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秋田県山本郡藤里町粕毛字岩合。写真は道中にあった看板です。御神体は不動明王立像で、その他脇侍、矜羯羅童子、制多迦童子の木像があるようです。
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看板付近にあった石碑。
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山神社?
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いや、■■山神社かも…
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上部が壊れていたので。
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神社前。素波里ダムから流れる粕毛川沿いに鎮座。
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案内板より…『滝の手前にある素波里神社の祭神不動明王は気性の烈しい神様で、参拝の際には身体の汚れを清める滝あびの行をしたことから、不動の滝、素波里不動滝とも言われている。また、この滝口周辺は素波里安山岩からなっており、滝口が酒を注ぐ銚子のように長く突き出ていることから、銚子の滝、更に滝の裏から見る光景が素晴らしく裏見の滝とも呼ばれている。祭神の不動明王は奥羽・錦戸太郎国衡が氏神として祭ったと謂われある神様で、明治初めまでは青黒山峰大寺と言う大変古い神社で信者は近郷の村々は勿論、北海道や関東・北陸からも参拝に訪れている。不動の滝、素波里神社周辺の景勝の地は、ダムの建設により当時の情景はないが、文人墨客も多く探勝され、菅江真澄(1802年)石井露月(昭和2年)=ともに歌碑あり、石井忠行(伊豆園茶話)などの探訪記がある。』
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「藤里町」の「里」は「素波里」の「里」から取っているそうです。昭和28年9月10日の町村合併促進法の施行とともに、藤琴村、粕毛村は合併促進協議会を設け、両村合併を策定し、新村名については、藤琴村の「藤」と粕毛村の名勝地素波里の「里」を併せて「藤里」と決め、昭和30年3月31日藤里村が誕生。
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粕毛についてです。粕毛は米代川支流藤琴川の西部に位置。中央部を粕毛川が流れ藤琴川中流部に合流し、流域一帯から縄文時代の遺物が出土しています。素波里不動尊は鎌倉期に祀られています。駒ケ岳村ともいい、明応年間に居住の加島氏にちなんで加島野村または春日野村と称し、粕毛村の地名はこれによるといいます。根城に平安末期構築という館跡があります。中世末期には糠野村のうちに属します。江戸期以降粕毛村は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。慶長8年村高244石余の村として成立したと推定。元和6年梅津政景の知行地となります。粕毛川上流の白神山地中に津軽藩領へ通ずる間道があり、東接する藤琴村とともに御境目郷に指定。広大な山林は御留山となります。天正年中からの草分百姓という安保家が肝煎を世襲し、山拠人を兼ね、植林に尽くしています。「安保家文書」を伝存。元和8年など幾度か大洪水に悩みながらも再開発が繰り返されています。藤琴村の寄郷で、枝郷に薄井・真土・長泥・根城・長場内・芦野沢・米田・坂巻・室台・下室台・谷地・下坂巻・熊野台の13か村を擁します。慶長年間の開村という真土村から寛文年間の開村という熊野台村まで檜山郡内や秋田郡比内地方からの入植者が多いです。「正保国絵図」の本田当高325石、「享保黒印高帳」では村高468石余・当高414石余(うち本田183・本田並21・新田210)、「寛政村附帳」では当高543石余(うち蔵分311・給分232)、「天保郷帳」は414石余。戸数は「享保郡邑記」で159軒(うち枝郷分105)。文化10年には259軒・1,280人・馬557頭といいます。村鎮守は神明社(古くは神鏡山春時といいます)ですが、山中粕毛川渓谷の至景の地にある素波里不動堂(素波里神社)も尊崇を集めました。菅江真澄も「素波里紀行」を記しています。曹洞宗槽池山白福寺(檜山町多宝院末寺)は正保元年の開基。他に熊野社など5社、修験青黒山源寿院・神鏡山三党院があります。矢櫃鉱山も稼業されています。明治22年山本郡粕毛村の大字。明治22年以降の粕毛村は山本郡の自治体名。粕毛・矢坂両村が合併して成立し、大字は旧村名を継承、2大字を編成。昭和7年の森林軌道粕毛線の敷設を契機に奥地資源の開発が進んでいます。昭和8年粕毛小学校、同9年米田小学校、昭和22年粕毛中学校が開校。昭和10年に耕地面積・農家数に対する小作地・小作人の割合は279戸中212戸・336町歩中117町歩でしたが、農地改革後の比率は10%弱となります。昭和30年藤琴村と合併して藤里村成立。2大字は藤里村の大字に継承。合併時の村勢は467戸・3,099人。昭和30年からは藤里村、昭和38年藤里町の大字。
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写真は周囲の風景。
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11.5
素波里ダムへ向かう橋。
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鳥居。
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鳥居額束神額。
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神社庁より…『【御祭神】日本武尊、素盞嗚神【例祭】7月28日【由緒】古伝承によれば、一説には、保元元年、大開聚落陶鈷岱に篭居していた陶鈷殿という武士が、この地の風景絶佳なのを讃え、口碑に伝うるところの慈覚大師の木彫の不動明王を勧請奉斎したものであって、其の霊験顕著なことは信仰者各位のよく知るところである。記録にある社殿改築等は、元禄5年8月18日郷中で建立。文化10年、藤琴村孫兵衛が神殿を新築して寄進。弘化3年再建、現在の社殿は昭和13年に再建されたものである。』
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参道。
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参道脇の建物。未確認です。
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Wikipediaより一部抜粋…『素波里神社(すばりじんじゃ)は、秋田県山本郡藤里町粕毛字岩合にある神社である。ご神体は不動明王立像である。その他に脇侍、矜羯羅童子、制多迦童子の木像がある。「藤里町」の名前の2字目にある「里」は、「素波里」の「里」から取っている。【主祭神】日本武尊、素盞嗚神(もと不動明王、牛頭天王)【社格等】郷社【例祭】7月28日【沿革】素波里神社の創建は不明であるが、1712年(正徳元年)の神社調べに記載されていることから、それ以前に創建されたことは確実である。1843年(天保14年)の『粕毛村神社書上書』によれば、開基は奥州錦戸殿とある。錦戸殿は1200年(正治2年)4月に死亡していることから、建久年間(1190年-1200年前後)の開基ではないかとも言われている。古名を岩切沢不動堂、山号は青黒山、寺号は峰大寺といったが、神仏分離によって社名を素波里神社に、祭神を不動明王から日本武尊に改め、末社の牛頭天王を素盞嗚神に改めた。【社殿】創建当時の社は、現在の社殿がある西側台地の滝を望める場所にあったとされる。1702年(元禄15年)に郷中で創建、1813年(文化10年)藤琴村の市川孫兵衛が新築して寄進、1846年(弘化3年)と1938年(昭和13年)にそれぞれ再建されて現在に至る。1972年(昭和47年)の大洪水の際、素波里ダムの緊急放水により浸水被害を受ける。その後、防水のために堤防が作られ、以前のような川の畔に立つ社の景観を失った。奉納物は1692年(元禄5年)の鰐口を始め多数ある。1867年(慶応3年)と1869年(明治2年)の俳句献額には、幕末期や明治初期の秋田県俳句界著名人の献額がある。また、社の前には石灯籠や狛犬などが献納されている。1989年(平成元年)には、地元出身のバスケットボール指導者の加藤廣志より「能代工業バスケットボール全国優勝30回記念」の碑と水盤の石が献納されている。加藤廣志は2018年平成30年3月に亡くなったが、妻テイが同年7月に同神社の手水舎の屋根と柱を寄進している。手水舎は幅4メートル、高さ3メートル。銅板葺きで、バスケットゴールの柱に見立てたイチイの支柱が特徴である。加藤廣志は、能代工業バスケットボール部の監督を退いてからも年に一度は参拝し、亡くなる前年も訪れていたが、水盤の石が長く野ざらしに近い状態だったのを気にかけていたという。神社奥すぐに素波里ダムの施設があるが、この脇を通り過ぎて左奥に行くと、素波里不動の滝がある。滝下には数個の献納された観音像がある。【伝説】口伝によれば、円仁が自作の不動明王を祀ったのが始まりだとか、安倍氏が敗れてこの地に逃れて来たときに、背負ってきた不動像をこの地に置いたのが始まりだとか、粕毛村谷地にあった館に立ち寄った比内浅利氏の氏神が始まりだという説もある。いずれの説も、戦いに敗れて素波里の奥地にある大開(現在の猿ヶ瀬素波里園地)を目指したものの、道が険しく素波里に置き去りにしたものを、地元の里人が小屋を建てて安置したものであることは一致している。【菅江真澄の記録】菅江真澄は1802年に素波里神社を訪れ、その内容を『しげき山本』に記している。真澄が神社につくと「青黒山」と書いた額があった。鉄製の小さな剣が神社の梁に隙間無く並べられていた。不動の滝に行くと滝の奥にも道があって3人の男が歩いていった。神社に戻り、川をさかのぼって来た舟に乗せてもらい「すばり」という迫りたつ岩の間を進んだ。岩は高くそびえ、淵は青く深かったが、水は底まで澄んで透き通り清らかだった。なお進むと、岩壁がますます迫ってきて、桃源郷を訪れたような気分になったと記している。その後、雷鳴が鳴り響いて来たので舟は引き返している。【石井忠行の記録】久保田藩士であった石井忠行は、『伊頭園茶話』第15巻(明治7年)に素波里神社(不動)のことを記録している。石井は久保田藩の巡検使だった井口経包(亘)の『六郡御界目巡回雑記』(1789年)を抜粋しているが、井口は実際に素波里神社を訪れておらず、粕毛村の肝煎だった安保万右衛門からの聞き取りを記しているため、石井は井口の記録を修正する形で素波里神社を紹介している。粕毛川を2里ほど遡れば素波里の不動があり、西向かいの滝があることを記している。また、不動堂の前の川から川上に舟で行くと、石に切れ目があり、塩俵を積み重ねたように見える所があり、他に見たことがないような面白い景色を見ることができるとしている。また、不動の滝は六尺にならない程度に細く流れているとしている。石井忠行が見た場所には、現在素波里ダムが建設されている。【その他】素波里ダムができる前はこの地は左右の崖が迫る景勝地で、菅江真澄、石井忠行、狩野旭峰、石井露月その他の有名な文人墨客が多く訪れ、探訪記を残している。昔日の祭典は近郊からの参拝者が非常に多く、大変にぎやかであったといわれる。「すばり」という語は「すぼまって狭い」という意味で、同じ藤里町でも藤琴川の奥に素波里という地名があり、同じく渓谷地形である。』
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両部鳥居。
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参道。
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手水舎(平成30年7月吉日建立)
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21.5
手水石。
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22.5
全国優勝三十回記念…『藤里町中畑出身。能代工業高等学校バスケットボール部監督加藤廣志氏より献納されました。平成元年七月吉日氏子一同』
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手水舎前。何かは不明。小さなテーブルとイスみたい。
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狛犬一対(昭和63年7月吉日、神奈川県平塚市、有限会社山本建業、寄附人山本貞信)
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25.5
石灯籠一対(昭和49年7月、藤里町川口林業川口金三)
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26.5
狛犬一対(紀元2590年、菊池友藏奉納)※昭和5年
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27.5
狛犬一対(大正5年7月28日)
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28.4
28.6
28.8
石灯籠一基(文化12年乙亥9月、飛根村山本氏)
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石灯籠一基(天保5年甲午2月、飛根村山本氏)。年代が違いますが一対となっており、奉納者も一緒です。
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加藤新六氏(家名治五右エ門)頌徳碑(昭和39年11月吉日、素波里神社氏子一同、のしろ市毛利石材工業施工)。碑文省略※余裕で読み取れる状態です。
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社殿前参道。
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境内神社。
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中は真っ暗でした。稲荷神社っぽいですね。
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こちらは不明。石が積まれているというより、何かが崩れて寄せられている感じ。
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こちらは…
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う~ん…読み取れません。
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37.5
社殿は文化10年に藤琴村の市川孫兵衛が新築して寄進し、弘化3年と昭和13年に再建されています。
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38.5
拝殿向拝。
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39.5
拝殿向拝神額「不動明王」(願主高橋久作、正道敬書)
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奉納物は元禄5年の鰐口をはじめ多数。慶応3年と明治2年の俳句献額には幕末期や明治初期の秋田県俳句界著名人の献額があります。
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境内から不動の滝へ向かう道。
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菅江真澄歌碑「山ふかき滝のかげみち行く人のぬれて涼しく麻のさごろも」(山本香千代謹書)。景勝地で名高い素波里の不動の滝は、滝の裏側を通ることができたので「裏見の滝」の別名がありました。滝のかげ道を通る人々の衣が濡れて涼しげな様子を詠んだ歌です。
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43.5
案内板より…『秋田藩主九代目佐竹義和は、各地の風俗習慣を記録し、紀行文を残している真澄と会い領内の地誌作成を依頼し紀行させている。真澄が藤里町を訪れたのは、享和2年4月(1802)のことで49歳の時である。藤里町への経路は、二ツ井町加護山を経て当町に入り、藤琴川を逆上って太良鉱山(1958閉山)に1ヶ月にわたり逗留し、同年6月に再度訪れている。この間に真澄は、町内各所を探訪しスケッチ36枚、十七首の歌を詠んでいる。史実が乏しい当町としては、真澄の記録は唯一の歴史的証でもある。三河国(愛知県)出身で県内を約30年にわたり紀行している。「山ふかき たきのかげみち 行人の ぬれて涼しく 麻のさごろも」素波里不動滝の細い岩路で、しぶきに濡れている峡衣(さごろも)が涼しそうだ。揮毫者:藤里町出身、山本香千代氏』
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地図。
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