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秋田県山本郡三種町志戸橋割道。社号標は昭和32年5月建立。
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志戸橋は羽州街道沿いに檜山の南方4kmに位置し、四方を台地に囲まれた低湿地帯が中心。余水は志戸橋川(のち外岡川)となり鵜川川に注ぎます。地名の由来は低湿地帯の交通の困難さに求める説が多く、貴人・軍兵通行の時に駆り出された村民が材木を肩にして人橋をつくったという説、四斗俵に土を詰めて橋をつくった四斗橋説などがあります。周囲の山林原野中に縄文遺物包含地4ヶ所が確認されています。戦国期の志戸橋村は出羽国檜山郡のうち。村名の初見は天正19年正月17日豊臣秀吉が秋田実季の当知行を安堵した朱印状写の「大森村・志と橋村」225石。文禄元年・慶長6年の「秋田家分限帳」では秋田氏家臣の大高甚助代官所給地として「志戸橋村」188石と見えます。後者が当時の当村公認石高の全部であり、恐らく志戸橋川下流域の外岡付近まで含んでいたと推定。なお、永禄8年5月20日安藤愛季が安藤土佐に与えたとみられる知行宛行判物写には志戸橋一揆鎮圧の旨が記載されています。一揆の実態は未詳。また、秋田氏家臣の袴田小左衛門は、志戸橋村の草分け的存在と伝えられており、慶長2~3年に羽立・藤木台の両村が当村内に開村されたといいます。
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江戸期以降の志戸橋村は山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。藩政初期の羽州街道整備により、当時西方の藤木台方面を迂回することもあったという街道が志戸橋集落の中央を貫通。野代町経由の大間越街道が西端を縦断し、この地点に外岡村が分離独立。元和3年6月、晦日梅津憲忠から羽生縫殿允に宛てた志戸橋村開発の指紙があり、また、泉岡村多兵衛らの忠進開もあったといいます。「正保国絵図」で180石、「元禄7郡絵図」で170石余の村と図示されますが、「享保黒印高帳」では村高340石余・当高291石余(うち本田161・本田並43・新田87)、「寛政村附帳」で当高298石余(うち蔵分165・給分133)と認定。新田開発のために多くの堤池が造成されました。元禄6年に枝郷新羽立村も開村されましたが2年後に潰村となるように用水は必ずしも充分ではありませんでした。しかも志戸橋野を含む周囲の山林原野は御札山に指定され、その余分も下岩川・鵜川・大内田・浅内・扇淵など周辺農村との共同入会地となっており、開発をめぐって紛争が多発しました。戸数は「享保郡邑記」で60軒(うち2枝郷分9)。親郷は当初は森岡村、天明年間に檜山町、寛政年間以降は豊岡村。「文化7年南山本郡書上帳」には当高338石余・62軒・400人・馬131頭・堤池51・御札山4・私有林12・入会地4とあります。肝煎家に袴田・石井・河村氏が知られています。「天保郷帳」では291石余。村鎮守七星如来堂(別当は母躰村修験吉祥院、明治初年に村社七星神社と改称)のほか、神明社・不動堂があります。明治9年の火災で12軒焼失・1人焼死・牛馬2頭焼失。同22年外岡・金光寺・豊岡金田村と合併し、山本郡金岡村の大字となります。昭和30年からは山本村、同37年からは山本町の大字。
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石殿一基。
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社殿。
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なお、当神社の由緒等については調べていませんが、Googleの口コミには「割道福田神社 大正初期、この地は広い原野であったのを、福田氏が開村した。現在の村民は県内のあちこちより入植した人たちで、開村の祖に感謝を捧げるため祀ったものである。」とありました。口コミではありますが土地柄を考えると信憑性はありそうですね。同地区の中田神社の由緒も似たような感じですし。
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本殿手前に石碑がありますがよく見えませんでした。但し、横に庚申塔という標柱がありました。
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