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岩手県花巻市桜町4丁目。花巻市指定有形文化財(建造物、指定年月日:昭和54年12月12日)。
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賢治文学散歩道を散策していたら「中でお茶飲んでいって」と客引きされました笑
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ありがとうございます。
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同心家屋…『天正19年(1591)豊臣秀吉の奥州仕置で鳥谷崎城(後の花巻城)を守備した浅野長吉(長政)は、城下の治安を守るため配下の一隊を残し、これが向小路御同心町の基となりました。同心家屋はこれら同心の住宅です。現存する二棟は江戸時代後期の建築と推定されるもので、約500m北の旧奥州街道沿いからここに移築されました。』
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旧平野家。
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旧平野家(江戸時代末期、四戸民治)…『旧平野家は、旧奥州街道に沿って軒まわりはすべて「はんじょう造り」で構造技法、意匠ともに素朴でありさらに屋根を兜造りとし、殆ど改造の手が入らず保存状態もまことに良好で、同心屋敷の典型的な遺構として貴重なものである。建築年代は不詳であるが、江戸時代末期(十九世紀初期)の建築と推測される。なお安政5年(1858)の万丁目通城代支配地境絵図(向御組町付近図)によれば西側屋敷の四戸民治の家屋であり明治45年頃から平野氏が居住するようになったものである。』
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中へ。
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旧今川家。
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旧今川家(江戸時代末期、大橋理平治)…『旧今川家は、整理された架構法、せがい造り等から江戸時代末期の建築と思われる。またこの度の解体により鴨居に「慶応二年」と記されていることから、この年正方形に近い平面形状に改築されたものと推測される。保存状態が良く本屋棟に煙出し破風を設け屋根の形状は極めて複雑で意匠的にも工夫が凝らされ同心屋敷その発展経路を知る上で貴重な遺構である。なお安政5年(1858)の万丁目通城代支配地境絵図(向御組町付近図)によれば東側、北から三軒目大橋理平治とある屋敷がこれにあたる。昭和15年頃から今川氏の住居となったものである。』
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Wikipediaより一部抜粋…『同心家屋 旧平野家住宅・旧今川家住宅は岩手県花巻市にある歴史的建造物。江戸時代に旧向御組町の奥州街道沿いに30軒建てられた同心の屋敷の遺構。1979年(昭和54年)に現存していた2軒を市が所有することになり、現在地に移築して市指定の文化財として保存、一般に公開された。【建築概要】所有者-花巻市。竣工-江戸時代末期。構造-本屋(間口5間、奥行3間)+曲り屋(旧平野家住宅はL字型、旧今川家住宅はコの字型)、武家茅葺き。市指定文化財(昭和54年12月12日指定)』
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うん!?「應擧」とあります…
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えっ!?円山応挙!?
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上が今川家修理後平面図、下が平野家修理後平面図。
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ちなみに接待ボランティア(地元婦人会)の方々に優しく客引きされたのですが、ちょうど一つ前の客で「湯茶切れ」と言われました。おーい!!悪質な客引きやないかー!!(※冗談です。本当に冗談です。とても優しく明るく丁寧に案内して頂きました。お茶切れは本当ですけど、そもそもお茶も見学も無料ですし。)
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以下、パンフレットより…『【同心家屋のあらまし】1591年(天正19年)、南部氏九戸系24代九戸政実が南部26代盛岡藩祖南部信直に対して反乱を起した。南部信直は豊臣秀吉に援助を願い出て反乱を鎮めた。この九戸の乱のとき、鳥谷ヶ崎城(のちの花巻城)の守備にあたった浅野重吉は配下の一隊30人を残して引き上げた。残された一隊が花巻にとどまり南部氏に仕え「花巻同心組」となり、城内(二の丸馬場口御門の下馬場で現在の鳥谷崎神社南下辺)に住居を与えられて住むようになった。1680年(延宝8年)御同心30人は城内が狭くなったこともあり、向小路(現桜町)に移り住んだ。【家屋について】旧奥州街道100間(約180m)をはさんで東側に15軒、西側に15軒並び、表通りである間口5間(9.10m)横間口3間(5.46m)のところは全て同じ造りであり、南部氏から賜った御同心の官舎であった。現在2軒の家屋は江戸時代末期に建てられたもので1979年(昭和54年)に文化財保護の立場から花巻市が譲り受け現在の場所に移転復元した。【花巻同心組について】街道筋の治安維持、伊達藩・南部藩との境界警備、そして豊沢川の渡渉監視(川での検問)などが仕事であった。剣術の稽古や畑仕事等をしながら屋敷一軒につき1~4人で暮らしていた。本人1代限りの奉公で、普通の武士のような世襲(子孫が代々その職を受け継ぐ)ではなかった。しかし、本人の死亡、病気、その他の事故の場合は、小頭を通して子どもに奉公を仰せつけ下さるよう願い出ると、必ず聞き入れられる慣習であった。こうして明治維新まで続いていた。』※参考資料:熊谷章一著「同心屋敷の人たち」「花巻市史」
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向小路(同心町)。賢治が野菜や花を積んだリヤカーを引いて忙しく往来した道。詩「同心町の夜あけ方」、「市場帰り」、「水仙をかつぎ」などに登場。
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同心屋敷…『桜町二丁目がかつて向小路と呼ばれていた昭和30年頃まで、曲り家風の家屋が十数戸軒を並べていました。藩政時代は奥州街道をはさんで東西に15軒、計30軒の武家屋敷がありました。同心の任務は、主に「花巻城の勤番」「伊達との藩境警備」「街道筋の治安維持」でした。【1042[同心町の夜あけがた]】「同心町の夜あけがた 一列の淡い電燈 春めいた浅葱いろしたもやのなかから ぼんやりけぶる東のそらの 海泡石のこっちの方を 馬をひいてわたくしにならび 町をさしてあるきながら 程吉はまた横眼でみる わたくしのレアカーのなかの 青い雪菜が原因ならば それは一種の嫉視であるが 乾いて軽く明日は消える…」』
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