秋田県仙北市田沢湖生保内宮ノ後。
生保内神社。
「秋田縣神社廳教化指定神社」。
鳥居額束「八幡宮」。
狛犬一対(平成元年8月吉日・田口善橘奉納)。
石灯籠一対(大正元年9月15日)。
社務所。
戊辰戦争の際には幕府軍側(奥羽越列藩同盟)に付いた南部藩が生保内口から侵入し、官軍に付いた秋田藩との戦闘が繰り広げられ、生保内神社周辺は激戦地となりました。
御祭神は天照皇大御神、外三十柱。例祭日8月16日。毎年8月15日・16日の祭礼では町をあげての賑いを見せます。拝殿内部には角館出身の平福穂庵が描いた「楠公父子桜井駅訣別の図」(仙北市指定文化財)が飾られています。
養老2年(718)正月聖武天皇勅命により創立。村内の鎮守と称します。
秋田県神社庁によりますと、『明治6年9月社格許可社殿破損に付、明治26年9月13日改築許可を得、明治39年7月31日竣工。同37年3月3日3畝15歩境内編入許可、同43年8月11日大山祇神社、杉神社、七神社、水波神社を合併す。明治44年11月29日八幡神社白籏神社、熊野神社、山神社、水沢神社を、同年6月8日掛樋神社道及神社同45年7月12日磯前神社、大正2年3月12日水波能売神社、駒形神社、国見神社を合併す。』
神楽殿。
象頭山(安政5年)、庚申塔(天保12年等)、青麻三光宮(文政13年文月吉日)、秋葉山(天保15年)、湯殿山(文化14年)などの石塔。
出羽三山神社うし年参詣・羽黒山古修験道行者修業記念碑(平成9年7月吉日・田沢湖一心講)。
境内社。
稲荷神社。
境内社。
砂子明神。
石灯籠一対(平成18年6月吉日)。
砂子明神社殿。
忠魂碑(明治39年)。
碑文は読み取れる状態ですが読んでいません。
生保内神社裏手、仙北市役所田沢湖庁舎前。
「正六位勲五等鬼川誠先生顕彰碑」。田沢湖町名誉町民。
碑文「鬼川誠先生とその事績」…『先生は明治39年医師鬼川貫一の四男として田沢湖畔春山において誕生。官立弘前高等学校から岩手医学専門学校に学び、医師免許取得の後、京都帝国大学医学部において研究。昭和22年医学博士の学位を授与された。昭和26年父の後を承けて生保内村長に当選。文教施設の整備、水道事業の着工、町制の施行など、終戦後の郷土の発展と融和を図る一方、駒ヶ岳を含む国立公園指定促進運動をはじめ、父の提唱により実現した鉄道(現田沢湖線)の未貫通部分の工事の促進に尽力された。昭和30年推されて秋田県議会議員に当選、3期12年に亘り土木委員長などの要職を歴任。田沢湖抱返り県立自然公園の指定、国民休暇村の指定、国道46号及び341号、田沢湖有料道路の開通、地域医療の充実などに貢献された。町では、永年に亘る先生の卓越した業績にたいし、昭和49年田沢湖町名誉町民の称号を贈り、その功績を称えている。平成11年9月25日鬼川誠先生顕彰碑建立実行委員会』
功労碑。
碑文…『生保内山林下戻功労者 従任者田口忠吉 田代敬之助 古村久一郎 倉橋小八郎 三浦政吉 村長田代宏成 田口忠吉 田口喜市郎 功績 右は夙に村政に参画し地方自治に貢献す 明治初年の地租改正は永年管理せる広大なる村有山林を官有に帰せしめ住民の不自由其の極に達す偶々国有林下戻法公布せらるるや時の村会は該山林下戻運動を企画せるも村財政は之が負担を許さず為に頭書の人々地元従任者として只管其の衝に当られたるも認可は極めて困難の情勢になり止むなく明治三十八年四月一日国有林下戻の訴訟を提起し尓来年を閲すること十余年理事者の交替三代に及ぶ此の間各位寝食を忘れ私財を投ずる等真に血の滲む苦節遂に空しからず大正二年十一月大審院判決に於て字駒形山林三千五十町九反八畝十七歩字山居百六十九町九反二畝十六歩字滝沢三百二十五町九反三畝歩の山林は土地共永久町有に帰属するに至る今や我郷土は四囲広大なる町有林野を領有する特殊環境の中にゆるぎなき基盤を築き産業に文化に飛躍的発展を遂げつつあるは偏に各位の偉業の賜にして後を享け継ぐ吾等町民一同此の事蹟を明記すべく茲に一碑を建立し併せて長く其の功を称えんとするものなり。昭和三十一年九月吉日生保内町建立』
裏面碑文…『生保内町長千葉茂 同助役田口時之助 同收入役畠山敏男 生保内議会(※議長・副議長・議員名・大曲市石工名省略) 筆者伊藤時助 撰文田口秀吉 大曲市石工』
案内板「功労碑」より…『生保内山林下戻功労者 従任者田口忠吉 田代敬之助 古村久一郎 倉橋小八郎 三浦政吉 村長田代宏成 田口忠吉 田口喜市郎 功績 右の方々は早くから村政に携わり、地方自治に尽くされた。明治初年の地租改正により永年にわたって村が管理してきた村有の山林が国有となり、住民は極度の不自由を強いられることになった。たまたま国有林下戻法が公布された際、ときの村会は国有となった山林の下げ戻し運動を企てたが、村の財政がこれに要する費用の負担が困難な状態にあった。そうした状況のなかで、これらの人々は村当局の担当者として全力を挙げて国との下げ戻しの折衝にあたったが、認可は極めて困難な情勢であったので、やむをえず明治38年4月1日に国を相手に国有林下げ戻しの訴訟を起したのであった。それから年を経ること十有余年、この間に責任者である村長が三人も代わるなかで、担当者として文字通り寝食を忘れ、私財を投ずるなどまさに血のにじむ努力を続けた結果、その労が報いられ大正2年11月、字駒形三千五十町九反八畝十七歩、字山居百六十九町九反二畝十六歩、字滝沢三百二十五町九反三畝歩の山林が土地共に永久に村の所有になることが大審院の判決によって決定したのであった。いまや、我々の郷土はまわりに広大な町有の林野を持つ他に類をみない恵まれた環境のなかでゆるぎのない基盤が築かれており、飛躍的な発展を遂げつつあるが、これはひとえに前に名を挙げた功労者の皆さんの偉大な業績の賜物であり、その恩恵を享受する私たち町民のすべてが、ことの次第を心に刻みつけて忘れることのないように、ここに功労碑を建設し、事績とともに永くその功労を称えんとするものである。昭和31年9月吉日生保内町建立 文・大山文穂 平成16年3月31日移転 田沢湖町生保内財産区管理者 田沢湖町長 佐藤清雄』
帰り道は…
道の駅「雫石あねっこ いで湯の里」で小腹ごしらえ。
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