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岩手県紫波郡紫波町桜町本町川原。紫波町運動公園南方。※元宮は別記事にしております。
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社号標「奥州五十四郡爾百座之内志和郡座志賀理和氣神社赤石大明神・船霊神社寛保元辛酉年八月二十日」
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『「志賀理和気の神の心にかなひなば家に、宝に富さかえなむ」毎朝参拝を致しましょう 一年に百度の参拝を致しましょう(お百度まいり信仰帳を差し上げます)』
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こちらの碑には由緒が彫られていますが、読み辛かったため省略(※読み取れる状態です)。なお、御祭神に関しては不詳とし、傳説として経津主命・武甕槌命としています。
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うん!?何か雰囲気が…
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どうやら北上川の治水工事に伴う社殿の移転工事が行われたようです。私は初めてだったので以前の様子は知りません。
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取り壊された鳥居や石灯籠など色々あります。
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鳥居の柱を見ることができました。「昭和五十七年九月二日建之 木材 渡辺材木店 工事 佐藤建築」とありました。この状態じゃないと見ることができないですね。
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で、逆に興味が湧いて色々観察してしまいました。
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手水石、象頭山、庚申塔、猿田彦大神、金毘羅、出羽三山、湯殿三山、八坂神社、山神…など色々な石碑もありました。
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御創建壱千百八拾年記念事業竣功之碑(昭和62年9月5日)…『抑、我が志賀理和氣神社は、延喜式内社、日本最北陸奥鎮護の国幣社で、朝野の崇敬を集めること夥しく。然るが故に、この地に創建の源を尋ねれば、延暦23年坂上田村麻呂に依り勧請奉斎する。爾来1,180年、社運は隆々として瑞氣みなぎり今日に至る。昭和59年創建1,180年記念奉祝大祭を奉行し、これを慶祝し記念事業を興す。兹に氏子崇敬者の赤誠を結集奉賛を図り、本殿大修理。幣殿建築。拝殿屋根銅板葺。斎館屋根瓦取替え事業が竣功したことは、広大無辺の御神威の輝と深く尊崇の真心を捧げ奉謝するもの也。依てこの千載一遇無上の栄光を後世に伝えんがためこの碑を建立する。』※下部:宮司、名誉宮司、責任役員、總代他氏名省略
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鎮魂碑(昭和33年8月)…『鎮魂碑之辞…顧レバ百年前悉ク欧米ノ脚下ニ雌伏シタル全世界中独リ屈セザル我日本アリ後十年ニシテ明治維新ヲ成シ五十年ニシテ露石亜東侵ノ非望ニ勝ツ全有色人被圧迫國家弱少民族ハ擧リテ日本戰勝ニ奮起シ遂ニ今日ノ世界ヲ現前セリ、曾テ日本ハ大東亜共榮圏ヲ提唱シテ米英ト戰イ遂ニ殆ト全欧米ヲ敵トシタル難戰苦闘ニ終ルト雖モソノ結果亜細亜ニ阿弗利加ニ相踵ク自立運動ヲ生ミ今日既ニ独立ヲ全ウスル者十六國也大東亜戰ノ偉績眼前ニ昭々乎タリ、惟ウニ茲ニ鎮マル英魂ハ日露戦ニ大東亜戰ニ最苦最痛ヲ甞メテ散華セラルト雖モ其芳名ハ永ク世界進運史上ニ輝カシ以テ鎮魂ノ辞トナス 金子定一謹識』※下部:戦没者名省略
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参道。
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南面の桜(南面の櫻・ヒガン櫻群)
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案内板より…『この桜には、いつのころからか次のような物語が伝えられている。元弘のころ、都からこの地に下った藤原頼之は、河東の領主河村少将の娘、桃香と相思相愛の仲となった。ある日二人はこの社頭に桜を植えて、やがてくるであろう爛漫の春をひそかに夢見た。ところがその二人に悲しい日が訪ずれた。頼之が急に都に上ることになったのである。二人は再会を固く誓って別れた。才月は流れ、かつて植えた桜はもののみごとに咲き、不思議にも花は南面に向って咲いていた。やるせない桃香の心が桜に宿ったものであろうか。一首「南面(みなおも)の桜の花は咲きにけり都の麻呂(ひと)にかくとつげばや」桃香』
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案内板より…『このサクラはアズマヒガンの集団で約30本からなるサクラ科に属する高木である。このうちの最大木は根元周6m80cm(根元径2m16cm)目通周4m50cm、樹高11m5cm、枝張10mであり、樹令は約500年生と推定されている。全般的に老令のため枯枝が目立ち、ことに上枝の枯死が顕著であるけれども、なお樹勢はかなり良好である。県下のヒガンザクラ系の集団としては最古のもののようである。紫波町教育委員会』
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南面の櫻の碑。
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下部には赤石音頭が刻まれています。
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社号標「縣社・延喜式内志賀理和氣神社」(明治37年7月建之)
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古い時代を知りませんけど、めっちゃ新しくなってる!
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『桓武天皇の御代延暦23年(804)、坂上田村麻呂が東北開拓の守護神として、武神である経津主命と武甕槌命を勧請したことが当社、志賀理和気神社のはじまりです。当神社は平安時代の文献「延喜式内の神名巻に社名が記載されております。「延喜式」の神名巻には3,132座の神社名が記載されており、それらの神社を延喜式内社といいますが、当神社は数ある延喜式内社のなかで日本最北に位置しております。また「延喜式」に先立つ「貞観式」においても、仁寿2年(852)の条に当神社に関する記載があり、このとき当神社は文徳天皇より正五位下の神格を賜りました。前九年の役においては源義家による堂宇建立がなされ、藤原秀衡の時代には藤原氏の支族である樋爪太郎俊衡、同五郎季衡らの崇敬を受けたことが伝えられております。樋爪氏につづき、室町時代には足利氏の支族斯波氏の崇敬を受け、戦国時代に斯波氏を討った南部氏よりも当神社は庇護されておりました。戦国時代末期の領主南部重直公は当神社に「南部一の宮」の称号を献じ、江戸時代には藩主南部利視公が「御社はとまれかくまれ志賀理和気我が十郡の国のみをさき」と詠じ、北は八戸から南は和賀の境までの南部十郡において第一に重きをなされました。以来、南部氏の累代藩主は当神社の祭礼盛行や社殿造営、社殿炎上に対する社殿再建に努められ、光林寺を別当に定めて社僧を置かしめるなどの保護がなされました。明治には社格制度のもと4年に郷社、大正13年には懸社に列し、現在は岩手県神社庁指定の一級社です。当神社は北上川の西岸に位置しており、窪地になっているにもかかわらず昔から大洪水に遭遇しても溢水せず地震にも震蕩しないことから「浮島明神」とも呼ばれております。また、かつて北上川の舟運が盛んであった頃当神社は船方衆の信仰の拠り所とされていたことから「志賀理和気船霊神社」とも呼ばれます。』
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神社庁より一部抜粋…『【御祭神】経津主命、武甕槌命、大己貴命、少彦名命、猿田彦命、保食神、船霊命【例祭日】9月5日【由緒】延暦23年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である香取、鹿島の二神を当地の鎮守として斯波加里の郷鳰が磯野(現在地)に勧請合祀したと伝えられている。爾来、東北六郡を領した藤原秀衡の族、樋爪氏を始め、高水寺城主斯波氏など当地を領した累代領主の厚い崇敬を受けた。天正年間(1573-1592)南部氏がこの地を領すると殊のほか崇敬の誠を捧げ、第三十三代利視公は「御社はとまれかくまれ志賀理和氣我が十郡の国のみをさき」の和歌を献じ、社殿を造営することなど深く敬仰した。さらには近江商人、井筒屋など豪商も霊験あらたかな神として篤く信仰した。境内に方三尺余の赤石があるところから赤石神社の通称で親しまれる日本最北の延喜式内社である。』
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紫波町観光交流協会より(一部抜粋)…『【祭日】例大祭9月4~6日、年越祭12月17日【由緒】南部一ノ宮志賀理和氣船霊神社は、人皇50代桓武天皇延暦23(804)癸未6月、坂上田村麻呂勅命を奉じ東夷征討の為下向され、当地に志波城を築き、対陣中陣中及び領内の守護神として武神の下総の香取、常陸の鹿島の二神を斯波加里の郷鳰が磯野(現在地)に勧請合祀し武運長久を祈願したという。また、承安年中(1171~1175)藤原秀衡東北六郡を領するや、その族樋爪太郎俊衡、同五郎季衡来たりて志和城に居り、城の守護神として領内の総鎮守として尊崇された。その後人皇六十代醍醐天皇の延喜5年(905)に勅命により全国の神社数を調べたところ大小とりまぜ3,132社という(現在11万余社)。その中で本神社は日本極北の延喜式内社に列せられ、往時は神祇宮に属し御朱印地16石、社領地1万坪を賜り朝廷神嘉殿において祭事執行されたという。後に高水寺城主斯波家長当地方を領するや累代の領主崇敬され、また、天正16年(1588)南部信直、斯波詮直を敗り、この地方を領するや、南部一ノ宮の称号を献じ累代の崇敬するところとなった。後に三十三代南部利視公更に社殿を造営され、祭事祭礼盛んとなった。入口の石標に「奥州五十四郡爾百座之内志和郡座志賀理和氣神社赤石大明神・船霊神社寛保元(1736)辛酉年八月二十日」とある。利視(としみ)公の和歌に「御社はとまれかくまれ志賀理和氣我が十郡の国のみをさき」これで我が神社は南部内十郡中の筆頭で南部一ノ宮の称号にふさわしいことがうかがわれる。なお、藩政時代の国弊社であったため、維新後の国弊社に浴しかねていたが、明治41年(1908)3月並びに大正2年(1913)3月帝国議会においていずれも国弊社の階級誓願の件採択されたが、これまた維持資金僅少のために恩典に浴すことができなかった。しかし社格県社であった。社伝によれば天正4年(1576)、斯波郡領主斯波孫三郎詮直が北上川の流れの中に御神石「赤石」を見て「今日よりは紫波と名付けん この川の石に打つ波 紫に似て」と詠み、郡名を紫波と改めたという。この赤石は北上川から上げられ、現在境内に祀られている。通称「赤石神社」「赤石さん」と呼ばれ、赤石・日詰地区民から崇敬されている。毎年9月初めに例大祭が行われ、神輿渡御や山車の運行、境内には店が立ち、カラオケ大会などが行われ大変賑わう。境内の入口にヒガンザクラの古木「南面の桜」があり、南朝元弘時代(1331~1333)、京都の貴人藤原頼之と北上川東の大巻城主河村氏の桃香姫との切ない愛恋物語が伝わっている。【境内社】藤稲荷神社 坂下稲荷社 赤石天満宮 観音社 熊野神社 金比羅神社【氏子数】800戸【講中】赤石講社(大正12年(1923))設立、講員450人【崇敬 者数】1万人』
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案内板より…『【御祭神】経津主神(香取)、武甕槌神(香島)、大己貴神(大国主)、少彦名神、保食神(稲荷)、猿田彦命、船霊神を奉斎する。【御由緒】一、桓武天皇、延暦の昔(約1,200年前)坂上田村麻呂が香取、鹿島の大神を勧請奉斎し陸奥開拓の守護神として崇拝した古社である。二、仁寿二年、文徳天皇は当社に正五位下の神格を下賜された。三、延喜年間、醍醐天皇の勅命を受け全国神社3,132座が延喜式神明帳に登載された、その日本最北に位置し、古来より朝廷の尊崇する社として重んぜられた。四、前九年の役以降は、この地方を領地せる樋瓜氏、斯波氏、南部氏を始め豪族豪商の崇敬ことの他篤く、明治に郷社更に大正には県社に列し現在は県神社庁指定の一級社である。日詰桜町地区を氏子に県内外広く崇敬をあつめ、霊験あらたかにして、広大無辺の神恩あまねく照り輝く大社である。』
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Wikipedia「志賀理和氣神社」より一部抜粋…『志賀理和氣神社は、岩手県紫波郡紫波町桜町にある神社。式内社で、旧社格は県社。別称として「赤石神社」「浮島明神」とも。式内社としては最も北に位置することで知られる。【主祭神】経津主神、武甕槌神、大己貴神、少彦名神、保食神、猿田彦神、船霊神。祭神のうち、大己貴神以下の5柱は後世の合祀ともいわれる。【別名】赤石神社・浮島明神【社格等】式内社(小)、旧県社【例祭】9月第1金土日【創建】社伝では、延暦23年(804年)に坂上田村麻呂が、東北開拓守護神として経津主命(香取神)・武甕槌命(鹿島神)を勧請したことに始まるという。9世紀初頭において、一帯では志波城造営(803年)・斯波郡(紫波郡)建置・徳丹城造営(811年)などの開拓が進んでおり、当社も蝦夷平定の報謝と一帯の鎮護のため、その時期に創建されたと見られている。奥羽の式内社では地主神を包摂しつつ中央神を勧請して創建される例が多いが、当社がその場合にあたるかは明らかでなく、神名「志賀理和気」の由来も定かではない。【概史】国史での初見は、仁寿2年(852年)に「志賀理和気神」の神階が正五位下に昇叙された旨の記事であるが、内容からして仁寿以前から神階を有する官社であったと見られている。延長5年(927年)成立の「延喜式」神名帳では陸奥国斯波郡に「志賀理和気神社」と記載され、式内社に列している。斯波郡では唯一の式内社で、全国の式内社では日本最北端に位置する。律令制の崩壊ののち中世の史料はなく、その頃の様子は詳らかでないが、式内社であることも忘れられるほど荒廃していたと見られ、近世初頭には赤石を神体としたことに由来して「赤石大明神」と称されていた。この赤石に関する伝承として、高水寺城主の斯波詮直が当地を通った際、北上川の川底に赤石があって水波が紫色に漂うので「けふよりは 紫波と名づけん この川の 石にうつ波 紫に似て」という歌を詠んだという。これに因んで郡名は「紫波郡」、社名は「赤石大明神」と称されたといい、引き揚げられた赤石は現在も境内に祀られるものだとしている。18世紀中頃には式内社の由緒を復活し、社殿も再建されたという。天明5年(1785年)に当地を旅した菅江真澄の紀行文にも、当社を式内社の志賀理和気神社とする記載が見える。また、当社は盛岡藩主の南部氏から崇敬され、「南部一の宮」の号が献じられたという。近世の祭祀はかつては赤石山遍照寺が別当寺として担っており、この遍照寺には寺領として慶長7年(1602年)に30石が与えられた。しかし元和年間(1615年-1624年)に廃寺となったため、一時期を百姓の田村家が継承、その後は光林寺が別当となった。明治維新後、明治4年(1871年)10月に近代社格制度において郷社に列し、大正13年(1924年)3月26日に県社に昇格した。なお、この間の明治41年(1908年)・大正2年(1913年)の2度、国幣社昇格の請願を行なっている。【神階】仁寿2年(852年)8月7日、正五位下(『日本文徳天皇実録』)-表記は「志賀理和気神」。【境内】参道には約30本からなるサクラの高木が立ち並んでいる。品種はアズマヒガンになる。これらのうち、最大木は根元周り6メートル80センチ、樹高11メートル5センチで、樹齢約500年と推定される。県下のヒガンザクラ系の集団としては最古と見られ、「南面のサクラ」として紫波町指定天然記念物に指定されている。【摂末社】境内社として次の3社がある。坂下稲荷神社・小野藤稲荷神社・赤石天満宮【祭事】どんと祭(1月15日)・節分祭(2月3日)・祈年祭並火防祭(春祭)(4月29日)・夏越大祓式(6月30日)・人形納謝祭(6月30日)・例大祭(秋祭)(9月第1金土日)【文化財】紫波町指定天然記念物-南面のサクラ・ヒガンザクラ群-昭和50年3月25日指定。』
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手水舎。
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社殿。
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「赤石」の由来…『天正(1573-1591)の昔、郡下六十六郷の領主斯波孫三郎詮直公が北上川で遊覧の折、川底に赤石の大石を見て紫色の水波に漂ようその美しさに感有って一首を詠じたという。「けふよりは紫波と名づけんこの川の石にうつ波紫に似て」この地方はこれまで子波、斯波、斯和、又は志和と地名の変遷をみているが、以来「紫波」と改まり当社もまた通称赤石大明神赤石神社・赤石さんと親しまれ今日に至った。詮直公によって引き揚げられた「赤石」は爾来御本殿の後方に奉安され、霊妙あらたかなる霊石として崇拝されて来た。昭和59年11月当社御創建壱千壱百八拾年記念事業で現地に奉遷されたものである。敬白。昭和60年1月1日』
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唐破風懸魚、蟇股等。
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拝殿向拝神額(神祇伯資敬王謹書)
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拝殿内。
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狛犬二対。
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33.4
33.8
境内社。何かはわからず。
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横に倒れている鳥居。
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縁結神社。
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薬師神社。
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坂下稲荷神社・小野藤稲荷神社鳥居(平成9年9月5日、小野家音羽会)。
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社号標(平成10年1月1日建之)。
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39.5
眷属神。
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40.5
灯籠一対。
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41.5
社殿。
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向拝神額。
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赤石天満宮鳥居(日詰郡山駅、咲山イシ、平成7年11月23日奉納)
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鳥居額束には「学問の宮」
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社号標。
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社殿。
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「学業精進」(平成7年9月1日、内城弘隆敬書)。有名な方みたい。
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