
八戸市十六日町。現在、参道入口付近にはファミリーマートなどがありますが、昭和初期の古地図では参道両脇には寺横町側から「鴨沢(金物・塗料)」「石橋」、参道を挟み「三鉄」「日時運送」「三浦うどん屋」~「天聖寺正門石畳」~「小向」「広瀬」「羽瀬カマボコ屋」「中村とうふ店」等とあります。石橋や広瀬は店内にテーブルを置き、馬喰たちが酒を飲んでいた場所のようです。なお、「寺横町」は当寺に由来する地名とされます。


十六日町は江戸期に八戸城下の1町で町人地。城下の南西に位置しており、東は六日町、西は廿六日町に隣接。馬喰町とも称されます。裏町・上町のうち。八戸藩日記寛文9年12月4日の条に「新十六日町小三郎」とあります。表通の十三日町に対し裏通に位置。天保3年5月には「十三日町新町出火七軒焼失」とも見えます。貞享3年12月、当町の嘉右衛門が川運上金の延納を願い出て許されています。元禄14年には酒屋が1軒見られます。宝永4年3月には当町及び六日町・廿六日町の裏通3軒が、市での塩・煙草商売を許されています。安永5年3月の博労札願人数によりますと、八戸廻17人中5人の自・他博労が居住。天明5年4月には、当町の四郎治が博労頭を命じられています。火事は文政8年正月に廿三日町からの出火で26軒、同12年4月には新荒町からの出火で52軒、元治元年12月には廿三日町からの出火により41軒を焼失。こうしたことから慶応元年3月、大塚横丁から当町を経て朔日町までの裏通北側に用水堰が掘られました。当町東側には江戸初期に根城から移ったとされる浄土宗の法海山天聖寺があります。山門は十六日町側(小向家と三浦家の間にあり、巨木が立っていたそうです。道路は石畳で、山門から中に入ったところにも柱が2本ありました。木の種類は槻木で八戸大火の際に焼けた跡が残っていたそうです)。当寺8世の則誉守西は「奥州南部糠部順礼次第全」や詩文聞書記などの作者として知られており、安藤昌益とも交流があり、当寺は安藤昌益が講演した場所として知られ、八戸在住時代に門弟たちと交流を重ねた場所としても知られています。

明治初年の家数37。明治初年~明治22年まで八戸を冠称する場合もありました。同22年八戸町、昭和4年からは八戸市に所属。明治27年の「八戸琹草」は菓子商同製造1・八百屋1・箪笥職1・桶職2・塗物師1・牛肉店1・湯屋1を記載。消防組織として義組がありました。明治後期には青物市場が設けられており、近郷近在から野菜などが運び込まれました。大正13年5月の大火では全町が被災。同15年天聖寺内に幼稚園開設。

安藤昌益思想発祥の地。天聖寺が昌益にまつわる主舞台となったのが「詩文聞書記」の存在です。この古史料は延享元年から3年余りの記録で、所持者は八戸の医者だった方の末裔で、昌益研究で知られる八戸市立図書館の西邑嘉元館長が発掘。『人間安藤昌益』(安永寿延編著)には「昌益が居を構えた延享初年ころの八戸には、浄土宗天聖寺八世住職・則誉守西や八戸藩江戸家老の養子岡本高茂(1713-89、天聖寺筆頭檀家)などを中心とするサロン的な知的交歓の場があった」、「延享元年から記述されはじめた、守西の編集あんる知的交遊の記録『詩文聞書記』は昌益と八戸知識人との出会いに関する貴重な証言である。」とあります。守西と高茂はかなりの年齢差がありましたが詩文の同好とし親交。八戸に来て間もない昌益と守西は高茂宅(更上閣が跡地)に招かれます。延享元年冬至(旧11月19日)のことです。高茂は"儒士"とされる儒者であり孔子の道を宗とする人物で、昌益は濡儒安先生であり、やはり儒者安藤先生ということになります。いずれ昌益は儒学も否定していきますが、八戸来住のころは儒学や詩文の同志として宴席に招かれました。12月中旬には昌益は天聖寺において数日にわたる連続講演を行い、聞書記には最終日に行われた懇親の席で参会者が綴った手記も載っています。守西上人は「大医元公昌益、道の広きことは天にも猶お聞こえん、徳の深きことを顧みれば地徳も尚お残し。道・徳無為にして衆人に勧め、実道に入らしむること古聖にも秀でたらん者なり。耳は不正を聞き、妄声を聞くと雖も之に迷わざる者は貞正なり」と賛辞を贈ったといいます。※その他、詳細は『安藤昌益直耕思想いま再び』(吉田徳濡著)を参照されるのがいいかと思います。

参道。

立派なお寺です。
安藤昌益思想発祥の地碑。


昌益思想発祥の地…『浄土宗法海山天聖寺の歴史は八戸町の誕生とともに始まる。八戸の街地がほぼ形成されたのは、江戸時代の初頭、承応年間(1652~1654)のことであるが、このとき八戸の人々の信仰の拠り所として町の中心部のこの地に建立されたのが当寺である。所伝によると、往時は、根城にあり、涼雲山善道寺と称し、のち現在地に移転して天聖寺を名乗ったという。寛文4年(1664)八戸藩が誕生すると、領内「近回り五か寺」の一つに数えられ、燈明料五駄が与えられた。元禄年間(1688~1703)には、鐘楼などの諸堂が整備され、城下の町寺として極楽往生を願う人々の厚い崇敬を集めた。寛保3年(1743)、当寺八世則誉守西は「糠部三十三観音巡礼」を定めて、信仰の道を説いた。武士が農民を支配する封建社会を激しく批判した思想家として名高い安藤昌益は、ここ天聖寺においてその思想を初めて八戸の人々に語った。延享元年(1744)12月、八戸にやって来た昌益はここで数日にわたる講演を行った。参会者は則誉守西、当寺九世延誉擔阿を始め、藩士、藩医、神官、僧侶、商人など八戸の主だった知識人たちであった。彼らは昌益の話に深い感銘を受け、「大医元公昌益、道の広きことは天外にもなお聞こえん、徳の深きことを顧みれば地徳もなお浅し」と賛辞を贈った。昌益42歳のときである。その後、当寺には岡本高茂や神山仙庵、高橋大和守などの檀徒、さらに中居伊勢守、中村忠平、関立竹、上田祐専などといった昌益の門弟が集まり、談論風発して親交を深めた。やがて、寛延2年(1749)の猪飢渇(いのししけかじ)から始まる飢饉の頻発は昌益を社会批判に向かわせた。昌益は「統道真伝」や「自然真営道」を執筆しながら、すべての者が「直耕」する平等な社会とは何か、そこにおいて最も人間らしい生き方とはどのようなものか、さらに人間と自然とはどのように相互依存して共生できるのかなどを追い求め、「自然の世」という理想社会の実現をめざした。宝暦8年(1758)頃、全国の門人が集まり、シンポジュウムが開かれた。場所は恐らくこの八戸、想像すると天聖寺と思われる。これに参加した門人は、八戸は神山仙確、福田定幸、北田静可、高橋栄沢、中村信風、嶋盛慈風の6人、他は松前の葛原堅衛、須賀川の渡辺湛香、江戸の村井中香、京都の明石龍映・有来静香、大阪の志津貞中・森映確の7人である。昌益は八戸に来てから確龍堂良中と号するが、昌益の「良(りょう)」が八戸の地で到達した最終的思想を門弟に「演(の)」べ、これを門弟の「哲(てつ)」たちが「論(ろん)」ずるという形で討論が進められた。この討論は確門第一の高弟といわれた仙確の手により稿本「自然真営道」巻二十五に「良演哲論」として編さんされた。仙確とは昌益の号にちなんで名づけられた仙庵の号名である。昌益はこのシンポジュウムを最後に、15年にわたって過ごした八戸の地を旅立ち、故郷の大館の二井田へ向かった。このように天聖寺は昌益の八戸在住時代に門弟たちと交流を重ねた場所であり、昌益思想を独創的に深化発展させるうえで大きな役割を果たした所である。紛れもなく昌益思想はこの地より発祥したものといえよう。平成8年10月14日安藤昌益基金・天聖寺』

こちらは…

「花」と彫られた碑。

寄付者御芳名碑に「八戸市文化協会華道部」「財団法人小原流八戸市部」「龍生派八戸市部」「草月流」「一葉式いけ花青森県支部」「松月堂古流青森県支部」「華道家元池坊八戸支部」「日本舞踊親和会」と見えます(※氏名省略)。つまり「花」です。

六地蔵。

奥州南部糠部巡礼ゆかりの地「発心」碑。発心とは仏教の世界で菩提心、いわば悟りを求め仏道を修める心を表します。則誉守西上人の功績を讃えたもの。

碑文(※松があって下部は読み取れず)…『この巡礼は海潮山応物寺(階上の寺下観音)を一番に、八葉山天台寺(浄法寺の桂清水観音)を三十三番の・・・糠部地方の観音霊場を十五泊十六日かけて同月十八日に八戸に帰ったのでした。当時は藩財政の窮乏・・・な時代だったのです。この活動は、その転換期に形骸化した寺院活動の中で、民衆教化のため信仰の・・・「奥州南部糠部順禮次第全」を地蔵堂と念仏堂があった長者山山寺で書き留めたのです。』

浄土宗法海山天聖寺。八戸御城下三十三観音霊場五番札所(聖観音)。御本尊阿弥陀如来。「御領内寺院来由」によりますと、根城南部氏時代に根城にあった涼雲山善道寺が前身。元和5年(1619)に館下南門前(長横町付近)に移り、その後、天誉上人により「北海山天聖寺」とされ、岡沼畔(売市付近)に移転。この時が開山とされます。八戸藩成立後の元禄元年(1688)、四世住職縁誉代に現在地に移転。寛文4年(1664)に八戸藩が誕生すると領内近回り五ケ寺の一つに数えられ、灯明料五駄が与えられ、元禄年間(1688~1703)には鐘楼などの諸堂が整備されています。なお、長者山の東麓に当寺が管理する山寺霊園があり、そこには飢饉で亡くなった人を弔う餓死供養塔が4基あります。平成7年に敷地内に鞘堂を建て、バラバラであったものを1ヶ所にまとめています。


上記でも述べましたが、「奥州南部糠部巡礼次第」(寛保3年に檀徒とともに観音巡礼の旅に出た際の記録)の著者、即誉守西上人は当寺八世住職(奥州南部糠部三十三観音を定めた人物)。この巡礼は後に郷土史家小井川潤次郎氏により広く紹介され、現在も盛んに行なわれていますが、当寺はその順路に入っていません。
灯籠一対(平成2年9月佛歓喜日、施主田名部孝太郎、廿三世徳譽昌龍代、田名部房香謹書)


庫裡。


本堂。本堂1階の斎場を天聖寺ホールとして、コンサートやフォーラムなどの会場として提供。葬式だけのものではなく、人が集まるような寺にしたいという先代住職の考えによるものであり、安藤昌益が門弟たちと交流した場であった歴史を現代においてもなお感じます。
本堂前の松。

本堂再建記念碑(平成4年10月17日廿三世徳譽昌龍代、臥雲佐藤三二郎謹書)。


裏面碑文…『【由緒】…当山は法海山轉性寺と稱し売市に在ったが元禄四年(1691)に第四世親蓮社縁誉上人を中興開山・村上宗清氏を中興開基として現在地に移転す。度重なる火災に遭い近くは大正十三年(1924)五月の八戸大火で被災し以来仮本堂で過す。平成の世に機縁熟し今ここに堂宇完成す。』・『東霊園に墓地移転、廿一世精誉代(昭和50年)。廿三世徳誉昌龍入山(昭和62年8月1日)。再建委員会発足(昭和62年10月3日)。地鎮式・起工式(平成元年3月29日)。上棟式(平成2年3月29日)。竣工(平成2年9月30日)。落慶式(平成3年5月18日)。総本山知恩院第八十五世藤井實應大僧正御親修。総工事費…八億八千萬圓。設計・施工…大成建設株式会社本社設計理事佐藤忠弘、米原芳男。作業所長浅井守、大関靖二。課長佐々木幸一。位牌壇…日本アルミニウム株式会社。佛具…八田佛具店(八戸)代表八田宇一、大嘉佛具店(京都)。(※以下省略)』



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