秋田県男鹿市北浦相川冷水。道路から鳥居等は見えません。村のミニストア「MIYAKO」さんの前が参道入口になります。

相川は古くは染川と呼んでいたといい鮎川とも記します。男鹿半島北岸の中央部、北流する相川が海に注ぐところに位置。地名の由来は真山・本山両河川が合流する所によるといいます。縄文中期の竪穴住居跡・土器片・石鏃・石皿・石斧等を出土する冷水遺跡があります。

戦国期の相川村は出羽国秋田郡のうち。天正19年正月17日、豊臣秀吉が秋田実季の当知行地を安堵した朱印状写に「あい川村 福米沢村」635石余とあるのが初見となります。海岸に南北朝期安東兼季が居城したという染川城が現存し、一部海水によって削られましたが、川を自然の濠として利用しているほか複郭性平坦面をいくつか持ちます。北浦の日枝神社にあったという棟札には「嶋郡地頭安倍兼季 御代官 加藤藤原重貴 奉造立山王二十一社 康永三年」とあります。南北朝期、代官的勢力が居城したことは明白となっています。また、冷水に南北朝期五輪塔の基礎6個・笠2個・請宝1個が現存しており、天台・真言宗が普及していたと考えられます。安東氏支配は安土桃山期まで存続。「秋田家分限帳」には見えないところから、日枝・真山等の寺社領であったことが予想されます。

江戸期以降の相川村は秋田郡小鹿島のうち。秋田藩領。「正保国絵図」では本田当高201石余。「享保黒印高帳」では村高190石余・当高217石余(うち本田170・本田並22・新田25)。「寛政村附帳」で当高160石余(うち蔵分128・給分32)。「天保郷帳」では村高217石余。戸数は「享保郡邑記」で36軒、「秋田風土記」では45軒。親郷北浦村の寄郷で枝郷はありません。半農半漁で沿岸漁業に従事、「絹篩」にはハタハタ漁に関して「昔より引網四十八箇の株にして手繰網は堅き制禁なり。当所はブリコを取りて業とす」とあります。天保4年以降は平引の手繰網が許可され、弘化4年から家ごとに株札1枚ずつ下付されて役銀5匁ずつ上納。船は川崎船と艫太船。男鹿中を通る街道沿いにあり、駅場は北浦村と半月交代で勤務。鎮守観音のほか神明・春日及び湯本村常楽院末の修験十王堂があります。明治11年に南秋田郡に所属。同22年南秋田郡北磯分村の大字となっています。

鳥居。

社殿前参道。
社殿横の御神木が目立ちます。


社殿正面に伸びている御神木。
当社の由緒等不明ですが、比較的近い北浦野村前野の宇賀神社は、湯本の星辻神社から御霊を分霊し建立され、五穀豊穣、大漁祈願、家内安全の神として宇迦之御魂命が祀られているようで、もしかしたら似たようなの由緒かも知れません。


向拝にこのような額がありました。昭和30年旧3月16日のものです。

拝殿内。




幣殿・本殿覆屋。

慰霊碑(日露戦争・支那事変・大東亞戦争、昭和31年5月3日相川部落一同建之、現在戸数百十四戸、秋田市石工美濃鉄五郎刻)

石碑群。

庚申塔(昭和11年旧12月23日鎌田勇吉)

その他も庚申塔でした。







こちらの建物は…

太平山(安政2年3月17日)

太平山。

小祠。何かは不明。


三吉大神像と足手荒神。
金毘羅大権現。

不明の石。

参道途中に道があり…

建物も見えましたが行ってません。






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