秋田県能代市山神社前。国道7号線から奥羽本線側への脇道(鶴形駅方面への道)を少し下ると人形道祖神があり、その横に案内板があります。
鶴形金比羅宮…『鶴形は米代川舟運で栄えた町であることから、大漁や海上守護を目的として香川県の金比羅宮本山より霊札を拝領して御神体としており、社殿様相も本山と同じです。現在の社殿は文久3年(1863)の完成で、建築棟梁は鶴形の笠井喜右衛門、彫刻棟梁は能代の石川孫右衛門と記されており、小規模ながら随所に凝った彫刻が施され、かなり見応えのある建物です。(秋田三十景)鶴形地域まちづくり協議会(平成25年3月)』

案内板通りに国道7号線下をくぐって一本道を進むだけです。
車で行くことは可能ですがすれ違うことはできませんね。私は徒歩です。
おすすめはしませんが車を停めるスペースもありますね。

社号標「金刀比羅神社」。近寄り難い位置にあります。

秋田三十景鶴形金刀比羅宮概要(平成4年壬申1月吉日十七代小林昭一)『【御祭神】大物主神【御神徳】五穀豊穣、殖産興業、大漁満足、海上守護の神としてとりわけ招福除災の霊験あらたかである。【祭日】毎月10日【建立者】十三代小林七右衛門正舜。讃岐国象頭山(香川県琴平町)に鎮座する金刀比羅宮より満願成就に達したので霊礼を拝領して御神体とした。社殿は1855年(安政2年)に起工し完成は、1863年(文久3年)であった。総工費六千三百八十両。建築棟梁 鶴形 笠井喜右衛門。彫刻棟梁 能代 石山孫右衛門【継承者】小林家代々の当主。十四代小林七右衛門(正胤)、十五代小林七右衛門(良兵衛)、小林七右衛門(清孝)以上』


石灯籠一対(十三代正舜、明治9丙子建)
百度石(明治4辛未8月再建)

参道。
神橋。

橋の両脇。


橋の先の一対の御神木(巨木)

注連縄で繋がれていました。

参道。少し鬱蒼としております。

参道を振り返るの図。

石灯籠一対(明治7甲戌4月)


石碑。きちんと見ませんでした。

石段。


意外に急勾配。

石段上の御神木。

上から見た石段。

社殿前参道。
石灯籠一対(明治7甲戌4月)


案内板「鶴形金刀比羅宮緒」より…『【御祭神】大物主神【祭日】旧暦8月10日【由緒】金刀比羅宮は船乗りの守り神として、県沿岸の船乗りや漁民たちから信仰をあつめていた。明治・大正時代には、男鹿船川、土崎、金浦、岩館などの船乗りたちが、能代から人力車で参拝に訪れたという。また近郷の農民たちも五穀豊穣・家内安全を願って参拝に訪れたため、祭典日ともなると鶴形名物の蕎麦屋台には長蛇の列ができ、村が狭く感じる程の人で大変賑わったという。この金刀比羅宮を建立したのは、鶴形村で代々酒造業を営んできた小林家の十三代目当主七右衛門正舜(しちえもんまさつか)である。正舜は幼少時に天然痘にかかってしまったが、四国の金比羅神社に祈願したところ、九死に一生を得て完治したという。以来金比羅神社への信仰を篤くし、何度も参拝に訪れたという。やがて金比羅神社より御分霊を拝領し、鶴形村に堂宇を建立することを決意。社殿は江戸時代末期の安政2年(1855)に起工したが、彫刻も含め全て完成したのは文久3年(1863)であった。建築棟梁は同村の笠井喜右衛門、彫刻棟梁は能代門前の石山孫右衛門。社殿に施された多様な彫刻には当時の細部技法がよく表れており、彫刻師の意気込みが伝わってくる。総工費は六千三百八十両。これほどの資金を調達できたのは、正舜が北方郡奉行所勘定方と郡内肝煎を兼任し、苗字帯刀御許預り証を有していた鶴形村一の資産家であったからだろう。現在の当主は十七代目小林昭一氏(東京都在住)である。平成二十二年に、鶴形地区の有志により、社殿並びに境内地の大規模な修復事業が行われ、往時の姿を今に留めている。文責宮司小笠原千賀子』

文久3年建築の社殿。
拝殿唐破風懸魚等。
確かに立派な彫刻です。
木鼻蟇股裏側・手鋏・海老虹梁等。
秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト様「鶴形金比羅宮」(平成26(2014)年5月掲載)より…『秋田30景「鶴形金比羅宮」。能代市鶴形地域にある金比羅宮は、小規模ながらも見応えのある建物で、秋田三十景に登録されています。地域の中心地から南東にある山中にあり、神社入口前にある池には鮮やかな赤い欄干が架かっています。杉並木に囲まれた参道を登ると、立派な夫婦杉が見え、急勾配の石段を登ると随所に凝った彫刻の施された金比羅宮に到着します。鶴形地域の金比羅宮は、讃岐(香川県)の琴平山(ことひらやま)にある金比羅宮と、よく似た形をしていますが、これには理由があります。この神社を建てたのは旧鶴形村の13代当主、小林七右衛門、源正舜(みなもとのまさきよ)です。七右衛門は少年時代に天然痘にかかりました。そこで、讃岐にある金比羅宮に熱心にお参りしたところ、天然痘が治り、金比羅宮を深く信仰するようになったといわれています。そして、成人した七右衛門は鶴形地域にも金比羅宮を立てようと、琴平山に似た場所として、水尾沢(みずおさわ)を選び、建築のための準備に10年、建築に9年の歳月をかけて金比羅宮を作りました。建築工事をすすめる間、七右衛門は2人の従者を連れて讃岐の金比羅宮にお参りし、貴重なお札を頂きました。その時に頂いたお札をご神体として祀っています。そのため、祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)で、讃岐の金比羅宮と同じです。鶴形地域は米代川での舟運(しゅううん)で栄えた町である事から、大漁や海上守護を祈願し参拝者が多いようです。』参考文献「わたしたちの鶴形」(編集:鶴形小中学校教育研究グループ)・「現地説明看板」(設置:鶴形地域まちづくり協議会)
脇障子。
思わず色々と写真を撮ってしまいました。
拝殿向拝。
玄武かな。
神額。
拝殿内。




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