1
上北郡おいらせ町沼端。日ケ久保地区。いちょう公園の南方。(有)日福板金工業工場付近。墓地・八幡神社(御嶽八幡宮)前を素通りして更に奥。
2
鳥居?
3
って思ったら木でした。
4
脇には元鳥居らしき木がありましたが。
5
鳥居前の御神木が伐採されています。昔の写真を見ると社殿があり、社殿前には一対の御神木があり、鳥居はありません。
6
中世の舘越館址にあり、天保13年(1842)初代三浦儀助が日ヶ久保谷地三拾七石十斗三升五合程を七ヶ年披立願を願出、開村し九戸定住させました。当時、部落の繁栄と豊作祈願のため産土神を祭ったと云われています。
7
館越館について。館越館は百石町中心部から北東1.3kmの水田の中の独立丘陵に位置。丘陵は東西300m、南北150mの菱形のような形をしていたらしいのですが、現在は大部分が土取りで消滅し、僅かに丘頂部の舘越神社裏に堀跡を残してるだけです。起源及び由来については不明。昭和57年6月に百石町教育委員会が残された範囲を発掘調査しています。それによりますと、神社後に巾2.5m・深さ1.6mの内堀、その外側に巾2.5m・深さ1mの外堀が認められ、これら二重堀が丘陵部を巡っていたことが明らかにされています。また、土師器や須恵器、砂鉄から鉄をとった時に出る精錬滓等の遺物も多数出土。調査前に製鉄に使われた炉が3ヵ所あったといわれ、この地方で製鉄が行われていたことがわかります。また、後方一帯に竪穴住居跡と思われる凹地等があり、石器・縄文土師器片(注口土器・壷形)・貝類が出土し、下谷地遺跡・銀行山遺跡と称しています。『百石ノ今昔』によりますと、「百石本町より日ヶ久保部落に至る途中明神沼(日ヶ久保沼)を南に控えて小丘あり館越と称す。館とはアイヌ語チェスのなまれるものにしてアイヌの城郭の在りし地を称すと言えり、館越の地たる麓(南)に泥深き明神沼あり後(北)に木深き山連続し、東、海に近く、西田圃なり。丘腹に段を廻らして城郭の堀の如し。地形と言い、地名と言い、其の昔アイヌの居住せし所の如く思惟せらる。丘上一の祀あり。館越明神と称す。」とあります。※鳥居マークが当舘越稲荷神社で、卍マークが現在は墓地となっており、そこに御嶽八幡宮(大峯八幡宮)も祀られています。
8
当神社の御祭神は倉稲魂命。祭日1月2日、8月2日。また、当神社に伝承される虎舞は百石祭の時には有名らしいです。
9
やはり新しい造りですね。堀については天気が悪かったため未確認です。
10
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ