
三戸郡南部町法師岡林ノ後。

法師岡集落南方の法師岡農村公園に隣接して鎮座。


出羽三山信仰で、産土様として信仰。
達者村百景。

江戸期以降の法師岡村についてです。
三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年から八戸藩領。名久井通。村高は「正保郷村帳」143石余(田78石余・畑65石余)、「貞享高辻帳」143石余、「元禄10年高帳」260石余(田128石余・畑132石余)、「天保郷帳」236石余、「旧高旧領」174石余。制札場が設置され、寛文12年には切支丹禁制・捨馬禁止の制札が立っていました。宝永7年には渡舟が破損したため、藩より小舟1艘が下付されました。天明2年には当村の喜兵治が馬淵川の梁留を落札。元禄16年凶作のため藩より市野沢村とともに大豆種2石余が貸与され、宝暦5年の凶作では4人の死者を出しています。集落の南に月山神社があり、御祭神は月読尊。同社の北方約100mの道路の分岐点に庚申塚と称する石塔4基あり。右端の1基は法師岡館の落城の際に城主夫人の落命を哀れんだ侍女が、その菩提を弔うために庵を結んだ跡地に建立されたものと伝えており、中央の観音像の石塔は南盛義・康政兄弟及び南氏方の戦死者を祀ったもので、元は月山神社付近にあったものです。

御祭神は月読命。例祭5月1日、9月1日。境内176坪、本殿2坪、幣殿4坪、拝殿18坪。月山権現として宝暦5年建築。風間定信家所蔵の『月山権現法観帳 寛政五癸丑年九月十五日 法師岡村作之丞』(昭和2年写し)によりますと、「宝暦五年乙亥旧二月十一日勧請 月山大権現 祭神月讀命 祭日大祭日四月一日」とあります。

寛政5年改築。天保4年修復。明治26年新築(※境内記念碑によれば20年)。現在の社殿は昭和50年に新築したもの。
明治の廃仏毀釈の際に、風間定信家の祖先風間定吉が、月山神社の御神体を懐に隠し持って、自宅で保管したことから難を逃れたといいます。

法師岡では戦前まで出羽三山をかけた人は毎月8日に月山神社に集まり、朝から夜まで神社に籠り、三山の掛け図前で祝詞を唱えました。出羽三山には現在でも20人くらいで山かけしますが、この山かけのことを「あなでぁめぇり」と呼んでいます。宿坊は羽黒町の真田坊。宿坊では名前を記帳すると三山のそれぞれの神社で個人の名前が読み上げられ祈祷されます。

拝殿向拝。

神額。


拝殿内。

幣殿・本殿覆屋。
狛犬一対。
紀年銘は昭和2年12月1日。
手水石。


石灯籠一対(昭和2年12月1日)。
蒼前堂。

堂内には足を大きく広げ、耳を立てた等身大の立派な駿馬像が祀られており、自然木をうまく利用した木目も美しい立派なお姿です。
稲荷堂。

堂内には頬被りした一対の石造り狐像が安置され、内御堂には神鏡と、一対の陶製狐像が二組四体祀られています。
一応…手水舎かな。

子安堂。

御堂の中には子安様のお姿と勧請札が納められています。勧請札には「昭和六年五月十日 奉納子安大明神像壹座安置 祈願子供安全 納主風間徳次郎」「安置理由 風間徳次郎妻サヌハ占人ノ知セニテ子安大明神ヲ祭祀セザルニ依り子供ニ災難アリスト云フニ起原ス 毎年村社月山神社祭禮日ニ拝奉ル 遷宮奉仕者 星岡尋常小學校長池田宗美 大工及川久太郎 遷導師村社々掌八木田政衛」とあります。

記念碑。完全に折れてますが…

読み取れそうです。

『法師岡月山神社は、宝暦五年月読命を祭祀申し上げ、御創建されたものと伝えられています。(当代氏子総代、風間定美氏所藏の記録帳より)その後寛政五年、天保四年、明治弐拾年に各々新改築し、昭和弐年には本殿を新築、村社として祭られ今日に至ったのでありますが拝殿の老朽いちじるしく、昭和五拾年総工費七百万円で新築に踏切ったのであります。そして、それに要した費用は部落共有林の松立木約壱千五百石の売却代金と氏子達並びに篤志方々の尊い御寄進によるものであります。私たちはここに幣殿並びに拝殿を再新築申し上げ、祭典を奉仕し、神慮を慰め、神の御加護をいただき、平和な法師岡部落を築き上げるために微力を捧げようとするものであります。昭和50年3月1日建之』

社殿横から見た境内。

県道225号から見た参道並木と鎮守の杜。


こちらは県道225号中野北高岩線と県道134号櫛引上名久井三戸線の丁字路にあった法師岡の制札場跡地。
達者村百景。



標柱「法師岡の制札場」より…『寛文12年(1672)八戸藩二代南部直政の時代に、キリシタンや捨て馬禁止等の札を立てたところである。平成5年3月8日建立。福地村教育委員会』

法師岡月山神社入口の林前の三叉路には石地蔵が祀られており、かつては六道柱も脇にあり、法師岡月山神社への参詣者は必ず、この六道柱の鉄輪を回し、地蔵さまと庚申塔を拝んでから参道を上ったといいます。
庚申塔(文化14年3月17日・村中)。福地村では旧暦1月23日だけはバクチをすることが公然の秘密でした。大人たちは花札を、子どもたちはトップを、女性たちはセンベツキやカネウチなどをやって夜を過ごしました。麦沢地区では月が高く上がれば上がるほど「ヨナカ(世の中)が良い」といい、低ければ「ヨナカが悪い(凶作・不作)」といいました。福田では神棚にあらかじめ用意しておいた供え餅とウドンまたは蕎麦を上げました。その晩はドンベを飲み、精進料理を食べて月の出を見てその年の天候及び豊凶を占いました。また、廿三夜さまの石碑の前で出羽三山に参詣した者が留守の議員たちに股をくぐらせました。それが昔からのしきたりで、議員たちは、にしまった(汚れた)褌をくぐるのが嫌であったといいます。高橋では産土様の月山神社で月を見ました。そして法師岡ではこの廿三夜様を拝んでから月山神社に上がり、風間定信家で子安さまをアソバセたのち、夜にそのまま風間家で廿三夜の月見をしていました。
















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