
秋田県能代市浅内上ノ山。能代市立浅内小学校の近くです。社号標「村社浅内神社」(文部大臣田中隆三謹書、昭和5年建之)は浅内歩道橋や浅内郵便局、保坂米穀店・保坂麹屋(能代市浅内浅内)がある付近。社号標から参道を進むと浅内小学校にぶつかり、その丁字路を左、道なりに進んで浅内小学校を迂回し、浅内集会所付近に入口があります。

入口付近には浅野家の墓があり、その先に鳥居が見えます。

参道には季節外れの紫陽花が咲いています。※訪れたのは11月。
浅内村は戦国期には見える村名で出羽国檜山郡のうち。天正19年正月吉日に豊臣秀吉が秋田実季の当知行地を安堵した朱印状写には「川とか村」と合わせて高370石余「あさ内村」とあるのが初見となります。戦国期を通じ安東氏領。沼の東岸を北上して野代に至る街道沿いに集落が存立。また、中浅内・浜浅内も当時既に開村していたと推測されます。
江戸期以降の浅内村は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。正保国絵図で本田当高184石余、享保黒印高帳で村高584石余・当高347石余(うち本田91・本田並43・新田213)、寛政村附帳で当高282石余(うち蔵分121・給分161)、秋田風土記・天保郷帳ともに347石余。家数及び枝郷は享保期121軒(うち枝郷寒川16・石丁6・福田13・成合4・出戸13・黒岡32)で、寛政期枝郷は享保期と同じ、文化期家数150軒(枝郷を含む)。各村落初立及び推移をみますと福田は中世末桑振村といい、天和3年村名改めがあり、黒岡は寛文11年市左衛門の忠進開きで始まります。社は八幡社。明治22年山本郡浅内村の大字となります。浅内村・河戸川村が合併して成立。大字は旧村名を継承、2大字を編成。役場を大字浅内に置きます。明治8年設立の河戸川学校は、同14年中浅内の浅内河戸川共立学校を経て、同25年浅内小学校と改称、同36年現在地に移りました。昭和30年能代市と合併、2大字は同市の大字に継承。合併前の人口4,269(農3,737・商工74・水産8・鉱12・その他438)。

境内神社鳥居。
保坂久吉先生謝恩碑…『我國維新ノ後文教大ニ興リ嚮學ノ風都鄙ニ熾ナリ然ルニ僻陬ノ地ニ在リテハ教育機関不備ニシテ普通教育ヲ修ムルニ道ナキヲ憾ミトセリ保坂久吉先生夙ニ育英ニ志アリ深ク之ヲ憂ヘ明治二十八年獨力ヲ以テ私塾ヲ開キ一村ノ子弟ヲ集メテ之ヲ教養セリ爾來一身ヲ捧ケテ専心斯道ニ盡瘁スルコト十有餘年教ヲ受ケタル者百五十餘人亦隆ナリト謂フ可シ先生人ト為リ温良篤學勤儉ニシテ後進ヲ導ク熱誠ヲ以テシ諄々倦マス終始一ノ如シ寔ニ能ク薰化ノ功ヲ舉ク今日郷黨幾多ノ人材ヲ出ス豈偶爾ナランヤ其ノ高徳允ニ欽仰ス可キ也茲ニ舊門ノ同志相謀リテ碑ヲ建テ以テ謝恩ノ意ヲ表シ先生ノ功績ヲ不朽ニセントシ予ニ文ヲ徴ス惟フニ近特人心軽佻師道振ハサルニ方リ此ノ美擧アルハ亦厚徳ノ至リ也依テ叙シテ以テ應ス 大正九年五月二十五日泰城小林謙吉撰竝書』※発起人渡邊長之助、石工箱井柳本茂治

境内神社。

拝殿内。

太平山三吉社です。「太平山講中記念」(昭和12年旧11月17日撮影、額面入昭和33年4月17日)、「太平山三吉社改修記念写真」(昭和33年4月17日撮影)がありました

鳥居(昭和41年7月吉日、施工今井庄一郎)
石灯籠一対(文政12年3月)
「祈願階段上参道産土熊野講」※一部削れて読み取れず。寄附者名省略。

狛犬一対(明治20年亥4月吉日、浅内村)
石灯籠一対(明治20年5月吉日)



浅内ナゴメハギ(能代のナゴメハギ)が伝承されている地域で、それに関連する神社です。県内各地のナマハゲ、ナモミハギ、ヤマハゲなどと呼ばれる行事と同様のもので、浅内の4集落で行われています。 大晦日の夕刻、浅内神社でお祓いをうけた8人の若者が2組に分かれて、鈴・拍子木・刀を持ち、ワラミノ・脚絆・腕まきを身にまとい、 顔には番楽の「山の神」など恐ろしげな面をつけて「ウォー、ウォー、泣ぐわらしっこ、いねがー」と大声でおどしながら家々を回り、歳神を迎え、怠け者をいましめる行事。『能代のナゴメハギは、日本海沿岸の男鹿半島より北の浅内沼付近に伝承されている小正月の来訪神の行事で、現在は12月31日に行われている。むら内の若者が、仮面を被り、藁蓑をつけて神に扮し、鈴や拍子木を打ち鳴して家々を訪れ、家人に祝福を与える。』
社殿。
拝殿唐破風懸魚、蟇股、木鼻、海老虹梁、手鋏等。
御祭神は健速盞雄命、誉田別命。例祭7月27日。

由緒…『浅野家の初代福性院尊永が延宝3年本家河戸川大塚寺祖先、光明院尊明の弟子当村に別院相成り鎮守熊野堂、神明堂・八幡宮の別当相務と記録されている。元禄3年熊野神社建立とある。以来浅内神社に改称され現在に至っている。』

御神輿。

本殿。
忠魂碑(元帥子爵川村景明書、大正12年11月、帝國在郷軍人會浅内村分會長)

石殿。

中央に八幡大神・天照大神で、両脇に熊野大権現、春日大明神かな。下部が読み取りにくいです。

横には天照皇太神宮塔(文政13寅年7月16日)

境内神社(神明社)

拝殿内。

昭和30年12月4日、昭和55年8月26日神明講中御修繕とありました。


八幡大神宮・天照皇太神宮・春日大明神・金毘羅大権現と刻む碑。

境内神社(唐松神社)

拝殿内。

本殿。明治39年旧10月8日建設(淺内唐松講中)、昭和32年12月に突風により倒壊し昭和33年4月8日再建、平成元年12月改築等とありました。明治39年の時点では鳥居もあったようです。

こちらはすべて庚申塔。




石殿一基。何かはわからず。ちなみに神社庁によりますと、境内神社として神明社、唐松社、受持神社と記しています。

お腹がすいたのですぐ近くにあった麺家麺四郎(能代市浅内浅内堤下)へ。





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