1
岩手県胆沢郡金ケ崎町西根。
2
金ケ崎城(金ケ崎要害)町指定史跡…『金ケ崎城は古代からの伝承があり、中世にも北上川中流域で軍事上注目されていた場所とされます。城は北上川、宿内川沿いに自然の谷を利用して二の丸、蔵館、本丸、東館、観音館、大庭の六つの郭がありました。江戸時代、城に代わって金ケ崎要害が置かれました。北上川の浸食が激しく蔵館は消失、大庭を除いた他の郭も一部欠損し、当主であった大町氏は二の丸で治世にあたったといわれます。二の丸は北と西を金堀沢・土塁、南を堀とさらに大庭で区切られています。金堀沢による堀跡の景観は藩境の要害を今に伝えています。』
3
3.5
金ヶ崎城跡…『金ヶ崎城跡は、天正19年(1591)当地が伊達領となると、領内の北辺に位置し、南部藩と接することから金ヶ崎要害が置かれ、桑折氏(1602~14)や留守氏(1615~29)が治めましたが、寛永21年(1644)、伊達氏御一族大町氏が入り、二の丸にて明治まで西根村の治世にあたりました。城は北上川の右岸に北より二の丸、蔵館、本丸、東館、観音館と連なり、本丸、東館、観音館の南に大庭を配する連郭式の城です。現状は二の丸、本丸、東館、観音館の一部と蔵館の全ては北上川に浸食されています。しかし二の丸表門跡、表門に至る小路、小路の両側に広がる堀跡、二の丸を囲む土塁等が明瞭に残っています。また県道から片平丁に入った所の堀の脇には堅牢な土塁が見られます。城の起源は明らかではありませんが、古代からの伝承があり、延暦21年(802)坂上田村麻呂が蝦夷征討時に城を築いたと言われています。前九年合戦の頃(1051~62)、安倍貞任の叔父金為行が居城、その後貞任の女(むすめ)白絲前(しらいとのまえ)が住んだといいます。中世には新渡戸氏西根城、南部氏と九戸氏の胆沢攻略の舞台となった和賀川崎城などと言われています。北上川を望みて渡る風を感じると、この城が天然の要害であることを知り、古代からの当地方の歴史を偲ぶことが出来ます。平成22年3月金ケ崎町・金ケ崎町教育委員会』
4
『岩手県胆沢(いさわ)郡金ケ崎町にあった戦国時代の山城で、江戸時代には仙台藩21要害の一つとされた。北上川を眼下に見下ろす標高52~54mの段丘の上にあった。同地は、平安時代に坂上田村麻呂が築いた館があったという伝説が残る場所で、その後の安倍氏の白糸柵(しらいとのさく)はここにあったのではないかといわれている。戦国時代には葛西氏に属した豪族小野寺氏が城主だったが、この城をめぐって南部氏や江刺氏、和賀氏などが攻防を繰り返した。天正19年(1591)には伊達氏の所有となり、伊達政宗は所領の最北端の南部藩の境界に位置する金ヶ崎城を重視して、有力重臣の桑折政長を配し、次いで伊達(留守)宗利が城主となり、正保2年(1645)の宗利の水沢転封後には伊達氏一族の大町定頼が入城して、以後9代240年間、大町氏の城主が続いて明治維新を迎えた。現在は金ヶ崎城跡-諏訪公園として整備されている。城内の諏訪小路地区には当時の武家住宅や街路などが良好に保存され、文化庁から「重要伝統的建造物群保存地区(伝建群)」の指定を受けている。◇金ヶ崎要害、胡桃館(くるみだて)、白糸城とも呼ばれる。』
5
5.5
金ケ崎神社(旧諏訪神社)方面。金堀沢水系を渡り諏訪公園へと繋がります。
6
6.4
6.8
金ケ崎神社境内とを繋ぐ橋。
7
金ケ崎神社・諏訪公園とは逆の本丸跡付近へ。
8
8.5
本丸付近。
9
9.5
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ