秋田県大館市山田の山田八幡神社。山田地域を一望できる高台にある当八幡神社は通称「勝山八幡」とも呼ばれています。戦国時代、勝山越後三郎という地侍が治めたこの場所には山田館という城がありました。山田の名が歴史に多く登場するようになるのは鎌倉時代で、比内地方を治めた浅利氏が山田と関わり始めてからです。浅利氏は甲斐源氏の流れをくむ一族。平安後期の源平合戦で活躍した浅利義遠は「三与一」と呼ばれ、那須与一、佐奈田与一と並ぶ弓の名手でした。恩賞として比内地方が浅利氏に与えられ、秋田の県北エリアを舞台に浅利一族の名が歴史に登場することになります。勝山越後三郎が登場する時代は、浅利氏が安東氏、南部氏、津軽氏との勢力争いを繰り広げた時期と重なります。山田には山田館跡を中心に多くの中世城館跡が残っており、浅利氏にとって要害の地であったことを伺わせます。小高い丘を中心に、迷路のように入り組んだ町並みを残す山田集落は、中世の侍たちの名残りを見ることができます。

「寄進八幡神社土止・他修繕工事」(昭和61年旧3月15日 山水建設合資会社社長水戸嘉七)。

社殿階段改宗記念碑。

参道石灯篭一対。


参道石段。脇には「山田部落会所有地」という標柱がありました。山田部落には戦国時代の勝山越後三郎の物語が伝えられています。勝山越後三郎は比内地方を支配していた浅利則頼に従う豪族で、山田村の山田館に居を構えていました。所領に馬一頭を添えて忠誠を誓った19歳の越後三郎は厚遇されますが、主君の弟である定頼とは反りが合わず、遂に深刻な対立を生み、越後三郎が定頼を討ち取ってしまいます。当主は則頼から子の勝頼に代替わりし、越後三郎が攻撃されることとなり一族は滅亡、壮絶な最期でした。勝頼は戦場の土を掘って捨てるほどの徹底した処分を行います。山田村に戦火をもたらしたにもかかわらず、越後三郎は多くの同情を集め、籠城中に酒樽や干し魚を密かに届けたり、跡形も無くなった荒れ地に地蔵を埋めて供養する者が現れたそうです。現在も地元の方々は勝山贔屓であり、越後三郎が住んだ山田館を「勝山城」、傍の八幡神社を「勝山神社」と呼んで偲んでいるそうです。
正面に社殿が横向きで見えてきます。
参道石灯篭一対。


参道石段は途中で曲がっており、社殿正面に出るようになっています。

石灯篭一対。


この石灯篭の下部に蜂が巣を作っていました。境内も蜂だらけです。

狛犬一対(平成15年旧3月15日・山田氏子一同建立)。


これは宝珠のようですね。丸に九枚笹の家紋入り。
奉納者として畠山の名が見えます。
紀年銘は大正9年3月15日。
御神木。
『當神社明治五年四月列村社四十年一月十日昇格指定神饌幣帛料供進神社四十三年夏合祀無格社赤坂神社曁石山神社稲荷神社愛宕神社等之數祠者也云 明治庚申之春 天行鬯謹書』大正9年3月15日。

神馬舎。


御神馬。

八幡神社の御祭神は応神天皇、火霊神、少彦名命、宇迦魂命、大己貴命。例祭日は旧暦3月15日。創建不詳。明治6年村社。
特殊神事に「じんじょこまつり」があります。秋田に数ある奇祭のひとつで、「じんじょ」とは地蔵が訛った呼び方とのこと。じんじょさまは集落の入口か出口にあり、集落の人を守る道祖神で、昔から続く伝統です。山田に9つある集落のうち、7つにじんじょさまがあるそうです。わらと菅(スゲ)で作るじんじょさまは男女一対で祀られて、年に1度新しく作り替えられます。
社殿の反対側には石灯篭など色々ありますが、上記の蜂の巣付近なのであまり近寄れません。

石灯篭一対。


狛犬。一体のみです。

カメラのズームで紀年銘確認。

離れた場所にもう一体狛犬がいました。
一見狛犬だとわからないくらいの状態です。先程の一体だけの狛犬と一対であったとは考えにくいですね。
上から見るとただの石棒。
前足は今にも崩れ落ちそうです。
表情もまったくわかりません。
史蹟勝山越後三郎一族終焉之地。

裏面碑文…『此処勝山ノ地ハ其ノ昔、勝山越後三郎ノ砦デアッタ。山田ノ草創ハ茫然トシテイルガ、前九年・後三年ノ両役ニ当タリ、三郎ノ先祖ハ長駆参戦、御大将源義家カラ勇名ヲ讃エラレ、永く地方ノ豪族トシテ君臨シテ居タ。恰モ今ヲ去ル四百年前、三郎ハ積怨ノ花岡城主淺利治郎吉定頼ヲ、花岡村岩本山ニ討チ取ッタガ、叔父ノ急変ヲ知ッテ烈火ノ如ク怒ッタ比内長岡城主淺利勝頼ノ奇襲ヲウケタ。此ノ時、戦ノ不利ヲ知ッテカ、一族ノ或ル者達ハ、位牌ヲ抱イテ仙北方面ヘ落地シタトノ説モアル。然シ次男七五郎四男藤八郎五男余九郎トニ名ノ郎党ハ、武神勝山八幡ヲ奉ジテ淺利勢ニ抗シタガ衆寡敵セズ、一帯ヲ紅雪ニ染メテ悲愴ノ最後ヲ遂ゲタ。時ニ維シ天正二年十二月二十八日カクテ勝山一族ハ亡ンダガ、淺利ノ権勢ヲ怖レテカ弔ウ者トテ無ク、鬼哭啾啾四百年ノ星霜ヲ閲シテ今日ニ至ル。茲ニ有志相図ッテ慰霊碑ヲ建立シ、一族ノ亡霊ニ回向スルト共ニ、郷土ノ史蹟トシテ後世ニ傳エントス。昭和四十二年九月建立 山田史蹟保存会』

八幡神社一之鳥居横の石段へ。上記で説明したジンジョ様(道祖神)です。ジンジョ様などの道阻神は農耕が盛んな地域ならではの文化であり、また、農耕にはほとんどの家で馬を使用したといい、山田には中世の武士の根拠地だった頃の名残りが色濃く残されています。

「地蔵堂新地移転」(平成11年12月6日)とありました。やはり「ジンジョ」=「じぞう」なんですね。

男の方には塞二柱大神とあります。
女の方には久那斗大神とあります。所謂岐の神で、いずれも道祖神であるとわかります。
反射して見にくいのですが、下の方に面だけがいくつかありました。

古そうな制札(石製)も立っていました。




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