青森県下北郡東通村野牛入口。入口の村の辻であるドライブイン天草付近に鎮座し、入口漁港の湾岸に向かって鎮座しています。

長窪稲荷神社(入口稲荷神社・入口正一位長窪稲荷神社)。

かつての野牛村。野牛村には寛永年間福岡の呑香稲荷を分霊した稲荷神社が見えます(※地図では)。アイヌ語系でイル・クツの転訛したものと考えられる入口は、熊の通る道のところへ建てておく小屋を意味するものと考えられます。また、入口は野牛漁港の西側に東西に長く伸びた集落ですが、田名部方面から北へ向かうと最初に海が見える入口の場所であったことから名付けられたともいい、小田野沢には「入口」に対して「出口」という地名が存在します。400年以上前に秋田県大館から修験者の姿をした人が住み着いたことが始まりとされ、内陸の田代や蒲野沢や桑原などから凶作のため漁業を志して移住したのが草分けであるといわれます。明治初年山陰地方との水産物交易が行われ、また、イワシ漁などに佐渡・越前・越後方面から来て定住した者と後に縁故関係を結ぶに至っています。伝統芸能としては明治時代に岩手県二戸郡から山伏神楽が伝えられ、獅子舞として現在も入口青年会によって受け継がれています(毎年1月4日にかしわの館で行われる幕納めでは、12演目中8演目を披露)。入口には稲荷神社があり、千手観音を祀り、正徳6年の再興と伝えます。入口の稲荷神社は明治2年に蒲野沢村法林寺に移されたそうですが、神仏分離令によるものであり、後に復社したものと思われます。春祭りは4月10日で豊漁を祈願。秋祭りは10月10日で豊漁に感謝して船屋台山車を曳いて地区内を練り歩きます。
正徳6年(1716)勧請(もしくは再興)。御祭神は宇迦之御魂神。上にも書きましたが、明治2年までは千手観音菩薩を合祀しており、明治2年の神仏分離にて仏像は蒲野沢の法林寺に移したといわれます。入口部落では正一位長窪稲荷神社と呼んでいます。昭和16年に焼失し、翌年再建(もしくは翌々年)。昭和18年3月10日銘の棟札に社殿再建とあり、これは出征兵士が安全祈願をした際にロウソクの不始末で焼失したものと伝えます。なお、その棟札によりますと、御神体は京都室町の三上源治が製作しており、稲穂を背負い、左手に鎌を持った老人姿の木彫稲荷神立像とのことで、「皇軍必勝米英撃破」と墨書きされており、当時の時代背景が伺えるものです。なお、昭和18年の再建時の社は祠堂ほどの大きさでしたが、昭和24年10月30日に現在の社殿に新築しています。別当はもと目名の菊池家でしたが、現在は田名部神社の宮司が務めているようです。
拝殿蟇股・木鼻。
拝殿神額。

拝殿内。

水盤。

水盤紀年銘。昭和9年に立てられた正一位稲荷神社を刻む石碑や明治27年銘の水盤を残しています。

不明の石塔。

ケヤキ。
かなりの大きさです。
長窪稲荷神社(東通村の巨木・銘木)・ケヤキ…『樹種:ケヤキ。所在地:東通村入口。所有(管理)者:入口稲荷神社。幹周:5.43m。樹高:22m。推定樹齢:約400年。平成29年7月東通村観光協会』



コメント