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五所川原市金木町嘉瀬萩元。嘉瀬館跡の西方。清久溜池、小田川の北方。神社前には嘉瀬の奴踊り発祥地碑があります。
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八幡宮橋がこのような状態になっていました。
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なお、八幡宮橋や由緒等については過去の記事も参照ください。
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燈籠建立発起人名碑(昭和34年旧正月元旦)
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令和御大典奉祝植林(奉納ヒバ苗木、澤田文則、山中信弘、令和元年11月吉日)
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八巷比古神・八巷比咩神(明治15年8月15日村中)。漢字は違いますが八衢比古神・八衢比売神です。
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「敬神」(皇紀二千六百一年、社道舗装記念、昭和16年8月15日)
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灯籠一対。
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9.5
皇紀2600年奉納の神額。灯籠に立て掛けてあります。
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こちらは…う~ん…読み取るのは微妙に厳しいです。
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社号標「村社八幡宮」(大正2年旧5月15日、澤田嘉吉42歳紀念建立)
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参道。
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鳥居改修一部資金「一金拾萬圓也」(昭和42年7月吉日)、東京都品川区戸越町五町目一四ノ一七、嘉瀬出身、湯本正美。神社前にある「嘉瀬の奴踊り発祥地」の碑の方と同じですね。
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二之鳥居。
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鳥居の鬼コがおります。
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風化が激しく、現在は鳥居を支えていません。かつては石造鳥居にいた鬼コでしょうね。
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なお、お尻は額束で隠しているタイプです。
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三之鳥居・四之鳥居。
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19.5
五之鳥居・六之鳥居。
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20.5
嘉瀬についてです。昔は嘉勢とも書きました。津軽平野北部、岩木川支流旧十川の右岸に位置しており、小田川が地内を西流。金木台地の先端が舌状に突き出た微高地に集落が立地。南東には清久溜池・二ノ沢溜池があります。字上端山崎には縄文前期の嘉瀬遺跡があります。江戸期以降の嘉勢村は津軽郡田舎庄のうち。嘉瀬村・加清村・嘉清村とも書きました。弘前藩領。村高は「正保高帳」では嘉清村と見え55石余、「寛文高辻帳」・「貞享郷村帳」ともに377石余、「貞享4年検地水帳」1,251石余(田1,105石余・畑屋敷145石余)、「寛保高辻帳」377石、「天保郷帳」ては「古者加清村」とあり1,482石余、「旧高旧領」では嘉瀬村と見え1,786石余。当村の草分けは木立・山中・原田・鳴海・内海・伊藤・土岐・沢田家の先祖といわれます。天和3年の御代官所村家人数之帳によりますと、下ノ切御代官所支配の新田村として嘉瀬村地子新田が見えますが、同新田は後に当村に吸収されたものと思われます。「貞享4年検地水帳」によりますと、小字として「ひばり野・はぎもと・端山崎・駒とめ」があり、反別は田148町9反余・畑屋敷34町余。なお、田は上田~下々田まで、畑は上畑~下々畑まで設定されており、また、御蔵屋敷1畝余、開発可能地(田畑)187町9反余、漆木58本があり、この他に除地として八幡社地・境内林1町余、薬師堂地3畝余が見えます。元禄3年には金木組に属し村位は下。享保13年の反別は田171町5反余・畑屋敷39町2反余、家数162(うち借家7)・人数970、馬120。また、地内の地名に「端山崎・雲雀野・駒留・萩元・畑中」が見えます。神社としては地内萩元に八幡宮があります。当神社です。御祭神は誉田別命。同社の建立年月は不祥ですが、寛文2年の再建と伝え、寛政6年・文政5年の棟札が記録されています。なお、元亀3年の再建ともいいます。明治4年弘前県を経て青森県に所属。同11年北津軽郡に属します。明治初年の戸数246。国誌によりますと、村況は「村居高廠にあり、薪と檜材を産とす」といいます。明治9年小栗崎村を合併。同10年雲雀野に嘉瀬小学が校舎新築開校。開校時の生徒数39・教員3。同14年には山中勇吉氏所有地を借用して校舎を新築移転。明治12年の「共武政表」によりますと、戸数306・人口1,860(男978・882)、馬200。物産は米・大豆・檜・薪・炭。同22年嘉瀬村の大字となりました。明治22年以降は北津軽郡の自治体名。中柏木・嘉瀬・毘沙門・長富の4か村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。役場は嘉瀬に設置。明治24年の戸数502・人口3,370、厩502、学校2、水車2。同31年に嘉瀬村農会が設立されています。同42年の戸数624・人口4,247。大正9年の世帯数701・人口4,108、うち職業別人口は農業3,325、水産業3、工業200、商業208、交通業58、公務・自由業120、その他194。昭和5年に津軽鉄道が開通して嘉瀬に嘉瀬駅が設置されています。同15年の世帯数823・人口4,780。嘉瀬郵便局は昭和8年郵便取扱所として創設し、同11年郵便局に昇格。嘉瀬簡易小学校は明治25年に嘉瀬尋常小学校と改称、大正13年字端山崎の現在地に新築移転。同14年組合立明治高等小学校が廃校になると高等科を併置し尋常高等小学校となります。昭和16年に嘉瀬国民学校、同22年嘉瀬小学校と変遷。同30年金木町・五所川原市の各一部となり、中柏木・嘉瀬・長富は金木町、毘沙門は五所川原市の大字に継承。
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参道左手に庚申塚等参道。
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石灯籠一対(紀元2602年、昭和17年6月15日、加藤七五郎)
23.2
23.4
23.8
後援。
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庚申塚等。
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庚申塚(明治31年5月8日)
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こちらは読み取れず。
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27.4
27.8
こちらも読み取れませんが台座は比較的新しいものです。それでも二段目は読み取れません。
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三段目には「大東亜戦争戦勝・除危安全紀念」とあります。
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更にその下の段には世話人等の名前が刻まれています。
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横には「主体(屋号丸大(マルダイ))加藤七五郎」とあります。石灯籠と同じ方ですね。
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ってことで、長くなりましたので『嘉瀬八幡宮(金木町)~其之弐』へ続く…
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