
秋田県能代市坊ケ崎。ほぼ県道210号金光寺能代線沿いになりますが、参道入口は大間越街道沿い(坊ケ崎簡易郵便局方面)になります。入口には目印がないのでかなりわかりにくいかと思います。


社号標(昭和13年3月、奉納者田中徳治郎)

両部鳥居。

参道。

石灯籠一対。


いかにも犬!って感じの狛犬一対(昭和4年旧9月建、田中徳治郎)
手水石。

豊受姫大神(大正3年)

山神社新築紀念碑(寄附者:坊ヶ﨑村中、昭和2年9月12日※発起人名省略)。平成3年に改築しています。

太平山(昭和14年旧9月17日、大山三郎)

社殿。

寛政期の大内田村枝郷として防ケ崎・長崎・出戸・貸子所・塩干田が見えます。大内田村の神社としては神明社・修験大行院が見えますが山神社については不明。但し、社号標の紀年銘等から、当社よりやや北方の出戸山神社(能代市出戸、出戸本町)に関連しそうな気がしたので、下に出戸山神社の由緒について記載します。無関係かも知れませんが。

『【御祭神】大山祇神、天照皇大神、少名彦神【例祭】7月26日【由緒】年代はさだかではないが山形県庄内地方大饑饉の際、数十の民ども家族を引連れ、船で出戸海岸に漂泊した。付近の原野で一面の山百合が花盛りでみごとなのを喜び、即ち同地に上り、或は百合を掘り食い、漸く饑餓を凌ぎ、これより長く同地に居住することになった。当時本社地内は、樹木些か繁茂していたが、この他は悉く砂原で、風天の際は砂石飛散し、到底居住できないため、本社の東方今の出戸谷地という処に転居し、漸く飛砂を防ぎ、それより砂留山の高陵に一の社宇を建立し山神を祈念したのである。それより一層松樹を播植し、現今の居住の聚落に移し、又右飛散した砂石が吹き積って稜をなすに至った。一村ができたのは、今の坊ヶ崎地区であって、即ち出戸村の分離した住民であった。従って今なお両村共当社の崇敬者となっている。社殿の下に市営火葬場が設けられ、北西の風の際は臭風社殿を覆い、御神威を汚す恐れがあるので、昭和13年5月12日今の地に移転改築をし現在に至っている。』



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