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岩手県奥州市前沢古城野中。
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2.5
都鳥についてです。胆沢扇状地の扇央部に位置し、茂井羅中堰・南堰が貫流。式内社止々井神社の旧跡があります。地名の由来はそれによるものと思われます。二本木の宮田がその旧跡と伝えます。字塚田の「一本杉」とも呼ばれる角塚は県内最大最古の前方後円墳。円筒埴輪が出土。全国的にみても前方後円墳の北限を示す事例として貴重な存在。式内社止々井神社とともに当地の開発の古さを物語ります。伝説では掃部長者の妻が変身した大蛇の角を埋めた塚だとされます。字界田には無年号の中世板碑1基、同じく近隣の鳥越田にも同様の板碑1基あります。字本木の要害館は柏山伊勢守家中の居所と伝えます。胆沢町役場から東面の千田氏宅(要害屋敷)にかけての一帯が館跡。広岡の広岡館は集落の西北0.2kmの微高地。水田中に浮かぶ島状の平城。土塁跡を残します。東北面平場には五輪塔があったといいます。東西160m・南北100m。館主については飯坂出雲守が貞享年中まで居住したとのみ伝えており、戦国以前の館主は不明。江戸期以降の都鳥村は胆沢郡のうち。仙台藩領。村高は寛永検地224貫余(田214貫余・畑10貫余)、「元禄郷帳」1,968石余、「安永風土記」240貫余(田216貫余・畑24貫余)、「天保郷帳」2,420石余、「旧高旧領」2,408石余。明和9年の家数124。「安永風土記」によりますと、蔵入地1貫余・給地238貫余、人頭132(うち寺1)、人数748(男413・女335)、馬210。神社は伊勢社・伊豆権現社・稲荷社・山神社、寺院は曹洞宗宝蔵山宝寿寺、他に馬頭観音・大日堂があり、修験は当山派東行院があります。宝寿寺は永徳寺村永徳寺末。高寒秀天和尚の永禄7年開山と伝えます。四ツ柱屋敷の四ツ柱跡は大蛇と化した掃部長者の妻に生贄をささげた棚の跡と伝えます。生贄となったのは肥前国松浦から買い取られて来た佐夜姫といいます。宝寿寺境内の小川には、佐夜姫が身を潔めて垢を取ったという赤(垢)取石があり、小川も赤(垢)川と称されます。江戸初期には隠れ切支丹も多く、寛永16年平右衛門・半左衛門は塩釜村清左衛門・相去村次右衛門らとともに転宗しましたが、同17年には五郎作とその娘、喜右衛門と息子3人、弥右衛門の7名が処刑されています。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県、水沢県、磐井県を経て、同9年岩手県に所属。明治3年村内の30人程が一揆を起こしており、下幅村境まで押し寄せましたが、首謀者2名が逮捕されて鎮圧。同9年都鳥小学校が開校。同10年の生徒数は男子30。同13年の幅員は東西約34町・南北約24町、税地は田233町余・畑80町余・宅地18町余・荒地4町余の計336町余、戸数133(うち農業130)・人口943(男498・女445)、馬211。都鳥学校の生徒数58(男45・女13)。物産は米・大麦・小麦・大豆・小豆。同22年南都田村の大字となります。明治22年の戸数128・人口1,003。大正12年都鳥自警団設立。昭和28年南都田村役場が南下幅から移転。同30年胆沢村南都田となります。
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社号標「延喜式内村社止々井神社」(昭和5庚午年5月吉日)
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鳥居。
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延喜式内社止止井神社跡(案内板より)…『延喜式内社は、国から認められた官社のことで「官幣の社」といわれる。延暦17年(798)、中央集権制度の統制を地方に徹底させるため、当時の民衆の中心信仰であった神社信仰をもって統治の強化を図ったものである。神社は、民衆がそれまでに崇拝してきた氏神や地方の崇敬神を官社としたもので「延喜式神名帳」には陸奥国の条に100座が記載されている。止止井神社は、胆沢郡七座のうちの一社である。現在、前沢町古城地内にある止止井神社は、安永のころにこの地から遷座された社といわれる。★胆沢郡内の延喜式内社…一、止止井神社(胆沢)・二、胆沢川神社(胆沢)・三、和我叡登挙神社(胆沢)・四、於呂閇志神社(胆沢)・五、磐神社(衣川)・六、駒形神社(金ケ崎)・七、石手堰神社(水沢)』※止止井神社跡については別記事にしております→『止止井神社跡(胆沢南都田)
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石灯籠一対(嘉永5壬子年穐8月社日)
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手水石。
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止止井神社縁起…『延喜式内神社陸奥國二一百座アリ。内胆沢郷二七座アリ。当神社ノ祭神天湯河衍命ハ姓氏録鳥取角凝魂神ノ三世孫也。此ノ神格ノ高イ止止井神社ノ祭リハ征夷大将軍田村磨ノ東北開拓移民団ノ氏神トシテ祀セルモノト推考サレ茲ニ胆沢郷ノ大肝入菅原忠作翁ノ信仰ヲ中心トセル地方開発ノ治世的信念ヲ多トシテ偲ベバ文政十三年五月止止井社ノ零落跡ヲ再興。文政十三年七月御棟札ヲ神祇伯王殿ニ願奉仝八月二十五日許可到着爾来中畑郷ニ鎮座ス 撰文菅原正』
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社伝によりますと仁和元年(885)の創建。明治4年10月23日村社列格。例祭日は秋の社日。
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御祭神は天湯河桁命(主祭神)。神社庁によりますと御祭神は大日孁命、大山祇命、伊邪那岐命、邇々芸命、水波夜女命(配祀)。
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狛犬一対(大東亜戦勝祈願)
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感染予防のため阿吽は不明。
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由緒(神社庁より)…『往古の由来は不詳である。社伝による縁起文ー延喜式内社陸奥国に百座あり、内胆沢郷に七座あり。当社の祭神天湯河桁命は、姓氏録鳥取角凝魂神の三世孫也。此の神格の高い止々井神社の祭りは、征夷大将軍坂上田村麻呂の東北開拓移民団の氏神として祀せるものと推考され、ここに胆沢郷の大庄屋菅原忠作翁の信仰を忠とせる地方開発の沿世的信仰を多として、偲えば文政13年(1830)5月、止々井社の零落跡を再興、同年7月、御棟札を神祇官統領白川殿下に願い奉り、同8月25日許可到着、以来中畑郷(現在地)に遷座す。』
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天湯河衍命について(Wikipediaより一部抜粋)…『天湯河板挙(あめのゆかわたな)とは、「日本書紀」等に伝わる日本神話の神または古代日本の豪族。【神祇】天津神【全名】天湯河桁命【別名】天湯河板挙、天湯川田奈命、天湯川田神等【神格】鳥取職、製鉄【神社】和奈美神社等【関連氏族】鳥取連、美努連、三島県主【概要】天湯河桁命、天湯川田奈命、天湯川田神(あまのゆかわたのかみ)とも表記される。「日本書紀」には以下のような物語が語られている。垂仁天皇の皇子、誉津別皇子(ほむつわけ の みこ)は三十歳になって鬚が生えても物を言わずに、幼子のように泣いてばかりいた。ところが、鵠を見て「これは何だ」と片言を発したため、天皇は鵠を見て物を言うことができたのだと喜んだ。そこで天湯河板挙に鵠を捕まえるように命を下した。天湯河板挙は出雲国(或る人が言うには但馬国)まで追いかけて鵠を捕獲した。1ヶ月後、天湯河板挙は天皇に鵠を献上した。誉津別皇子はその鵠とたわむれているうちに、言葉を話すことができるようになった。その報賞として、天湯河板挙は姓を与えられ、鳥取造と名乗った。あわせて、鳥取部・鳥養部・誉津部(ほむつべ)が定められた。「古事記」にも似たような物語がある。ただし、こちらに登場する捕獲人は山辺大鶙であり、鵠を捕らえるために諸国をめぐり、罠を仕掛けるなど、かなりの苦労の跡がみられる。また、それによって皇子の唖が治ったわけではなく、天皇の夢のお告げ、曙立王(あけたつ の おおきみ)の占いがあり、大国主神のために神殿を建てたり、仮山を築いたりもしている。【考証】折口信夫は、「風土記の古代生活」という著作で、「水の女」という説を唱えている。それによると、常世からの水をあびて心身を若返らせる行為を「禊」といい、その水は温かいもので「湯」と呼ばれ、「禊」の場所は海へ通じる川の淵であり、そこを「湯川」と呼んだ。そして「湯川浴(あ)み」をするための場所を「ゆかわたな」と呼んだのではないか、と述べている。つまり、「天湯河板挙」とは、「白鳥を追いつつ、禊ぎを求めていった」という意味なのだと解釈している。これに対し、吉田東伍は「桁」(たな)とは和泉国日根郡鳥取郷にあった古い地名であるとしている。『垂仁紀』の別伝中に、五十瓊敷皇子が茅渟(ちぬ)の菟砥(うと)の川上においでになり、「鍛名河上を喚して」とあるのを「たなかわかみをめして」と読み[3]、「鍛名」=「桁」で、「鍛名河上」は「桁川の川上(ほとり)」を意味するのではないか、と解読している。谷川健一は、上記の折口、吉田の説をあげつつ、金属精錬と鳥の伝承との間には深い関連性がある、という。溶鉱炉から流れ出してくる金属を「湯」と呼び、金属器の精錬に適した水辺を捜し求める人物であったのではないか、また誉津別命が唖である理由を、水銀中毒で喉をやられたことを暗示しているとも述べている。宝賀寿男は、『新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で、後裔が鳥取連、美努連とされ、「先代旧事本紀」には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、「斎部宿祢本系帳」には角凝魂命の四世孫・天日鷲神の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことから天湯板挙と天背男命が同一神であり、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天背男命(天湯川田命)ー天日鷲神(少彦名神)ー天羽槌雄神(建日穂命)ー波留伎別命」となるとする説を提唱した。【後裔】「新撰姓氏録」「右京神別」によると、中央の鳥取造氏は「鳥取連、角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也」とあり、天武天皇12年(683)に「連」の姓を授けられている。「姓氏録」には、天湯河板挙は山城国の「鳥取連」、「美努連」(みぬのむらじ)、河内国・和泉国の鳥取氏の祖先であるとも記述されている。そのほか、鳥取氏が祖神を祀った社として、「延喜式」神名式に河内国大県郡に「式内・天湯川田神社」(現:柏原市高井田)などがあり、「和名抄」には、大県郡鳥取郷(現:柏原市大県付近)がある。』
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拝殿向拝神額「止々井神社」(昭和7年9月24日第三班一同)
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拝殿内。
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梵鐘。
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本殿真裏にある碑。
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「とゝゐの神社」と刻まれています。
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その他は読み取れず。
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こちらは「立木道祖」とあります。道祖神ですかね。
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紀年銘は明治44年3月12日かな(※自信なし)
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石殿(不明)
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金華山。紀年銘は大正7年かな(※自信なし)
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古峯山(昭和14年2月1日建)
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庚申塔。紀年銘読み取れず。
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27.5
七庚申(明治22己丑年12月)
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こちらは何でしょうね。観音像にも青面金剛にも馬頭観世音にも見えません。文字は刻まれていますが読み取れず。
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馬頭観音。
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馬頭観世音。
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石殿。草木に埋もれていたため何かは不明。
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馬魂碑。
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実はこの日は雨だったのでいつもよりちゃんと見ておりません。
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