青森県五所川原市金木町嘉瀬萩元。嘉瀬八幡宮前。

嘉瀬には青森県無形文化財(技芸)に指定されている「嘉瀬の奴踊」があります。この踊りは新田開発にあたっていた不遇の主人を慰めるため忠僕が踊ったのが始まりとされており、歌詞の一つには「嘉瀬と金木の間の川コ、石コ流れて、木の葉コ沈む」とあり、誠実なものが恵まれず、狡猾な者が世にはびこる世相を正そうとする痛烈な風刺が込められています。「嘉瀬の奴踊」が全国的に有名となったのは不世出と讃えられた「民謡の神様、嘉瀬の桃」こと黒川桃太郎の貢献が大きいと言われています。

写真は嘉瀬八幡宮前の地蔵堂・庚申塔。

百万遍(昭和59年4月25日)

奉修南無阿弥陀佛壱百萬遍(平成27年7月20日)

この嘉瀬八幡宮前の一帯に嘉瀬の奴踊り発祥地の碑があります。

「青森県無形文化財指定 嘉瀬の奴踊り発祥地」

「嘉瀬と金木の間の川コ石コ流れて木の葉コ沈む」藤森兼世書

裏面碑文「嘉瀬の奴踊りの由来」…『津軽四代藩主信政公が金木新田の開拓事業に着手したのは元禄十二年(1699年)で宝永二年(1705)にこの大事業の完成を見た。この新田開発は諸國から(とくに越後、能登及び京阪地方)の移民が中心となって進められ、田植時期には他國民の来遊や交易商人などの往来が激しく殊に開拓事業成就祈祷のために「願人坊」が出雲大社や大阪住吉神社の神事である田植踊りを勧進して盛大を極めたと伝えられる。田植え踊りは田の神の早乙女を中心に太郎治、弥十郎の三役が歌声も嚴かにまた樂しく踊ったものでなかでも弥十郎は奴の衣裳で飾り、その前後には荒馬太刀振りを伴う仕来りであった。尾張から移民鳴海善左衛門の子孫傳右衛門の忠僕徳助が主人の不遇を慰めるために踊ったのが始まりだとされる。奴踊りの伝説も前者を田主(太郎治=あたるじ)後者を弥一郎(やんしゆろう=小作人の代表者)と見立ててのことである。その弥十郎の奴だけがいつしか嘉瀬地方に残り嘉瀬の奴踊りとして村民に受け継がれて現存しこの系統の踊りとしては本土の北限となり、また他に例のない動きをもつ特異な踊りとして尊重されている。昭和四十四年十二月一日に青森県無形文化財(技芸)として指定されたが故ある哉と申すべきであろう。また歌詞には、「嘉瀬と金木の間の川コ石コ流れて木の葉コ沈む」という痛烈な風刺を込めた文句が有名であるが、これは誠実な者が恵まれず狡猾な者は世の中にはびこる世相を正そうとする嘉瀬の奴踊りの真髄を語るものである。近世嘉瀬の奴踊りは全國的に有名となったが、この事実は不世出と讃えられた「民謡の神様 嘉瀬の桃」こと黒川桃太郎氏の努力によるところである。 昭和四十九年八月十日建之 東京都品川区戸越五丁目十四ノ十七 湯本正美寄贈(嘉瀬出身)』

小田川改修事業完成記念碑(平成7年3月、青森県知事木村守男)

小田川に架かる奴橋(やっこばし)。
昭和62年7月竣功。
奴橋のすぐ近くにある地蔵堂。

何かお顔がリアルです。



コメント