三戸郡五戸町大字切谷内金山川原39。切谷内部落入口。一之鳥居は切谷内淋代。

以前は木造の鳥居でしたが新しくなっていました(平成29年11月吉日建立)。

金山川原の呼び名についてですが、部落の人々によって永遠に語り継がれてきたことがあります(※豊崎村七崎の白石熊次郎別当(息子八郎談)の調査)。現在天満宮裏側の低いところをゆっくりと五戸川が流れ、この地方の灌漑の役を果たしていますが、長作が移住してきた頃は、住家のまばらな頃で、五戸川の川筋が一定しないことは勿論のこと、一度大雨が降って増水すると川渕の土砂は削り取られ、地勢を変えるばかりではなく、切谷内全戸の避難転居が止むなくされ、金山(きんじゃ)坊なる托鉢僧が「切谷内部落民を守るためにも、これ以上は流失させてはならない」と流れに身を投じて人身御供に立たれ、以後、流失は止まって現在まで守られています。そのことがあって以来、村民は後世までもこの恩情を子々孫々までも銘記すべしと金山坊の投身した所に金山川原と名付けて、ここに氏神を遷座し、現在に至っているといいます。なお、天満宮前工藤家庭先に男根(金勢大明神)が祀られているそうですが未確認です。そして余談かつ内容は省略しますが、当地区五戸川には「切谷内の水童子(めどつ)の詫び」という伝説が残されています。
参道。

社号標「村社天満宮」(御即位記念、大正4年11月10日、大字切谷内村中建之)。

両部鳥居。
従軍記念碑(大正元年11月・切谷内在郷軍人)。陸軍歩兵大佐羽生俊助書。裏面には明治37・8年役従軍軍人名が列記。

「昭和の戦争で村にかかわった事など~新井山俊雄記(1940年~1945年頃)」より…『当時の村の戸数はおよそ百戸で人口は六百人余りであった。その中で、兵隊に行った人は八十人くらい。その中で戦没者は二十三名。うぶしなの宮のべに願いその名記す。二十三のみ霊、永久に安かれ としお 川崎常次郎 川崎元次郎 新井山長一 川崎仁太郎 川崎三次郎 小保内要吉 大久保三太郎 久保田松三郎 新井山吉太郎 新井山長十郎 新井山富一郎 小保内繁雄 川崎正明 川崎武男 中野倉蔵 舘朝吉 舘治助 小保内富雄 川崎覚巳 川崎石蔵 川崎茂三 舘堅治 新井山長吉(敬稱経歴略、順不同)。この人達の他にも戦争の影響(特に結核の病気など)で多くの若者が命を失っている。戦争が激しくなると、この辺にもアメリカの飛行機が飛んで来て飛行士の顔が見える程の低空から田んぼで働く人達へ威かく射撃をしたりして危険であった。石呑の民家では屋根から銃弾が屋内に貫通したという。この少し前からアメリカ軍の八戸海岸上陸に備えて軍隊が村内に分宿して高森北方の山の中に陣地を造った。又、主陣地となる八戸市八幡方面の工事の為に空襲の危険の中を多数の村民が連日、人馬とも刈り出された。更にこれに加えて二十歳前の若い人達も現地に宿営して能くこれらの仕事に耐えた。こんな状況の中で、村で仕事の中心であった馬までも再々徴収されたので農作業も増々困難を極めた。又、高森山などに古い松根っこが沢山あったのでこれから飛行機に使う油を取るために大仕掛けな工場ができ、これにも村民多数が従事した。木製飛行機を作るためと言うので当神社初め村内のケヤキの大木が数本切り出されたりもした。各地で空襲が激しくなるにつれ村内出身その他数家族が疎開してその後村内に定着した人達もいる。(うらもあります)1999年3月軽米嘉吉謹書』※(うらもあります)の小さな文字に後から気付きました笑

金毘羅山大権現。
慶應元年9月10日、中市弥六、三浦庄七、七右衛門の名が刻まれ、台石には百姓と思しき51人の名が刻まれております。旅行記念によるものと思われます。
杉やケヤキの木が切り倒されて林の中が明るくなったといいます。戦時中は太いケヤキがずらりと並んでいたそうです。

現在でも十分立派な御神木が立ち並んでいましたけど。
玉杢のケヤキ。木目が玉杢になっていて製材すれば年輪が玉のように浮き出して大変目出度いと珍重される木とのこと。
新井山長作(嘉佑家長の遠祖)が上北郡天間林村長兵衛屋敷からこの地に移り住みました。当時、宅地内の南西方五十間の地点に祠を建てて、菅公を祀って天満天神と呼び、家神と奉斉したのが始まりと伝えます(享和三癸亥年七月二十五日)。その後、毎年7月25日には例となって代々当家の主が別当となり祭祀を奉仕してきましたが、文政のはじめに部落民の要望があって現在地に移り、天満宮と改称して切谷内部落のすべてが崇敬するところとなりました。
御祭神は菅原道真命。例祭日は新暦8月25日(※以前は旧3月25日、7月25日、11月25日)。境内地1095坪。本殿2坪、幣殿2坪、拝殿15坪。明治7年11月の神社鑑によりますと「祭神は素盞嗚尊、月読尊が相殿し、明治五年壬申の八月、本村から移る。明治六年四月村社になって新井田登宮司(五戸)となる。」とあります。一方、五戸代官所の社寺調べでは「大山又蔵、文政十四年父文助の代から別当を続けている。」とあります。
青森県神社庁より…『創立享和三癸亥年(1803)七月二十五日。明治六年(1873)10月14日村社列格。上北郡七戸在、長兵衛屋敷からここ切谷地に新井山長作が宅地内に奉祀したのがはじまりである。文政の始め、北側後五戸川の氾濫により、崖を削られ社は無論、村全滅の危機に瀕している時、金山坊なる旅の僧が、崖の流矢と村人の守護を願い、自らを人柱としてその身を投じ村を救った。然して村民挙げて金山坊を讃え、この地を金山川原と呼び後世に語り継いだ。そしてここに天神様を奉遷し、金山の氏神として祀り、現在に至っている。』
切谷内天満宮由緒由来…『当神社の祭神は菅原道真公であります。凡そ四百年の昔、現新井山嘉祐宅南西の地に創設されたと伝えられています。五戸川の度々のはんらん洪水に社地が流出し、そのため現在地に移り永い年月、産土神として村民の信仰を集めてきました。その間二度の火災によって全焼したが、その度に村人の厚い信仰によって再建されました。明治初年、切谷内村、村社に定められ町村制定以後は川内村々社として祭事が行われてきました。当社殿は明治の中頃の再建であったが、この度、氏子こぞって天満宮改築奉賛委員会を組織し、関係各位の絶大なるご協力と多額の御寄付を賜わり、改築実行委員会が工事に当り、新社殿をみるに至りました。史実によると祭神の道真公のお生れになったのは承知十二年西暦八百四十五年六月二十五日右大臣から太宰府に左遷されたのは昌泰四年(901年)正月二十五日配所でおなくなりになったのが、延喜三年(903年)二月二十五日、今から千百年程前の昔であります。死後、正暦四年(993年)正一位左大臣、同年十月大政大臣の称号を贈られ、氏神として始めて祭られたのは天慶四年(941年)大政蔵徳人と称されたのが始まり。以来、天神様として厚く信仰されてきました。天神とはもともと地紙(くにつかみ)に対する神であまつかみと称されたものであります。天神様は学問の神としてあまりにも有名であるが、その外、書道の神、お習字の神、また、安産の神でもあります。天神雷神は昔から農神にともなう祈雨、雨乞いの対象であったし、五穀豊穣の守り神でもあることは何より有難度い事であります。当社の祭神は学問やしつけについてもなかなか厳しく昔の武士でも社前を馬で通る時、だまって通れば落馬し以来ここを通る人々は皆、下馬し拝礼して通ったものと伝えられています。本神社の祭礼は春三月二十五日の新年祭、夏八月二十五日の例祭、秋十一月二十五日の新嘗祭の三大大祭が行われます。新社殿竣工記念建之 昭和五十九年十一月二十五日古村謹書』


参道を振り返るの図。


手水石(昭和14年3月)。

手水石(昭和15年8月25日)。

手水舎。

狛犬一対。
嘉永2年3月25日かな…ちょっと読み取れず。


石灯籠二対(平成7年3月25日氏子一同建之・大正7年旧3月25日交通安全舘家一同)。




社殿。
明治初期の頃、北海道に出稼ぎする若者が集まって夜明けに揃って出発。その時、板に消し忘れたローソクの火が床にこぼれて社殿を焼失し、後に再建されています。更に1度ボヤ騒ぎを起こしています。そして昭和59年6月18日に改築に着手し、11月25日完成しています。工事費2700万円。それ以前は萱葺屋根の小さい社殿(奥行八間、正面六間、窓無し)だったようです。

拝殿向拝蟇股・木鼻。
拝殿向拝海老虹梁・手鋏。


神額。
拝殿内。

幣殿・本殿覆屋。






















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