青森県五所川原市金木町川倉林下。

社号標「村社三柱神社」(大正7年5月10日建之、村中敬白)

参道。

昭和62年鳥居献納寄附御芳名。

鳥居。

久しぶり!!
鬼コ。
背中…『大正十二年旧正月元日 中谷與助 白川定市 白川重逸 秋元■■ 白川岩■■ 中谷勇三 中谷信■』
針金のせいで微妙に見えないんですよね。
各々判断なさってください。
あっ、鬼コカードの方が見やすいかも。

鳥居。

こちらにも鬼コ。
くぐる鳥居は鬼ばかり!!
絵に描いたような鬼。
過去の記事

もう一つの鳥居。

神社と観音堂とで、鳥居及び参道が別なのか、表参道裏参道的な扱いなのかは判断しかねます。


鳥居。

石碑がありますが微妙に読み取れず。頑張れば読み取れるかも。頑張りません。


石造の神額。かつての鳥居のものかな。

小祠。何かは不明。

石もありますが、被り物をしていて読み取れず。


こちらも…


読み取れず。そして頑張りません。


隣に川倉芦野堂の門。
観音堂。
津軽三十三観音霊場第十三番札所。御本尊は聖観世音菩薩。御詠歌「水上はいずこなるらん川倉の耳にこととう山びこの声」

「十三番聖観音」(昭和58年12月31日)

創建不詳。三代藩主津軽信義が寛文8年(もしくは12年)に霊場として整備したのが始まりと伝え、寛延年中に津軽三十三観音霊場第十三番札所に選定されてから広く信仰されるようになりました。当初は観世音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像が祀られており、安政2年に飛竜権現を合祀して飛竜三社大権現と称します。神仏分離令により観音堂は廃堂となり社号を三柱神社に改称し、明治6年金木八幡宮に合祀するも同8年復社。昭和となって池屋(高橋家)、山源(津島家:太宰治生家)などの金木の有力者の尽力によって昭和5年に観音堂が再建され、川倉芦野堂と命名されています。なお、現在の御本尊は弘前出身の仏師三光堂三代赤岩太郎が彫刻したもので、昭和10年に津島イツ(太宰治の祖母)が寄進したものとなっています。

川倉についてです。津軽平野北部、岩木川支流金木川の右岸北部に位置。当地には下北の恐山とともに津軽の霊場として有名な川倉の賽の川原があります。賽の神沢を堰止めて作られた藤枝溜池を望む小高い丘陵上に地蔵堂があり、旧6月23・24日が例大祭で大勢の信者が集まります。また、地蔵堂の裏側がイタコ町で、いたこ信仰が盛んです。縄文時代の芦野七夕野遺跡もあります。

江戸期以降の川倉村は津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は「寛文高辻帳」220石余、「貞享4年検地水帳」924石余(田768石余・畑屋敷156石余)、「寛保高辻帳」220石余、「天保郷帳」470石余、「旧高旧領」1,029石余。寛文9蝦夷蜂起(シャクシャインの乱)に際し弘前藩は鎮圧のため出兵しますが、この時に出兵した小荷駄付小知行之者の中に「川倉村藤兵衛、同村孫左衛門」が見えています。天和2年庄屋茂左衛門提出の書上帳添図には屋敷58軒、うち本村46軒・同裏屋敷5軒・新田屋敷6軒・同裏屋敷1軒とあります。この新田屋敷6軒は漆新田のことで、天和3年の御代官所村家人数之帳にも、下ノ切御代官所支配の新田村として川倉新田が見えています。また、貞享元年漆新田庄屋勘兵衛の書上にも6名が記載されており、漆木350本とあります。なお、同新田は後に当村に吸収されたものと思われますが、漆の栽培は続いており、文久2年には当村中谷甚平六が漆役に任命されています。「貞享4年検地水帳」によりますと、小字に「よね出・林の下・はしのす・宇多野・女坂・七夕野・そと沢・小谷・田子・いなり沢」がみえ、反別は田101町9反余・畑37町8反余・屋敷2町2反余、また、開発可能地(田畑)246町8反余、池床11か所・1町8反余、漆木106本、山3ヶ所、芝野27ヶ所・39町6反余、沼1ヶ所・5町歩・水荒畑2町余があり、この他に除地として観音堂地・境内林4反余がみえます。元禄3年には「河倉村」と見え金木組に属し村位は下。同7年の御国中道程之図によりますと、当村は下之切通筋に位置しており、金木村~川倉村の距離30町23間、その間「さいノ神沢」を渡り1町19間の坂を登ったところに七夕野があり、川倉村~深郷田村の距離27町43間、その間深郷田村内「しけみ」に一里山がありました。神社は村内の林下に三社権現(観音堂)があります(安政2年神社書上帳)。同社は明治4年三柱神社と改称。同6~8年の間は金木村八幡宮に合祀。寺院としては安政4年深郷田村善導寺8世廓詮の草創という西光庵がありましたが明治3年の火災で焼失。明治4年弘前県を経て青森県に所属、同11年北津軽郡に属します。明治2年の戸数54・人口326、馬71。同3年知藩事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を諭し、これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われましたが、同4年の金木組村々士卒水帳によりますと当村に帰農を割り当てられた在宅士族は俵子30俵3人、20俵1人、15俵1人でした。明治初年の戸数51、村況は「民居高き処にあり、田多畑少、土地は下」(国誌)。明治10年頃の陸奥国津軽郡村誌によりますと、村の幅員は東西1里半・南北18町、税地は田69町8反余・畑17町2反余・宅地8町6反余・山林3町2反余・林2町8反余・秣場148町8反余など計250町7反余、戸数56・人口424(男215・女209)、馬82、神社1。物産は米・雑穀。同12年川倉小学が開校しており開校時の生徒数20(男のみ)・教員数1、のち同20年に藤枝尋常小学校に併合。明治12年の「共武政表」によりますと、戸数62・人口482(男248・女234)、馬6、学校1。物産は米・檜・薪。同22年金木村の大字となります。大正9年からは金木町の大字。明治24年の戸数62・人口575、厩35。同27年に川倉小学は藤枝尋常小学校から分離し、児童は金木尋常小学校に通学。同32年地内字七夕野に校舎新築し第二金木尋常小学校となります。同36年金木第二尋常小学校と改称。昭和11年金木第一尋常高等小学校の川倉分教場となりましたが、同15年再び独立して川倉尋常小学校、同16年川倉国民学校、同22年川倉小学校と変遷。昭和5年津軽鉄道の五所川原~中里20.7km全線開通し同7年川倉停留所が新設。

「特攻桟舘跡民謡碑」

ブロック塀の祠。

石碑は読み取れず。

何かすごい御神木。

鳥居。

こちらは…

地蔵尊かな。状態&衣服で判別できず。

社殿前参道。
石灯籠一対(明治27年)


狛犬一対(大正6年5月2日、発起人:白川安太郎、秋元金四郎、白川長助、其田清太郎)
恐らく御神馬があった台座(皇紀2600年歸還紀念)

一対ですが、もう一つの台座には狛犬がいます。

もちろん台座とは無関係です。馬の蹄があるし。
金木町名木のケヤキ(平成3年指定)。


樹齢500年、幹の太さ4m31cm。


手水石。

小祠と手水石。


民謡碑…『お国自慢のじょんがら節よ 若衆唄えば主のはやし 娘踊れば稲穂が踊る』※上部に岩木山


裏面碑文は民謡プロフィール
郷土民謡研究家白川章一
生年月日:昭和2年7月18日民謡歴40年
昭和53年8月20日相互農機主催 木造公民館 優勝
昭和60年2月11日五所川原雪まつり 五所川原市民文化会館 優勝
昭和61年3月30日全津軽大会 鰺ヶ沢パル 優勝
平成4年2月9日五所川原雪まつり 五所川原市民文化会館 優勝
平成20年6月15日㈶日本民謡協会青森県連合大会 板柳あぷる 優勝
平成21年10月22日㈶日本民謡協会全国大会 東京国技館 優勝
平成22年9月4日㈶日本民謡協会青森県連合大会 青森市民ホール 優勝
郷土民謡家:秋元勇蔵、白川重逸、其田正信、白川栄七、泉谷良雄、白川章一、秋元チヨエ
平成24年11月10日白川章一建之

手水石(昭和9年5月12日)

標柱「正保二年津軽四代高照公信政新田奉行武田源左エ門館跡」・「旧川倉村史跡探求伝承事」・「平成二十三年七月十八日白川章一」

神社庁より…『【御祭神】大山祇命、大國主命、水波女命【例祭】5月12日【由緒】建立年月日不詳であるが三社権現と稱したが、明治四年三柱神社と改める。明治六年金木八幡宮へ合祭のところ同八年復社同九年村社になり。明治四十年四月十九日幣帛供進神社に指定になり。昭和二十六年一月二十五日境内地譲与になった。』
なお、由緒等については過去の記事も参照ください。


拝殿向拝。

蟇股・木鼻。
拝殿向拝下神額(大正13年)

年中行事(川倉部落)

拝殿内。

特攻機。

上にあります。
若櫻と書いております。陸軍特別幹部候補生航空兵合格記念奉納。
社殿前から見た参道。



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