1
秋田県横手市大森町八沢木宮脇。県道265号を挟んで向かいにある杉林には、保呂羽山波宇志別神社神楽殿があります。
2
無料・無人の史料館です。平成2年10月から平成5年3月にかけて解体修理を実施した国指定重要文化財「波宇志別神社神楽殿」及び、国指定重要無形民俗文化財「保呂羽山の霜月神楽」の資料を中心に展示。
3
資料を中心に一部だけの紹介となります。現地にてお楽しみください。
4
国指定無形民俗文化財「保呂羽山霜月神楽」の写真。
5
復原…『文化財の復原工事を実施する場合、特別な事情(歴史的な特記事項等)が無い限りその建物が創建された時代、または調査で確認できた創建時代に近い時代の姿に復原することが原則となっています。今回の平成の大修理では、神楽殿の姿を創建時代の姿に復原することを前提に作業を進めてきましたが、調査の結果、現在の厨子が社殿が建立された後に、新たに造り加えられたこと、また、妻飾りの懸魚や鰭が寛永14年に新たに付けられたこと、さらに、屋根の主要部材が江戸時代後期に取り替えられており、建立当初の形式を判明することができないことなどから、年代が判明している破風板等を利用して屋根形式が推定できて、創建時には無かったと思われる厨子や妻飾りも取りつけることのできる江戸初期(寛永年間)の姿に復原することになりました。』
6
6.5
6.8
神楽殿の概略図と各部名称。
7
7.2
7.4
7.8
神楽殿三つの名称…『神楽殿はその呼び名の他に、弥勒堂と本宮の二つの名を持っている。これも縁起と同様別当を勤めた両家による違いであり、大友家が弥勒堂で、守屋家が本宮である。弥勒堂説の根拠は、もともと弥勒仏は吉野山に由来するものであり、また弥勒が地上に現れた姿が布袋であるとする。さらに布袋は鈿女命(天鈿女命)と同じであり、鈿女命は神楽の祖神であることから、三段論法により、弥勒堂は神楽殿と同じことであるとするものである。一方、本宮説の根拠は、もともと波宇志別神社の発祥地は神楽殿の附近であり、御神体ももともと神楽殿に祀られていたとする。神楽殿こそがもともとの御宮であるから、すなわち元宮もしくは本宮であるとするものである。神事の毎に神楽が舞われたことは江戸時代の記録にあり、神楽殿として使われていたことは間違いない。文化11年(1828年)に藩命による本宮と呼ぶことを禁じられたため、その後は大友家が唱える弥勒堂が主流となった。さらに明治の神仏分離令以後は弥勒堂も使わなくなり神楽殿ひとつとなった。しかし、参道近くの楢岡川に架かる橋の名に「本宮橋」の名を残しており、複雑な歴史の一端をのぞかせている。』
8
神楽殿古図(真澄遊覧記、雪の出羽路の挿絵)。真澄が波宇志別神社別当である大友家に逗留して執筆した文政7年(1824)12月頃の状況。
9
八沢木村羽広村論図の神楽殿付近。天和年間(1681~83年)以降、久保田藩と亀田藩とで幾度となく境界論争がくりかえされ、元禄13年(1700年)幕府より検使が下向した居りに使用されたとする絵図。この絵図では神楽殿が弥勒堂と記されています。
10
年輪年代測定と建立年代の考察…『1.建立年代の調査…神楽殿の建立年代については、棟札や建立時の古文書等の資料がなく、また建物をすべて解体しての個々の部材調査によっても、建立年代を示す墨書は発見することができませんでした。しかし、後設である厨子の柱に天正12年(1584)の墨書が見つかり厨子の年代がほぼ明確になったため、本体建物と厨子の年代差を求めれば、或る程度に神楽殿の建立年代を限定できると考えられました。 2.年輪年代測定の実施…現在、木製品や木造の建造物の年代判定で、絶対年代を出す決め手として注目を集めている年代測定法に、年輪年代法といわれる測定法があります。この方法は、使用部材の年輪の規則性を調査することによって部材の伐採年代を究明するもので、測定部材の状態によっては誤差を殆ど生じさせないほど正確に判定することができる測定法です。偶然にも神楽殿は、今回の工事に先立つ昭和62年に厨子の板壁についてこの年輪年代法による調査を実施した経緯があり、当時の調査結果は、神楽殿の建立推定年代であった室町時代中期よりかなり遡る、12世紀末から13世紀初め頃の伐採されたというものでありました。そこで今回の解体修理の機会に、前回の調査の追調査を進め、新たな見解が生じる可能性を期待しました。調査は前回と同じく、この測定法の日本での第一人者である奈良国立文化財研究所の光谷拓実主任研究官に依頼しました。調査は修理現場で試料を選別しながら実施され、年輪層が100層以上あると思われる部材32点について計測を実施、得られた年輪幅データーをコンピューターに入力し、東北地方の遺跡出土材で作成したスギの暦年標準パターンや、木曽ヒノキで作成した暦年標準パターンと照合して各部材の年代を導き出しました。 3.測定結果…今回測定した部材及び前回測定した厨子の板壁材の測定結果は、別パネルの表に示した通りで、大きく三つの年代に分類することができます。①第Ⅰ群(12世紀末)再利用材…これに属するものは、試料№11.17.18と前回測定した№33~40までの部材で、天井長押受け木、板壁、厨子の板壁の部材がこれに当ります。このことは、礎石に残る柱痕跡と合わせ、神楽殿の前身建物または12世紀末から神楽殿の建立当時まで存在した建物を、神楽殿の建設に合わせ解体し、その一部を神楽殿に再利用したものと考えることができます。②第Ⅱ群(16世紀中頃)建立時の当初材…この第Ⅱ群の年代判定は、神楽殿建立年代を推定する重要な手掛かりとなります。この第Ⅱ群に属するものは、試料№1~10.12~16の部材で、舟肘木、内法貫、鴨居、小壁板、天井長押、厨子大斗、厨子枠肘木、板壁がこれに当たります。この中で注目されるのが試料№1の舟肘木や、№13~16の厨子枠肘木、板壁で、これらの部材には、年代判定の決め手となる木の表面に近い辺材(木材の白い部分)が残っており、使用された木材の伐採年代に近い年代を求めることができました。結果は、試料№1の建立当初材とされる舟肘木の残存最外年輪が1555年と判明し、この部材に1.8cmもの辺材が残っていることから、1555年以降の極めて近い年代に伐採されたものであることが解りました。このことは、神楽殿の建立が1555年以降であることを証明し、建立年代も建築様式より推定していた室町中期頃から、室町末期頃に時代が降ることとなりました。』
11
建立当初(室町時代後期)の部材(柱・舟肘木)
12
柱根。
13
神楽殿の基礎部発掘調査で出土した古銭。
14
国指定無形民俗文化財保呂羽山霜月神楽(昭和52年5月17日指定)…『【由来】波宇志別神社に伝えられた、古式を残した霜月の湯立神楽で、三河、信濃の霜月祭とも呼応している。今は新暦の11月7日、代々の神主大友氏の家の神殿に、伊勢神明、保呂羽山をはじめとする秋田の三国社、諸人信仰の神々を勧請し、神前の釜に湯を沸かし、湯加持の後、神子が釜の湯を笹を束ねた湯箒につけて神々に献じ、参拝者にも振りかけて清めをする。この湯立が繰り返し行われる。又、「剱舞」と称するのは、昔、秋田の古戦場に没した人々を弔う湯立で、特別の神歌がうたわれる。ここの湯立には、面形の舞はないが、五調子、神入舞、山の神舞など、この地方に古くからの祈祷の舞が、間々に舞われ、又、「御饌祝詞」と称し、五穀の豊穣を感謝する祝詞も、湯立の間、斎主によって唱えられる。本田安次博士によると、この霜月神楽の神事そのものは明治初年に行われなくなった伊勢の霜月の寄合神楽とそっくりで、ただ、お湯を捧げる神々が伊勢の諸社に代わり、天道神社や伊勢両宮をはじめ、参拝者の信仰する神々に代わっているだけという。いうまでもなく、波宇志別神社の霜月神楽は伊勢系の神楽であり、その形式はことに古風を伝え、湯立て神楽といえば真っ先に挙げられる神楽である。【代表的舞の概略】〇保呂羽山舞…霜月神楽では神子舞が度々となく演じられるが、舞いの形はすべて同じで、お湯を捧げる神によって、それぞれの神歌や託宣がはいる。保呂羽山舞は神子舞のなかで、神歌の間に託宣が入る唯一の舞いであり古くは実際に神つきになったといわれているが、今は託宣も固定化されている。舞は七段に構成され、なかで三十首近くの神歌が歌われる。陶酔境に誘い込まれるほどの優美な舞である。〇山の神舞…数多い舞の中で最も重く見られている舞で、丑の刻、午前1時から舞うのが古例とされている。楽人一名が鳥兜、白い狩衣、両たすき、かるさん、手甲、脚半、白足袋となり、楽人一同と三三九度の盃ごとのあと、三十六童子と桂男の紙幡を桃の枝につけたものを手に持ったり、背に差すなどして舞う。舞は30分近くもかかるが、番楽などにも似て、あたかも荒々しい神がついたかと思えるほど激しく、まさにこの世とは思えないほどの異様な雰囲気につつまれる。舞は十二段に構成、神楽の中で最も難儀な舞である。〇神入舞…烏鳥帽子、狩衣の楽人1名が出て、拝礼してから刀二振りをいただき、一振りは腰に差し、他の一振りは半分抜いて、一文字に拝し、舞う。次に、座って神酒をいただいてから素手で舞い、さらに扇子をとって舞う。続いて、刀を一振り、次に二振り持って舞う。実に勇壮な舞で、刀の使い方も変化に富む。』
15
【波宇志別神社略年表】※一部抜粋
天平宝字元年-保呂羽山天国寺開かれる。※天平宝字2年、雄勝・平鹿二郡を分建、雄勝城が築かれる。
天平宝字三年-保呂羽山下居神社創建。
延喜5年~延長5年-延喜式神名帳に波宇志別の神一柱と登載され、出羽国九座の一つに列せられる。
康和元年-保呂羽山に宮侍共の騒動あり、清原一族の和談によりおさまる。
応永元年-本宮の西方の峰に社地を定め保呂羽山と号す。
応永二年-保呂羽山に三間四面の社堂を造立する。
応永三年-本宮より保呂羽山に神影を遷座する。
天文十九年以降-神楽殿の建立時期か?
天正九年-保呂羽山波宇志別神社本殿焼失。
天正十二年-厨子南側柱に「天正十二年五月吉日」の墨書が残っており、厨子が建立された時期か?
天正十六年-木ノ根坂 大友家類焼。
天正十八年-大友右衛門吉継が覚書「保呂羽山祭祀之次第書」を作る。※上杉景勝、雄平仙三郡の検地を実施するため大森城へ入城する。上杉家家老色部長真、保呂羽山の神を分霊、奉持して越後に帰国、領地に保呂羽堂を建立し奉祀する(のちに米沢に遷座する)
慶長五年-大森城落城
慶長六年-大森城主小野寺康道、石見国津和野に流謫される。
慶長七年-佐竹義宜公久保田入部
慶長十一年-本殿建立及び神楽殿修復。
寛永十四年-神楽殿の懸魚・破風取り替え(懸魚に残る墨書)。
万治三年-本殿新規建て替え(棟札)。
元禄十三年-久保田・亀田両藩の境界論争裁定のため御検使が下向、同12月御公事裁定が下る。
宝永四年-神楽殿の屋根葺き替え、修理。
正徳四年-古文書に神楽殿の屋根が茅葺きの記録あり。藩命により廃絶した式内社である塩湯彦・副川の二社を復興させる。
享保九年-神楽殿の屋根葺き替え。
元文二年-神楽殿の屋根葺き替え。
延享二年-神楽殿の屋根葺き替え、修理。
宝暦五年-神楽殿の茅葺き及び箱棟等の修理。
宝暦十一年-前年、倒木により神楽殿が破損したため、小屋組他の大修理を行う。
宝暦十四年-本殿野火により焼失。
明和三年-神楽殿の屋根葺き替え。
明和五年-神楽殿の屋根指し茅え、修復。
安永五年-本殿新築。
享和元年-大友親久、伊勢松坂にて本居宣長に入門する。
文化三年-大友吉言(直枝)伊勢松坂へ遊学する。
文政七年-菅江真澄が大友家に滞在し「雪の出羽路」を執筆。
文政八年-大友吉言、藩校明徳館和学方初代教授となる。
嘉永六年-守屋家の家屋が焼失、百名以上の焼死者と藩主よりの宝物を焼失したことにより当主が神主の職を失い、藩外の岩館に追放となる。守屋家は明治2年まで大友家と神主を続けた。
明治二十二年-本殿焼失。
明治二十四年-本殿建替え。
大正五年-神楽殿の屋根葺き替え(棟札)。
昭和十二年-神楽殿背面柱二本取り替え及び背面軒修理(墨書)。
昭和三十四年-神楽殿の屋根をこけら葺きからトタン葺きに改造(棟札)。
昭和四十七年-神楽殿の調査が関口欣也博士によって行われる。
昭和四十九年-神楽殿の屋根修理。仁王門の屋根を茅葺きからトタン葺きに改造する。
昭和五十二年-霜月神楽が国の重要無形民俗文化財に指定される。
昭和五十五年-神楽殿が国の重要文化財に指定される。
昭和五十八年-神楽殿の軒先修理と根太補強修理が行われる。
昭和五十九年-神楽殿に消火設備・避雷設備が設置される。
平成二年-神楽殿の平成の大修理が始まる(解体修理)。
平成四年-神楽殿の平成の大修理が終了する。
16
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ