
大館市軽井沢下岱。

軽井沢は西流する米代川中流域の右岸部に位置。米代川対岸部が十二所。東端の猿間との境付近の山麓に中世の城館址(新館)があり、浅利家臣額田淡路守某の居館址といいます。館址付近からは土師器・須恵器片が出土しており、館址から軽井沢の集落に向かう萩峠付近から縄文前期の遺物も出土しています。また、西方の五輪台地区に五輪塔があり、元は真言宗某寺院があったと伝え、弘法伝説も残されています。江戸期以降の軽井沢村は出羽国秋田郡南比内のうち。秋田藩領で十二所所預の管轄下の村。正保国絵図及び元禄7郡絵図ともに本田当高43石の村と図示。その後一時は対岸の道目木村も含んで浦山村も枝郷としましたが、享保年間の郡村改めで道目木村を分出。親郷十二所町の寄郷。享保黒印高帳では村高190石・当高190石(うち本田170・本田並22・新田25)、寛政村附帳で当高93石余(うち蔵分43・給分50)と認定。天保郷帳は110石余。天明9年、十二所給人石井嘉右衛門が当村に5町歩の開田、安政年間に当村農民の佐々木岩松・柴田長右衛門らが軽井沢堤を築いて31町歩の開田を成功させた事蹟があります。戸数は享保郡邑記46軒(うち枝郷分10)、秋田風土記30軒。安政年間には55軒・243人・馬108頭。村鎮守八幡社のほかに、神明社・稲荷社・山神社・相善社が見えます。明治11年北秋田郡に所属。同22年北秋田郡十二所町の大字。同22年以降の軽井沢ははじめ十二所町、昭和30年からは大館市の大字となっています。

軽井沢観音堂は、軽井沢、浦山、十二所の有志が先祖供養のために、米代川河畔の石切場の石を用いて一人一体の観音像を彫り、明治21年(※明治22年とも)に川岸から萩留への坂道沿いに建立したもの。昭和9年4月(※昭和8年とも)にこれを萩留台地に移転しましたが、更に昭和50年代に至って国道103号線バイパス工事のために現在地に移転して堂宇を新築。
阿弥陀如来像。
観音像は一際大きい中央の阿弥陀如来像を挟んで右から順に一番から三十三番までの御詠歌と共に三十三体が安置。
例祭は旧暦4月18日。
軽井沢観音像寄進者名(現当主)…『軽井沢の観音様は当初石切場があった萩峠に安置されていました。その後昭和58年に国道のバイパスが完成したのを機会に当地に移転しました。尚、寄進者と現当主の割り出しには、当組合相談役の鈴木忠造氏と柴田英一氏のご協力がありました。平成19年5月吉日、農事組合法人大館市軽井沢部落組合代表理事柴田禎敬』

改めて「観音堂」について…『軽井沢三十三観音について詳細について不明でしたがその後の調査で次のように分かりました。昭和八年発行の十二所郷土読本「萩留(今の萩峠)の今昔」の中にあります。それによりますと三十三観音像は、明治二十二年(1889年)軽井沢浦山、それに十二所の有志がお金を出して造った。軽井沢の石切場で造った観音像は萩留の坂道の沿線に建立しましたが昭和八年(1933年)四月石切場上部の台地に改築移転しました。祭典は旧四月十八日関係者の外、近隣の人達が集まり家内安全と豊作を祈願したということです。観音堂はその後、秋田労災病院そば、次に国道103号バイパスわきにと移転し現在に至っており、祭典は五月五日の子供の日に行われるようになりました。平成28年4月吉日 前法人組合代表柴田禎敬』

代表の名前が違うかも。ちょっと滲んで読み辛かったです。









コメント