
大館市山田。

門(大正13年7月29日、施主古家春吉)

勝山越後三郎一族郎党弔魂之碑。

六地蔵。

向かって左から法性地蔵(地獄道)、陀羅尼地蔵(餓鬼道)、宝性地蔵(畜生道)、法印地蔵(修羅道)、鶏亀地蔵(人道)、持地地蔵(天道)

「おん かかか びさんまえい そわか」

平和観音。

故陸軍歩兵一等卒安部久助之塚。

宝篋印塔。

石仏。


中央は青面金剛童子(文化8辛未年8月15日當村講中)。両脇はちょっと読み辛かったです。

寿老観音。

手水石。

本堂前の小庭園。

その他、道路改修記念碑や山田小学校跡地記念碑2基などがあるようです。

曹洞宗月田山洞雲寺。
御本尊釋迦牟尼佛。比内三十三観音霊場第二十番札所「法の雨あまねくそゝぐ洞雲寺胸の焔も消ゆる嬉しさ」。
山田は戦国期から見える村名で陸奥国比内郡のうち。天正19年正月吉日豊臣秀吉朱印安堵状写に「山田村」281石余とあるのが初見。実季が秀吉から当知行を安堵された際は、出羽国秋田郡内の村として認定されていますが、天正中期までは陸奥国比内郡に属していました。慶長2年に比内地方の支配回復を主張する浅利頼平は「山田村 田 家廿余之内、半分秋より放火」と中央に報告。現在は向館・館下・下館沢・中館沢・上館沢・下館務沢・館ケ沢などの小字名があるほか、茶臼館(野突館)が現存しており、当時は野突助三郎が居住。館は北側丘陵から派出した舌状台地を利用しており、幅約5mの空濠を1条設けて郭を配します。単郭状平坦面は東西120m・南北100m。慶長6年、実季の家臣への知行宛行状では当村364石は蔵入地に指定され代官支配に任せています。江戸期以降の山田村は出羽国秋田郡南比内のうち。秋田藩領。寛政2年の検地。村高は正保国絵図で本田当高440石余、享保黒印高帳で村高1,307石余・当高974石余(うち本田451・本田並207・新田316)、寛政村附帳で当高624石余(すべて給分)、天保郷帳で974石余。寛政年間の家数158軒、安政年間178軒。南部出身の肝煎兵治右衛門による山田開発以来、江戸初期から享保頃までの開発がめざましいです。枝郷は茂屋村・柏木村・帆立(保滝沢)村・杉の沢村(寛文7年羽立)で、他に冷水鉱山(銅山)が直山となっています。藩制後の検地と村切りに強く反対はしましたが、津軽藩境という状況と山林開発のため大館村(現大館市)の寄郷に位置づけられ、境目山廻人足を、更に羽州街道の助郷を課せられました。一方、山林は御留山として藩の直接支配になり、村割の強制的な杣出しの負担は厳しいものであったといい、幾度となく他村と合同でその軽減を訴えています。また、村での薪木の不足から岩瀬沢御留山目名市沢での岩瀬村との入会地をめぐる争いが続き、結局は天保年中になって岩瀬村の専用となっています。洞雲寺は山田・岩瀬・川口(現大館市)・早口・外川原の5か村に檀家を持つ大寺。鎮守は八幡・伊勢・愛宕などの6社。明治17年に岩瀬・川口・立花(現大館市)諸村と連合、川口に戸長役場が置かれました。明治22年北秋田郡山瀬村の大字。同22年以降ははじめ山瀬村、昭和31年からは田代町の大字。
今から600年ほど前に現在地の東方にある柏木地区の月山の麓に存在した真言宗の古寺が前身と伝えます。


寛文年中、大館玉林寺七世風厳吞海大和尚を勧請開山とし曹洞宗に改宗して開山。安永年間に現在地に移転。
「秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト」より…『大館市山田地域を一望できる高台にある八幡神社は、通称「勝山八幡」と呼ばれています。戦国時代、勝山越後三郎という地侍が治めたこの場所には「山田館」と言われる城がありました。旧山田小学校に飾られた集落マップにも登場する勝山越後三郎は、山田の人々に愛されてきた地域を象徴する人物です。戦国時代の侍の石碑を昭和に入ってから建立するところに、山田の人々の勝山越後三郎への愛着がうかがえます。山田の名が歴史に多く登場するようになるのは鎌倉時代。比内地方を治めた浅利氏が山田と関わり始めてからです。浅利氏は甲斐源氏の流れをくむ一族。平安後期の源平合戦で活躍した浅利義遠は「三与一」と呼ばれ、那須与一、佐奈田与一と並ぶ弓の名手でした。恩賞として比内地方が浅利氏に与えられ、秋田の県北エリアを舞台に浅利一族の名が歴史に登場することになります。勝山越後三郎が登場する時代は、浅利氏が安東氏、南部氏、津軽氏との勢力争いを繰り広げた時期と重なります。山田には山田館跡を中心に多くの中世城館跡が残っており、浅利氏にとって要害の地であったことをうかがわせます。小高い丘を中心に、迷路のように入り組んだ町並みが残る山田集落の姿からは、中世の侍の名残を見ることができます。豪快な人物のエピソードが残されているのも山田の歴史の特徴です。長慶金山の開発で名高い伊多波武助は、山田にある洞雲寺の再建費用を「全て負担した」と伝えられています。名僧を輩出している洞雲寺は、山田の歴史を語る上で欠くことができません。火災による焼失と再建を繰り返したこの古刹には伊多波武助が金山で死亡した鉱夫を慰霊する目的で建てた宝篋印塔という塔が残っています。森林資源に恵まれた山田には多くの入会地があり、ジンジョ様などの道阻神は農耕が盛んな地域ならではの文化とも言えます。また、農耕にはほとんどの家で馬を使用したといい、山田には中世の武士の根拠地だったころの名残が色濃く残されているようです。』



大象不遊於兔徑。

諸悪莫作衆善奉行自浄其意是諸佛教。

釋尊御一代記之絵図傳。託胎-降誕-出城-降魔-成道-転法輪-涅槃

本堂から見下ろした裏庭が美しいですね。
行ってみます。

綺麗に整備されていますね。



「秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト」より…『約600年前に真言宗の寺として月山の麓にあった古寺が大館市山田地域の「洞雲寺」の前身であると伝えられています。寛文年中に曹洞宗に改宗開山しました。現在地に移転したのは安永年間と伝えられています。洞雲寺の庭園は、大館市の旧田代町の中でも随一の名園として知られています。造園に関する記録は残されていませんが、寺移転後に造られたと考えられ、200年余りの歴史を刻んでいると伝わっています。富士山に似た形の山田地域の「茂屋方山(もやほうざん)」を借景として、庭園は四季折々の風情を楽しめるよう、赤松、イチイ、ツツジ類などが巧みに配置されています。』
庭園内に階段がありました。


お寺の建物も立派です。


階段上。

灯籠や石殿もありました。



茂屋方山方面。













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