大森町八沢木の表参道入口(下の写真)。
きちんとした表参道があることを知らずに、坂部の金井神社前から車で進み、蟹沢頭の境塚を通過し、そこそこの高さまで来てしまいました(※案内板地図の現在地)。駐車場もあります。私は由利本荘市から秋田県道30号神岡南外東由利線を北上し、最初にたまたま見つけた金井神社のすぐ手前に「←波宇志別神社」という案内看板があったので、素直にそれに従って来てしまったというわけです。
表参道(旧秋田口)の途中に白山前祓所(下の写真)がありますが、その案内板によりますと、『表参道(旧秋田口)。八沢木中房に神門(仁王門)あり鳥居坂に一の鳥居、屋敷台に二の鳥居(現在道路拡張のため消失す)山中に至りて一の瀧、二の瀧あり(現在の垢離掛場)本殿に参拝する諸人はここに於て禊を行い、信太見長根、神蔭山を経て、頂上本社に達す。距離八沢木駅より二里半。【追記】延享3年寅年の水無月(6月)12日、波宇志別神社一夜の参籠に登山し侍里ける時によみ侍る。茂木蔵人 源知亮。「和氣の木る草木のつゆの衣手にめぐみを懸よ九二津躬屋新路」』とあります。
つまり、八沢木中房の「保呂羽山波宇志別神社仁王門」(元和5年建立※現在の建物は宝永3年に建替え)をくぐり、鳥居坂の一の鳥居をくぐり、屋敷台の二の鳥居(現存せず)をくぐり、白山前祓所の滝にて禊をし、信太見長根、神蔭山を経て、頂上の本社に参拝するのが正式のようです。Googleマップで辿ってみたのですが徒歩なら結構きついですね。
知らぬが仏知るが煩悩。一の瀧、二の瀧で禊をしないまま向かうことをお許しください。
ここから頂上までは約40分とのこと。
保呂羽山自然環境保全地域(昭和50年2月22日指定)。
保呂羽山の標高340m付近から頂上(438m)にかけてブナ、ミズナラを主体としたすぐれた天然林が分布していることから、本地域を自然環境保全地域に指定し保護していますとのこと。
この先も何となく車で行けそうな感じですが、完全に車が通れない登山道入口(頂上まで500m地点)までは大した距離ではないので、駐車場に車を停めて行きましょうね。
ってことで、頂上まで500m地点。
現在地。
あぁ・・・図らずも・・・はしょりすぎて余裕な感じ・・・
この先はこのような道が続きます。
勾配もあまりありませんね。
駕籠立場に到着。ここまで駕籠で来たんですね。さすがお殿様。
駕籠立場…『佐竹藩のお殿様は、保呂羽山の神様を深く信仰していました。お参りに来たときは、この場所で駕籠を降りて、歩いて登ったと言われています。ここから山が険しくなってきます。』
一部階段のような場所もありました。
見えてきたのは下居堂。
境内社になります。
普賢堂とあります。
何も拝めませんでしたが、普賢菩薩を祀っているようです。
下居堂…『昔、保呂羽山は、女の人が登ってはいけないとされていたため、女の人たちは、山の上ではなく、この下居堂で神様にお参りしたと言われています。下居堂には辰年・巳年生まれの人の守り神が祀られています。』
何やら石塔がありました。
一つは大日大神。
もう一つは木村敏郎大神。きっと偉いお方。
先へ進みます。
見えてきたのは鎖場です。
急に勾配がきつくなります。
鎖場…『ここは急な岩場で、お参りに来た人が困った難所の一つでした。そこで寄付されたお金をもとに、鎖が取り付けられました。今から百年以上も前のことです。材料の鉄は、中国から取り寄せたと言われています。』
しっかりと鎖につかまりながら慎重に登りましょう。
とか言ってますが、鎖はほとんど使いませんでした。
見下ろした下居堂。
鎖。
先へ進みます。
見えてきたのは子守石。
子守石。
子守石…『昔、保呂羽山に女性が登ってはいけなかった頃のお話です。あるとき、子守に夢中になった女の人がついつい山道に入ってしまいました。そのため神様の怒りに触れ、石にされたと言われています。子どもを背負っている女性の姿に見えますね。』
どの角度で見れば子どもを背負っている女性の姿に見えるのかはわかりませんでした。ごめんなさい。
先へ進みます。
冒頭の案内板「保呂羽山」(平成24年10月大森町郷土研究会)より…『保呂羽山は、出羽山地の中でも三角形をした目立つ山で、古くから山岳信仰の霊地として知られている。昔、この山に、たくさんの鷹が飛んでいたので、「保呂羽山」と名付けられたという。山頂には、「波宇志別(はうしわけ)神社本殿」がある。この神社は、奈良時代天平宝字元年(757)創立と伝えられ、「延喜式神名帳」に載る式内社である。波宇志別神とは、農業の神様だとも言われている。仏教が広まると、神仏習合の教えから、この山は山伏が修行する「修験の山」となった。江戸時代、秋田藩主佐竹氏は、保呂羽山に対する信心が厚く、この神社に参詣した。大森町屋敷台から保呂羽山に登る参道は、「表参道」と呼ばれた。その頃、保呂羽山は、秋田藩八沢木村と亀田藩羽広村との藩境にあったので、「境界争い」が百年以上も続いた。文化十年(1813)、両者が立ち会い、「境塚(さかいづか)」を十四ヶ所築き、争いは幕を閉じた。駐車場近くの「蟹沢頭(かにさわがしら)の境塚」も、その一つである。』
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