八戸市南郷大字中野八ツ役。
中野月山神社…『祭神は月読命(つくよみのみこと)。勧請の由来は不明ですが、藩政期には薬師如来と合わせ祀られていました。この社は中野郷の産土(うぶすな)お薬師様として氏子の厚い信仰で守られてきました。産土神様は、四つ足、二つ足のものは口にしなかったので、その御利益で村には一人の盲人もろうあ者も出なかったということです。明治4年廃仏毀釈により、薬師如来は天徳院に移され月山神社と改められました。また、眼病に効き目のある神様として、村人の信仰を厚くしました。昔、ここに県の天然記念物のケヤキの大木がありましたが、昭和56年の台風15号で倒れ現存しません。』・坂上田村麻呂…『征夷大将軍の坂上田村麻呂が東征の時、眼病を患い、このケヤキの根元に湧く清水で目を洗い全快したので、社殿を再建したと伝えられています。同様に、南北朝時代、北畠顕家(あきいえ)が巡視の時、やはり眼病が全治したといわれます。』・子供と遊ぶ神様(産土様)…『昔、村の子供達がご神体を持ち出し、その頭でクルミの殻をつぶしていました。驚いた村人は子供をしかり、ご神体をお堂に納めました。しかしその後、村人は病気になってしまいました。子供と楽しく遊んでいるところをじゃまされたご神体のおとがめだったということです。』
狛犬一対(昭和23年7月吉日、氏子一同)
鳥居をくぐると本殿の裏です。本殿玉垣は昭和50年12月吉日建之。
境内への入口は2ヶ所ありますがいずれも本殿裏になります。
参道。
石灯籠一対(指定村社記念、昭和7年10月18日)
江戸期から明治22年までの中野村は三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。名久井通に属します。村高は「正保郷村帳」295石余(田145石余・畑149石余)、「元禄10年高帳」では中野通村の内の1村と見え594石余(田243石余・畑351石余)、「天保郷帳」484石余、「旧高旧領」539石余。なお「元禄10年高帳」に見える中野通村は大森・市ノ沢・中野・泥障作(あおづくり)の4か村からなり、1,198石余(田412石余・畑786石余)とあります。延享2年の宗旨改組合書上申御帳によりますと、家数13、人数66。神社は集落南端に月山神社があります。同社は明治初年の一時期、市野沢村稲荷神社に合祀されています。寺院としては中野館跡に曹洞宗城久山天徳院があります。現在も月山神社のすぐ近くにあります。草創年月は不明ですが開山は法光寺村法光寺11世南室といいます。なお、寛保4年の諸寺院寺号山号帳には「名久井法光寺末寺中野村 城久山天徳院」と見えます。明治4年八戸県、弘前県を経て、青森県に所属。明治初年の戸数134、うち支村孫次郎3・下洗17・大蕨8・葭平3・半堂9・大平11・雞島9。国誌によりますと本村の村況は「家数六十七軒、土地凸凹ありて中、水田を夾み両片に住す、又南三丁を隔て家数七軒あり諏方と云ふ」とあります。明治9年に中野小学が開校しており、同12年の生徒数男71、教員2。同年の「共武政表」によりますと、本村の戸数72・人口501(男258・女243)、牛4・馬105、水車2、寺院1、学校1。物産は麦・雑穀・木材。また、支村下洗は戸数20・人口137(男69・女68)、牛8・馬46。同22年中沢村の大字となりました。
御神木。
御神木の横にある石碑。
何かは不明。
御祭神は月夜見之命。例祭日5月8日。
南郷区の中野地区においては伝統芸能である中野神楽が伝承されています。当月山神社には「奉再光中野村中常院享保十五年十月六日」の銘を持つ獅子頭が残されており、相当歴史が古い山伏神楽であると推測されています。江戸時代の月山神社には大蔵坊という山伏がいたとされており、その配下の人たちが神楽を行っていたと考えられています。明治以降は一般の人々により伝承され、中野の権現様として親しまれてきました。昭和の初期には、三八城神社、龗神社などに行って演じたこともあったそうで、また、カスミと称して、中野、市野沢などの地域を隔年で春祈祷(旧暦小正月)に回っています。現在では、中野月山神社、市野沢稲荷神社、軽米八幡宮例大祭などで神楽を奉納しているそうです。権現舞をはじめとし、番楽や杵舞など約10演目(翁舞、三番叟など)が伝承されています。
神社庁より…『境内地434坪、本殿4坪、幣殿9坪、拝殿18坪。創立年月日享保二十乙卯年二月とある。明治九年十二月村社指定を受ける。往昔坂上田村麻呂大将軍が東征の際、眼病を患って大いに弱って居た所、村人達の話を聞き、月山神社に眼病平癒を祈願した処、直ちに目の病平穏し東征の目的を果したとの事である。時代が降り南北朝時代、陸奥の國司北畠顕家氏が國内巡視の折、矢張眼病に罹り、月山神社に平癒祈願したところ眼病は拭ふが如く平癒した、と言い傳へられており、霊験著しきものがあります。依って地方民尊崇の的になって居る。』
『青森の伝説』によりますと、「(前略)中野の月山神社に、目洗い清水の伝えがある。上古、延暦二十年(801)に坂上田村麻呂が征夷のためにここに来たとき、眼病にかかった。村人のすすめでこの社に祈願したところ、ほどなく全快した。そこで田村麻呂は神威に感じて、社殿を再建したという。その後、南北朝時代になって、国司北畠顕家が巡視に来て、やはり眼病になった。そこでこの社に祈り、社前のエノキのうつろに湧く霊水で目を洗ったところ、ただちに全治したといわれる。それ以来、眼病に効験のある神様として、村人の信仰が厚い。この月山神社の前に、虚空蔵菩薩が祭られている。ところが島守にも虚空蔵様があり、中野のほうが姉で、島守のほうが妹だといわれた。中野のほうがよくにぎわい、島守は詣でる人もなかった。そこで姉が妹を哀れんで恵んでやったら、それ以来、島守のほうがにぎわい、反対に中野の姉のほうがすっかりさびれてしまったのだという。(中略)またこの中野という所は、後の岳(名久井岳)に住む鬼が、前の岳(階上岳)へ往来する通路に当たっていた。毎年、鬼がここを通過するたびごとに、暴風雨になって作物が荒らされ、百姓の嘆きのたねであった。そこである僧が、一石に一字ずつ経文を書き、その石で村の後ろの高地に、持仏塚を築いた。それからというものは、鬼がここを避けて通るようになったので、おかげで百姓の難儀が救われたという。」
拝殿向拝蟇股・木鼻。蟇股には月と卯。
蟇股裏側(建築者市沢藤治、彫刻舘野淳、昭和56年12月)
拝殿向拝。
拝殿内。
本殿玉垣(昭和50年12月吉日建之)
本殿横にある天然記念物「つきの木」標柱。
現在は水も湧いていません。
ケヤキ一本(青天第十八号、青森県文化財指定書写)…『樹高約24m、幹囲(地上1.5m)約11.47m、根本囲約13.20m、枝条展開南北約42m東西約37m、指定年月日昭和42年1月11日、青森県教育委員会【記】この杜は昔から中野郷のおぶすなお薬師さまとして氏子のあつい尊信の的であった。明治初年廃仏棄釈の時流に逢い、急に月山神社とあらためられた。その昔、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の折、眼病を患ってなやんだが、この槻の大樹の根本から湧き出ている清水で目を洗って全快したといった伝えがある。幾星霜風に耐え天を摩するこの大樹は中野の象徴として村人から敬われ親しまれて十幾世紀に亘ってじっと村を見守っている。昭和54年12月10日吉日建立、南郷村教育委員会』
出羽三山。裏面碑文…『平成10年10月10日建立。行屋一同が長い年月、記念碑建立のため、少しづつのお金を醵出して参りましたが、その額が四拾萬円に達したので建立したものであります。行屋代表見附兼八、市沢栄太郎、石屋美佐男(※以下省略)この記念碑を建立するに当たり、趣旨に賛同され、浄財を賜りたる方々であります。一、金壱萬円也-下平寅松(同人妻ヨシ)、仝佐々木清之丞、仝工藤一郎(※以下省略)』
この地方は出羽三山信仰が多く、山形は出羽三山に参詣した信者たちが建立した石碑が点在しています。
こちらは正面「(梵字:アーンク)湯殿山」、側面に「羽黒山」・「月山」、裏面に「鳥海山」。
台座「嘉永五年子九月八日 三度詣祈願成就 世話人中ノ作助
石殿。出羽三山と関連するものかと思いますが何かはわからず。
末社。
なっちゃんがありますが何かはわからず。棟札も暗くて見えず。
末社。
こちらも棟札がありますが暗くて見えず。
石殿。こちらも平成18年10月の棟札がありますが、やや腐敗していて何かはわからず。
「東京大角力長者山」(昭和6年10月5日、長者山甥岩間治之丞)。力士ですね。
おまけ。「道の駅なんごう」の南郷そば。南郷手打ち十割そばがとてもおいしいです。
鶏そぼろ丼。
カレー丼。
「道の駅なんごう」以前の記事…『駒形神社 (八戸市南郷)』
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