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八戸市鮫町浜道通。白浜林聖観音。
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2.5
高橋家の庭園内に鎮座。
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3.4
3.8
糠部三十三観音霊場第5番札所。御詠歌「罪とがも消えよと祈る観世音波浪不能没念彼観音」。
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大鳥居(下舘吉五郎)。
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手水石(奉納平成5年9月25日、下舘吉五郎、明治38年9月25日生巳年88才)
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則誉守西上人の「巡礼次第記」(寛保3年)に「縁日十七日ト云 往昔元禄年中 兵五助山ノ畑ノ土中ヨリ鏡ノ正躰ヲ掘出セリ(中略)鰐口二ツかけて有り 元禄十三ノ年号見ヘタリ」とあり、元禄13年に畑の土の中から御正体の観音像が掘り出されたことが記されています。元禄13年銘の鰐口もあったといいますが、後に火災のため焼失したそうです。
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石灯籠一対(昭和60年10月吉日、高橋勝三・清一郎建立)
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8.5
石が積まれていました。いや、この感じだと集められていましたが正しいのかな。
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般若経五萬巻供養塔(一天泰平、五穀成就、子孫繁栄、二世安樂、文化八辛未年六月吉日建之、黙應居士俗名高橋甚助、四十一歳ヨリ七十才迄自誦焉)と石仏(地蔵尊と蓮華を持った聖観音)。
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10.5
クロマツ(八戸市保存樹木、第17号、平成22年3月30日指定)
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石灯籠一対(神子沢七郎)
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紀年銘は文政12年2月もしくは12月かと思うのですが「壬」の文字が見てとれるので違うかも知れません。
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悪霊悪疫退散の牛頭天王を刻んだものです。
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狛犬一対(昭和60年10月吉日、久保田トヨ建立)
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15.5
家伝によりますと、高橋家は根城南部氏の家臣でしたが、寛永4年に根城南部氏が遠野に所領替えになった際に八戸にとどまり、領地であった白浜に定住したといいます。その高橋家が代々守ってきたのが当白浜観音堂です。現在の観音堂は昭和60年10月に高橋守弘氏の祖母操氏の喜寿を祝って再建されたものです。操氏はこの喜びを和歌にして「失ひて百余とせ今堂成らしめわれ喜の歳の心やすまる」と詠んでおり、観音堂建立の悲願達成の喜びが伝わります。また、この時に100歳まで現役で働こうというグループ「百働会」の差波元次郎会長(当時101歳)が「観世音」と揮毫して扁額を納めています。
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観音堂の本尊である御正体は糠部三十三札所の中で一番小さな高さ4.2cmの観音像です。秘仏とされ、厨子が開かれるのはお年取りの12月16日と17日のみ。かつての観音堂は東方の杉林の中に鎮座していましたが火災に遭い、本尊の観音様は難を逃れましたが、百数年の間、高橋家の母屋に安置されていたといいます。その姿は鉄製の合掌した聖観音立像で、表面がやや錆びついてはいるものの像容はしっかりとしています。江戸時代に隣村の金浜で砂鉄を産出した記録があることから鉄製にしたと思われます。背中は真っ平らで、腰の部分の2ヵ所に突起があり、これは鏡板にはめ込んで釣手環を鏡板に付け、紐を通して壁に掛けて拝礼したためと思われます(懸仏)。御正体は元々御神鏡であり、その輝きから悪霊や疫病を退散させると信じられてきました。観音像は地域を邪悪なものから守るために祀られました。※御正体という呼び方は神道的な考えであり、観音堂前に鳥居があるのもそのためです。
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第五番札所白浜林聖観音。
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堂宇内。
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上で説明した扁額があります。「昭和60年仲秋、正七位百壹歳差波元次郎書」
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20.5
同じく上で説明した操氏の和歌。
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堂内の太鼓や祭器祭具は地域の人々が奉納したものであり、白浜観音堂の再興は地域の要望も強かったと考えられます。
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