遺愛の古器と伝えられる。"むかし誰が手に馴しけん四つの緒に調べにかへたる松風の音"-菅江真澄-。昭和54年7月20日指定。比内町教育委員会』
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標柱「大日神社」市指定文化財(所蔵品)1973年10月11日(絵画、彫刻、工芸)より…『第26代継体天皇の勅願所であったと伝えられ、元は神仏習合の「金剛山大日堂」と称し、「だんぶり長者」伝説の発祥地です。明治の神仏分離令により神社となり、主祭神は大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)。例大祭には作占い「湯立て神事」が行われ、「独鈷囃子」が奉納されます。所蔵する文化財は大日如来座像・四天王像など多数あり、平安末期の作と推定。他に県内最古の「絵馬」(1734年作)、初代十狐城主淺利則頼公遺愛の琵琶、大館城主第6代佐竹義村奉納の「鰐口」が指定されており、境内に隣接する民舞伝承館に展示されています。』
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大館市民舞伝習館。昭和55年に独鈷大日神社に隣接して建設。民俗史料等の保存、展示をしています。市の指定文化財になっている浅利則頼遺愛の琵琶は、菅江真澄が遊覧記「ゆきのあきたね」で、浅利家重代の古器と記した鉄刀木のもので、琵琶の中には「むかし誰が手に馴しけん四の緒に調べかへたる松風のこゑ」と菅江真澄が詠んだ短冊が遺っています。また、舞台を備えた研修室では市指定無形民俗文化財である「独鈷囃子」の伝習活動が行われています。旧暦5月28日(大日神社祭礼)に行われる独鈷囃子(市指定無形民俗文化財)は、天文7年(1538 )に甲斐国(山梨県)から独鈷に移ったとされる浅利則頼が独鈷城を築いて、その祝宴に自ら剣を採って舞ったのが始まりとされているそうで、囃子だけではなく踊りも付けられます。大日神社の祭礼宵宮祭にあたり囃子屋台を引きながら町内を演じて歩きます。祭礼の当日は舞台上で行われますが演目は両日とも変わりません。演目としては寄せ囃子・本囃子(独鈷囃子)・剣囃子・帰り囃子の4種。踊り手は主に大人子どもの女性で、囃子には大太鼓、締太鼓、笛、三味線があります。
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参道にあった建物。
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小窓から七福神などが見えます。こういうタイプの建物は初めて見ますね。小窓から見える範囲外には何があるのか気になりますね。
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18.5
隣りは御厩舎(神厩舎)。
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御神馬。柵でうまく撮れませんでしたが大小2体います。
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拝殿正面参道と鳥居(社殿改修・鳥居建立・昭和33年5月8日)。
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独鈷大日神社。金剛山大日堂。通称独鈷大日堂。御祭神は大日霊貴命、豊玉彦命、倉稲魂命、金山彦命、応神天皇、猿田彦命。例祭日は旧暦5月28日。特殊神事として、湯立神事・鎮火祭(旧暦5月28日)、御影祭(旧正月15日)お焚上げ、星除祭(1月28日)、悪病退散祈祷(8月28日)、神迎祭(旧暦10月末日)、風送り(12月31日)があります。湯立神事は古くより伝わる神事で、その年の米の作柄を占う目的で行われます。2基の大釜を据えて忌竹に注連縄を渡し、釜の中央に稲の花を象る切り子を下げて、四方を御幣で区切り、神火で沸騰させた大釜の湯を、神主が藁を束ねたササラ2本を用いて数回かき回し、その泡(湯の花)の立ち具合を三度占うそうです。境内社として、外宮社、八幡社、金刀比羅神社、浮嶋龍神社、鬼神社、文珠社、不動社、古四王社、愛宕社、鹿嶋社、大平山社、八聖山、田代山社、出羽三山社、山神社があります。神社所蔵文化財(市指定文化財)として、胎蔵界大日如来像、十一面千手観音、四天王像、不動尊像、毘沙門十王像、絵馬額2枚、鰐口、琵琶、独鈷囃子(無形民俗文化財)があります。
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古伝承によりますと、南部ダンブリ長者娘吉祥姫が第26代継体天皇(507-531年)の側女として侍し、長者夫婦の没後、鹿角市の小豆沢・長牛、比内の独鈷に大日堂建立の勅許を受け、継体天皇17年(523年)に建立。吉祥姫の母(徳子)は独鈷に生まれ、長者伝説の神託を授かる人。ダンブリ長者伝説の霊泉発見の物語を聞いた元正天皇(680-748・在位715-724)は名僧行基に下向を命じます(ダンブリ長者伝説の内容については当記事では触れません)。養老2年(718)に独鈷を訪れた行基の夢枕に貴人が現れ、その催促により桂木を以って仏像を彫刻(身高160cm、肩張り90cmの大日如来像(市指定文化財))し、神亀2年(725)に九間四面の堂宇再建。神亀2年(725)九間四面の堂宇を再建し、大日堂三社(鹿角市小豆沢、長牛及び独鈷)の御本尊としました。九間四面の堂宇に改築後、堂宇大破修理は国司により行うとし、12年毎の丑年には比内郡の村々によって屋根を葺き替え、式年祭を行うことに定められました。長禄4年(1460)禁裡支配取立役、藤原信継再建。大永2年(1522)浅利氏と南部氏の戦で御堂破壊。大永6年(1526)比内独鈷城主浅利与市則頼公が五間四面の堂宇に改築するも浅利氏没落により破壊。寛永年間より大館城主佐竹公の祈願所となり、寛文12年(1672)に十二所城代塩谷民部小輔藤原朝臣重綱が現堂宇を再建。大正14年に唯一神明造の神殿を増築。昭和33年に幣殿を増築して現在に至ります。
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比内地方を支配していた浅利氏の庇護を受けて真言宗の修験霊場とし神仏混合として発展。江戸時代までは大日堂と称して神仏混淆の形態をとり、明治に至って村社神明社、昭和27年神明社となりましたが、氏子崇敬者等の強い要望によって平成元年に社名を大日神社と改めています。
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手水舎。
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手水石。
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26.5
石灯篭一対(文政10丁亥年5月吉日)。
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27.5
石灯篭一対(昭和2年8月28日)。
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28.5
狛犬一対(平成5年12月吉日・皇太子殿下御成婚奉祝記念・伊勢神宮式年遷宮奉賛記念)。
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29.5
拝殿前の風景。
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拝殿。
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拝殿唐破風懸魚・蟇股・木鼻。
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海老虹梁。
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向拝奉納神額(「大日堂」昭和45年度年祝一同奉納・製作花田徳松)。
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幣殿・本殿。
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御神木。
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八聖山(明治12年己卯4月吉辰・願主講中)。
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金毘羅大権現。
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二十三夜塔。
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太平山。
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紀年銘は明治。
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愛宕神社。明治22年6月23日。
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出羽三山社。
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淡嶋神社。
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こちらはわからず。
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鹿嶋神社。明治29年旧3月吉日講中。
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田代神社。
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こちらは屋根付ですね。
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中央に「淺利興市則頼公碑」と見えます。上部や横にも「紀念」等文字が見える気がしますが、ちょっと見にくい感じで読み取れず。
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不動社。
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不動明王。
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文殊社(文殊菩薩)。卯年同年會。昭和8年8月建立。
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山神かな。
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その他わからない石祠。
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わからないものは上記説明の境内社一覧の中のどれかです(※下記リンク先記事内でも別の境内社を紹介しています)。
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長くなりましたので、十狐城址・浮島龍神社については別記事にしました。
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