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岩手県花巻市湯口天王。豊沢川の西。薄衣の滝・天狗の滝入口から比較的近い所です。滝を訪れた際にたまたま見つけて参拝した神社で、由緒等については調べておりません。
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9月4日山神神社例祭・慶事では太神楽が奉納されるそうです。
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鳥居(令和3年4月氏子一同)
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湯口は奥羽山脈の東斜面、北上川支流豊沢川流域に位置。西部は奥羽山脈の支脈が起伏して志戸平・大沢などの温泉が湧出しており、東部は北上川沖積地帯に属する平坦地。地名の由来は、天文年間に稗貫氏の臣湯口大蔵丞が治めていたことによるといいますが、氏名が地名に因むものと考えられ、温泉に因む地名とするのが自然。戦国期の湯口村は稗貫郡のうち。年欠(天正18年か)8月20日浅野弾正長吉判物(万丁目通湯口村喜伊右衛門所持文書/宝翰類聚)によりますと、北奥仕置のため鳥谷ケ崎城に駐留中の長吉は、戦火を避けて逃散した百姓・地下人らを還住させ、「耕作・商買以下もとの通りにつかまつるべし、いささかも非分の儀あるべからず」と命じました。命令の宛先は「ゆくち村百姓中」となっています。また、天文24年稗貫大和守義時が上洛した時の随員に湯口大蔵丞の名が見えます。湯口氏は当村の領主。郡主稗貫氏の一族。稗貫家臣中でも相当な地位にあったことが知られています。なお、湯口の白山神社大日如来胎内銘には「大旦那大畑之禅門前出羽守時義」と、稗貫氏の当主と思われる人名が記されており(建武年間に活躍した中条=稗貫出羽前司時長の子孫か)、寿慶3年の年紀があります(寿慶3年は私年号で南北朝期の嘉慶3年か)。豊沢川の北岸の鐘撞森と呼ぶ小丘の西側に、空濠に囲まれた約40間四方の館跡があり、湯口氏の居館跡と推定。
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江戸期以降の湯口村は稗貫郡のうち。盛岡藩領。享保20年から万丁目通に属します。村高は「正保郷村帳」118石余(田87石余・畑30石余)、「貞享高辻帳」139石余、「邦内郷村志」644石余(うち給地17石余)、「天保郷帳」644石余、天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」644石余(うち御蔵高626石余・御免地高6石余・給所高11石余)、「安政高辻帳」516石余、「旧高旧領」725石余、明治8年804石余。「貞享高辻帳」から「邦内郷村志」の間に石高が増えているのは藩主南部行信が新田開発を命じ、当村に住んでいた煤孫治兵衛盛忠が新田穴堰を開削したほか、花巻城勤番の藩士伊藤久慶も正徳末年穴堰開削工事に着手して元文初年に竣工し、豊沢川から灌漑用水を引き水田を開墾したことによります。また「安政高辻帳」での石高減少は天保3年以来の連続した凶作によります。この飢饉の中、当地方の農民も天保8年仙台藩に訴えて解決を図ろうと数千人が鍋倉村に結集し、中央道を避けて西山根通りを南進、仙台藩の立会で訴えの一部は達せられましたが、上根子村喜四郎ら首謀者は打首となっています。寛政9年の家数115、集落別内訳は湯口73・青山8・志戸平11・日影坂6・大沢17、馬数333。神社としては伊勢神明宮が見えます。「本枝村付並位付」によりますと、位付は上の中、家数103、集落別内訳は橋本10・中野13・上河原7・古堂5・新田16・根岸5・二ツ関4・青山8・志戸平9・日影沢8・大沢18。温泉は豊沢川沿いに志戸平温泉と大沢温泉があります。延享元年の産物は干蕨、壁の上塗用の白土。文政4年の産物は木地類・白土・干蕨・紫蕨・粒かたくり。明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同9年の村の幅員は東西約33町・南北約1里13町、税地は田94町余・畑115町余など計264町余、戸数127・人口753(男383・女370)、馬109。職業別戸数は農業124、物産は馬・米・粟・稗・大麦・小麦・大豆・小豆・蕎麦・蘿蔔・藍・荏油・太布・薪・製茶・白粘土。明治8年第8大区第6番扱所を当村に置き、中根子・上根子・円満寺・膝立・鍋倉・西晴山・湯口・下シ沢・鉛・豊沢の各村を管轄。安永8年に開削された道路で里川口村から南万丁目・中根子・上根子・円満寺・湯口・下シ沢・豊沢の各村を通り、和賀郡川舟村に通ずる沢内街道(沢内往還・沢内往来・中山街道ともいう)が通りました。地内に天保7年創業、明治7年許可の耐火粘土を産出する松倉山鉱山があります。同22年湯口村の大字。豊沢・鉛・下シ沢・湯口・西晴山・上根子・中根子・鍋倉・膝立・円満寺の10か村が合併して成立。旧村名を継承した10大字を編成。役場を円万寺に設置。当村は郡内2番目の大村で、江戸期に開削された鍋倉新田穴堰などによって平坦部は水利の便が良く、水稲栽培を主とした農業を営みました。戸数・人口は、明治22年616・4,139、同42年623・5,165。世帯数・人口は、大正9年777・5,596、昭和10年938・6,507、同22年1,198・7,556、同29年1,318・8,069。戦死病没者数は日清戦争4、日露戦争8。明治34年に大沢郵便局開設。同42年東宮殿下(大正天皇)行啓記念として、西晴山の豊沢川左岸から鍋倉の湯本村界まで延長2,609間の村道、上根子字和田から字川端までの延長781間の村道及び中根子字滝沢から豊沢川を渡り、花巻町境の不動に至る延長625間の村道の主要3路線を改修整備。明治26~28年花巻町を起点として志戸平・大沢・鉛の各温泉場を経て豊沢から和賀郡沢内村川舟に至る中山街道が完成し当村の重要道路となりました。同街道は大正12年花巻~鉛間、昭和20年鉛~川舟間が県道に編入。また、同街道の路面上のうち花巻町の西公園~西鉛間(駅名)に大正4~14年にかけて花巻電鉄が鉛線として電車軌道を敷設し、電車を運行して乗客及び物資の輸送を行っています。大正5年の田794町余・畑438町余・宅地104町余・山林805町余・原野175町余、職業別戸数は農業637・養蚕業1・鉱業1・商業23・自由業1、産物は米・粟・大豆・麦・稗・小豆・蕎麦・胡麻・馬鈴薯・大根・茄子・葱・胡瓜・甘藍・大麻、家畜頭数は牛5・馬553・家禽390、果樹類は梅・柿・榧・梨。昭和10年の統計によりますと、全戸数905のうち農家が763戸で、その他温泉旅館とこれに伴う商家が目立ち、珍しい産物としては獣皮・羽毛と狩猟による獲物があります。大正7年の自・小作状況は、田797町余のうち自作地27%・小作地73%、畑437町余のうち自作地36%・小作地64%、農家戸数638のうち自作121・自作兼小作427・小作90。昭和20年の農地面積1,231町余、うち自作地710町余・小作地521町余。同21年からの農地改革により、農地を買収された地主戸数379(うち個人在村地主195・同不在地主162・法人団体在村地主11・同不在地主11)、同25年8月1日現在までの売渡農地面積509町余(うち村内で売渡しを受けた面積436町余,村外から売渡しを受けた面積73町余)、売渡しを受けた戸数910(うち村内にある農地の売渡しを受けた戸数881、他村にある農地だけの売渡しを受けた戸数29)。同26年の産業別世帯数は農林業970・鉱業32・工業53・商業36・交通業29・公務および自由業79・その他50。昭和22年湯口小学校内に湯口中学校併設、同時に前田小学校学区内に湯口中学校前田分教室を設置。同25~27年にかけて湯口中学校は円万寺堰田に新築移転。昭和24年湯口小学校内に県立花巻高校定時制湯口分校設置、入学生徒数32。昭和29年花巻市の一部となり村制時の10大字は同市の大字に継承。戸数・人口は明治22年124・821、大正6年135・1,361。世帯数・人口は、昭和25年276・1,120、同28年362・1,742、同40年353・1,903。花巻電鉄鉛線は昭和30年代後半からの自家用自動車の普及に伴い、電車の利用者が激減したため、昭和44年9月に電車の運行を廃止。昭和42年字松原の地に松倉温泉が掘り当てられ、翠松園が温泉旅館として開業されましたが同48年から水松園として営業。
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拝殿向拝神額「山神」
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拝殿内。
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