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八戸市類家2丁目。廣澤寺の近くです。帽子屋敷は源義経が平泉で自害せずに落ち延びたとする「北行伝説」になぞらえて付けられました。郷土史家の故正部家種康氏が八戸各地に残る義経伝説についてまとめた「北の義経伝承」によりますと、義経は信心していた同市類家の類家稲荷大明神を参拝していました。その際に烏帽子や狩衣を掛ける場所がなく、杭を立てて掛ける場所を確保したことが由来と言われています。帽子屋敷があったとされる場所は芭蕉堂公園(芭蕉句碑や筆塚等俳聖芭蕉を敬い、蕉風俳諧の鎮守にしようしたため)と呼ばれています。昭和12年10月12日(芭蕉の忌日)に政治・経済や武芸文芸等多彩に活躍して八戸町長も務めた北村益の古稀を記念して建立され、俳人松尾芭蕉の句碑や筆塚などが置かれています。北村益は藩政時代以来の伝統を持つ八戸俳諧倶楽部を創設し、百仙洞古心と号して活動の中心にありました。当初は百仙洞公園と名付けられましたが、住民の要望により、古くから親しみを込めて呼ばれていた芭蕉堂公園と改名。園内にあるお堂の中に東京の宮本重良(昭和11年日本美術院第23回展覧会出陳)作の木彫像が納められており、元禄2年、奥の細道に旅した姿をうつして旅人芭蕉翁像といわれています。「旅人芭蕉と銘打った翁の尊像を奇縁嬉しくこの地に迎え参いらせ、永く斯道擁護の鎮守として迎へまつる。」百仙洞古心。
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ご覧のように遊具等があるような公園ではありません。昭和12年の芭蕉堂建立時に長横町にあった北村益の私邸である謫仙園の灯籠(大典記念の萬歳燈)・名石・樹木(百日紅、萩、銀杏等)等を配しております。
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色々な巨石がありますが、その中に名前が付いているものがあります。これらが謫仙園にあった名石です。
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例えば…霊机(れいき)
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謫仙(たくせん)
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仙搨(せんとう)
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芭蕉堂建立碑(昭和12丁丑年10月12日)。現代の案内板もありましたし、苦手な字体だったので省略…笑
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百仙洞古心(北村益)の「なつかしと奥へ翁や笠しぐれ」が彫られています。
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整地完成記念(昭和43年2月建之。青森県知事竹内俊吉、三戸郡八戸町外二ヶ村聯合耕地整理組合)。概要…『本組合は大正七年北村益氏の提唱により計画され、大正九年に設立された。その区域は当時の八戸町、大舘村、小中野邑にまたがり、畑、原野からの開田、古田の区画整理用水補給事業を目的として着工。昭和二十八年に完成した。工事完了後の関係面積は三百四十町四反歩である。本事業の特色は、類家字堤端の通称勘太郎堤、縄手下の鍛冶町堤、舘越堤の溜池を廃止し用水源を新井田川に求め是川字岩ノ沢地内の取入口より、隧道により是川字妻ノ神風張楢舘の各部落を貫通し、大舘地区花水河原より逆サイフォンにより新井田の川底を横断し地区の最南端田向字冷水の幹線水路に導水したことである。当時の最新農業土木技術の駆使により、区画整然たる美田は誕生した。ところが戦後の八戸市の発展膨張により当地区は急速に市街地化の傾向を見せてきたそのため所有権の確定をめぐって、県の換地處分認可の取消し、これに対する農林大臣えの組合からの訴願、一部組合員からの自作農創設特別措置法による農地買収取消しの訴訟、換地計画に対する異議申立(法によらざる)等複雑な紛争が発生した。その紛争解決のため、昭和三十四年八戸市長の斡旋により、県市組合関係者からなる類家たんぼ換地促進協議会が組織され和解の基本方針が確認された。その結果、昭和三十七年には主として訴訟和解のための斡旋小委員会、昭和三十九年には換地處分事務作業担当のための換地處理委員会が設置された。この間、耕地整理組合法の廃止、農地転用の増加、所有権者の変動、和解交渉の難行、事務手続きの困難等、難問題が山積したが、處理委員会の活動と関係者の互譲和解円満解決の努力により、昭和四十一年三月二十日換地総会が開催され所有権の確定をみるにいたった。同年十二月二十八日耕地整理登記終了により漸く事業目的を完了した。』※小中野・柏崎・類家・田向の旧来からの集落から新井田川にかけて、かつては類家田んぼと呼ばれていました。もともと新井田川が形成した沖積平野なので、洪水によってその河道を変え、地形を変えることも少なくなかったといいます。この沖積地帯の開発は江戸時代の貞享3年に始まったとされ、館越堤や鍛冶丁堤・類家堤(勘太郎堤)を水田の主水源としていましたが、用水が十分ではなく、新井田川に近い部分は畑として利用していた所もあり、原野のままの所も少なくありませんでした。明治33年に耕地整理法が施行されて全国的に耕地整理が行われるようになり、八戸では明治41年に城下で行われ、この頃から類家での実施が提案されるようになります。大正9年に八戸町・大館村・小中野村により三戸郡八戸町外二ヶ村聯合耕地整理組合が組織されたことで、大規模な農地整理が進められることになりました。是川・岩ノ沢の鍋倉で新井田川から取水し、十日市の花水河原まで隧道・導水路で運び、花水河原に掛樋を渡して新井田川を越えさせ田向冷水まで引きました。この間の距離は約7.5kmに及び、類家田んぼの用水不足を解消するとともに旧来からの溜池としての堤を廃止。これに合わせて昭和元年までに新たに160町歩の開田を行うとともに、同17年からは140町歩の古田の耕地整理にも着手、戦後もこの事業が引き継がれて同28年に工事完了。ところが翌年工事終了にともなう換地処分が認可されると組合員の中から異議申し立てが出され、認可取り消し。その背景には戦後の八戸市の急速な経済発展に伴う市街化の動きが活発化し、その所有権を巡る動きが錯綜。認可取り消しに対する組合から農林大臣への訴願、一部組合員からの農地買収取消し訴訟、換地計画に対する異議申立など、複雑な紛争に発展し、類家田んぼ事件と呼ばれました。この紛争解決のため、県・市・組合関係者で構成する類家田んぼ換地促進協議会(会長=岩岡徳兵衛八戸市長)を組織し、農地転用の増加、所有権者の変動、和解交渉、煩雑化する事務手続などに対応し、昭和41年に換地処分の認可を得て収束させました。この収束に関しては、新たに区画整理の動きが影響していました。この耕地整理区画内に国道45号八戸バイパスを含む都市計画道路5本と新井田川の改修が計画されており、新たな土地区画整理事業実施を斡旋することで、耕地整理事業が長期間調整できなかった面積や境界、権利割合などの課題を区画整理事業の中で収束を図りました。農地から都市区域への変更で、農村の急激な都市化、農業から商工業への比重の推移などが、その背景にあります。この区画整理事業は耕地整理区域を「類家北」「類家中央」「類家南」「田向」の4地区に分けて進められることになります。
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裏面は本組合の経過概要・歴代役職員(省略)
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手水石的な石。天気が悪かったのでたまたま水が溜まってただけかも笑
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「芭蕉堂公園」の由来…『この「芭蕉堂公園」は昭和12年、北村益(明治元年~昭和26年、政治家)の古稀を記念して建立されたもので長横町の私邸から名石や芭蕉・銀杏等を配植し、また芭蕉の句碑や筆塚などあって俳聖芭蕉を敬仰しその正風俳諧を鎮守するところの小公園で当初は百仙洞公園と称した。古くから類家地区の人々はここを芭蕉堂公園と呼びなれ親しんでおり平成16年、地区の要望により「芭蕉堂公園」と改名した。お堂の中には宮本重良作の木彫像(昭和11年第23回日展に出陳)が配直されており元禄年間の「奥の細道」を旅した松尾芭蕉の姿とされ、旅人芭蕉翁像と言っている。【北村益(きたむらます)】1868年~1951年。旧八戸町長横町生れ。町議、町長、県議を努める。「八戸が発展しないのは党派の小競り合いの弊害であり小さい利害論にのみ日を暮らす時ではない」とし、いわゆる「八戸論」「大八戸進展論」を唱えた。政界引退後は風流人として暮らし俳号を百仙洞古心と称し、三百年の歴史を持つ八戸俳壇の中興の祖と評価される。平成17年10月吉日建』
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「伝説」源義経北方コース(類家村・帽子屋敷)…『悲劇の名将と世に謡われた源九郎判官義経は兄頼朝に追われ文治5年(1,189年)4月、平泉の高舘において31才の若さで自害したといわれる。短く華麗だったその生涯を想い後世の人々は、”義経は、その一年前に密かに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を創りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。「類家稲荷大明神縁起」(おがみ神社所蔵)によれば、藤ケ森稲荷を祭ったこの地に参詣するために高館からの往来も大変だということで、義経をはじめとして家来たちはめいめいに茅ぶきの小屋を建てた。この茅ぶき小屋が家の形に類似していたので「類家の者ども」と呼ばれた。また、一行が参詣した折に装束の烏帽子や狩衣などを置くところがなかったため、お宮の外に仮杭を立て、それらを掛けておいたところから「帽子屋敷」と呼ばれた。いずれも、藤ケ森稲荷ゆかりの地名だといえる。社団法人八戸観光コンベンション協会』
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八戸俳諧の五大系統が刻まれた筆塚。八戸俳諧系統と刻みます(昭和13年5月12日)。八戸の俳句は天明年間七代藩主南部信房代に由来し、藩主自身互扇楼畔李の俳号をもつ俳人でもあり、藩士や商人の間にも同好の士が多かったといいます。互扇楼・星霜庵・百丈軒・花月堂・三峰館の5つの系譜が伝えられ覇を競いました。俳号の継承は武家に限るなど一種の権威であり、継承者は集団のリーダーになり、ステータスもありました。明治36年創立の八戸俳諧倶楽部は宗匠俳句の伝統を承けながら、蕉風の精神を保ち、藩政時代以来の歌仙興行の作法を伝えるなど、一世紀を超える結社として希有な存在。蕉風俳句継承の核となった北村益は昭和3年に陸奥吟社主幹名久井桜久の後見として八戸俳句倶楽部の運営に取り組み、俳誌「みちのく」の刊行に尽力。他方で八戸藩神道無念流居合の道統を継承して文武両道の先達として多くの門下を育てました。古心門下の一人である音喜多富寿(古剣)は、昭和16年に俳誌「寒潮」を創刊し、10年間にわたり後進を育てるとともに、青森県の考古学の草分けとして大きな成果をあげ、また師古心の衣鉢を継ぐ居合の達人でもありました。また、明治41年創刊の「奥南新報」が紙面に俳壇を開設し、昭和16年暮れの廃刊に至るまで俳句愛好者の便を図りました。北村と音喜多は柞木田龍善(たらきだりゅうぜん)を通して、八戸藩の剣豪として知られる簗田平治(やなたへいじ)を中里介山に紹介し、介山は小説「大菩薩峠」に簗田を「柳田平治」として登場させました。
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百仙洞古心(北村益)の「むすび得し由緒の帯や更衣」(星霜庵統一記念の一句)が彫られています。北村古心は八戸町長を務め、久慈・八戸間の鉄道や鮫漁港の整備に尽力しました。北辰一刀流や大坪流の馬術等多くの武術を修めたほか、俳諧にも優れ、昭和10年九世星霜庵を襲名して多くの後進を育てました。※北村益(1868~1949)について…明治から昭和前半までの八戸で他分野に足跡を残しました。生家は長横町で、祖父の代に巨富を成した富裕家庭でした。少年時代から八戸藩に伝わる武芸全般を学び、その後儒学や西洋哲学、経済などを学んでいます。義兄の湊要之助と二人で、明治22年に「八戸青年会」を組織。青年会は、士族子弟を対象に儒学思想や国学思想中心に、農事指導などの実学も行い、地域リーダーの育成に力を入れました。武道場や文庫、農場も設け、物産品評会を開いたりしており、これらの活動資金は北村が用意したとされます。一時儒学・漢学を学ぶために上京していますが父の死去で帰郷後、青年会活動に本腰を入れています。同34年に八戸消防組頭に就任。同37年には凶作対策のための組織として積善会を設立。同38年には八戸新聞社長に就任。このような経歴の中で政治家としての地歩を固め、同40年に憲政会系の政治組織、八戸土曜会に推されて八戸町長になりました。当時の地域課題であった鮫湾漁港修築期成同盟会の組織化や久慈・八戸間をつなぐ久八鉄道完成、類家田んぼの耕地整理などに力を注ぎ、大正12年に町長を辞します。政界引退後は藩政時代以来の伝統を持つ俳句に力を注ぎ、八戸俳諧倶楽部を創設し、百仙洞古心の号で松尾芭蕉の蕉風俳諧を唱導し、それが芭蕉堂公園に繋がっています。
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星霜庵統一略記(昭和13年5月12日)も彫られています。『寛延三年貞徳流頴月堂棹佐船越三蔵 南部信興 天明三年立机 正風互扇楼畔李 後 五梅庵南部信房 正風星霜白頭 熊谷氏 二世白頭 南部信房 九世梅丸 酒井治雄 九世古心 北村益 十世白頭 栃内八太郎 以下 正風百丈軒互連 南部右京 六世古心 北村益 以下 正風花月堂李州 畔李公側室とゑ女 以下 正風三峰館寛兆 松橋宇助』
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前田利見(弘化3年(1846)~昭和10年(1935)近代八戸を牽引した文化人)について…『徒士丁に住む八戸藩士、前野好典の長男として生まれ、明治3年(1870年)に前田に改姓。文久2年(1862年)16歳で八戸藩図書係に登用され、廃藩置県後は八戸小学の世話係や湊小学の教員、学区取締など教育関係の職に就いた。明治17年(1884年)以降は、三戸郡第七組戸長をはじめ、下長苗代村・大館村・野沢村・市川村村長の要職を歴任。大正4年(1915年)に退職するまで、政界の指導者として活躍する。その後、70歳を過ぎて八戸町立図書館書記に迎えられた前田は、新しい知識や情報を取り入れようと雑誌など多くの図書を東京から購入し、蔵書の充実を図って入館者を急増させた。一方で、八戸藩に関する事跡をまとめた『八戸南部史稿』や『八戸藩史料』を編纂、八戸の郷土史研究の先駆けとなる。和歌や俳諧にも造詣が深く、明治44年(1911年)二世百丈軒(大田広城)の遺言に従い三世を継ぎ、大正3年(1914年)には五世互扇楼を相伝、八戸に江戸時代から続く五大系統のうちこれら二つの宗匠となって南部地方の俳句界をリードした。また、八戸藩御家流の徒鞍流馬術をはじめ、神道無念流剣術や柳生流鎖鎌などの名人でもあり、文武両面に優れた文化人として、多方面にわたり近代の八戸地方を牽引した。』八戸市HPより
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北村古心句碑「長閑さやはてなきそを吾が心 古心」(昭和12丁卯年晩春)
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芭蕉忌二百五十回記念(昭和18癸未年、八戸俳諧倶樂部有志建之、石工杉本榮助)
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20.4
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「古池や蛙飛ひこむ水乃音」(昭和26年、北村益古希記念)。古心筆。横に小さな字で「鼓山禅師偈曰 古池蛙跳水声生 旧翁修禅契合 此句即採以為正風開眼之旗幟矣也 俗不解翁之肚襄謬見茫漠焉由是記之以為覚夢之鯨吼 印 古心拝之」と彫られています。
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「名月や池をめくりてよもすがら はせを」(昭和庚辰中秋建之、北村益古希記念)。この句は「草庵の月見」として「続虚栗」にある句。草庵とはその頃の下総国葛飾郡西葛飾の深川町にあった芭蕉庵(池は「古池や~」を詠んだ池)。中秋の名月の句で「池をめぐりて夜もすがら」はこの中に溢れるような激情の調べが込められていると賞された句。古心はこよなくこの句が好きでした。
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22.5
芭蕉堂。この堂を建てた年の5月13日に近江の本廟の無名庵霞遊がこの堂に詣でて一句献じました。「栗津本廟のお姿は肥り勝に在らせらるるに八戸廟には痩形に立たせ賜ふを細道の夏痩姿勿体な 霞遊」。
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中には入れませんでした。
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楠公碑。
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碑文…『我が日本は忠勇を以て立國の本となし二千五百有餘年是に據りて金甌無缺の國體を守護し來れる也然るに維新以降西洋崇拝の風盛に行はれ國粹漸く衰へんとするが如く延いて或は國體に影響する事なきかを杞憂せしむる事切なりき苟立國の大義に通し武士道に立脚して國風至善の主義を懐抱する者黙する事能にさるは論を俟たきる也不肖予の如きも亦感ずる所あり明治二十二年故湊要之助氏と議り八戸青年會を創立して一大家庭の任務に當り時代扞格の教練を敢行し以て學校教育の缺陥を補に聊固持の主張を發揮せんと欲し乃文以て理義を明かにし武以て膽勇を練り禮以て克己を辧へ樂以て天真を養ひ濃以て耐力を鍛へ祭祀以て魂魄を磨くの大綱を掲げ以て青少年の陶治に没頭し幸にして効果分に應し郷黨亦耳目を傾注するに至りしか明治四十三年八戸中學校長小泉氏より意外の懇情に會ひ終に休會を宣するの止むを得さるに至れり然れとも其年中行事の中最重きを置きたる楠公祭典及三八城神社例祭に武藝を奉納するの行事は尚創立員に於て絶えず之を継続し以て今日に及へり今此楠公尊像は八戸青年會傳統の祭場として茲に安置し奉る者にして然も國家非常の秋に際し我等舊時の所見無行はるるを見るの時恰公の六百年遠忌を紀念し意義ある奉享の道を開くを欣快とす若夫廣く世と崇敬を共にする事を得將來永く地方人士の忠魂研磨に資する所有らは幸甚也 昭和十年七月十二日八戸青年會長北村益識、久保節書』※自信なし
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楠公碑と北村益…『この楠公碑、明治から昭和にかけて政治・経済・武道・文芸など多方面で活躍した北村益(きたむらます、1868~1951年)が、昭和10年(1935)に建立したものです。碑の正面には、八戸を代表する日本画家、七尾英鳳(ななおえいほう、1884~1962年)により楠正成(くすのきまさしげ)公の姿が描かれ、背面には、八戸市助役を務め書家でもあった久保節(くぼせつ、1865~1954年)が北村の原稿を揮毫した、碑建立の経緯が刻まれています。碑文には、日本の将来を憂い、北村が湊要之助(みなとようのすけ、1866~1904年)と共に明治22年(1889)に「八戸青年会」を設立、同43年(1910)に休会を宣言、楠公の六百年遠忌を記念して碑を建立したと記されています。この碑が作られたころは、東北地方が大凶作となり、日中戦争や第二次世界大戦に向かう非常に不安定な時代でした。碑文の所々に見られる当時の世相を反映した表現は、懸命に生き抜こうとした当時の人々の姿を伝えています。碑は初め、芭蕉堂公園の近く、北村の私有地に設置されていましたが、北村の死後、楠公と同じ南北朝時代の武将として活躍した根城南部氏の城、「史跡根城跡」に移されます。しかし、自然災害のために再び移転を余儀なくされ、その後、櫛引八幡宮營田新三郎(つくたしんざぶろう)宮司が引き取り、これまで同家において長い間大切にされてきました。この碑は、近代八戸の青年教育に貢献した八戸青年会をはじめとして、八戸藩伝来の武術と俳諧を極めつつその振興を図り、政治家・財界人として八戸の近代化を推進した北村益の足跡を知ることができる貴重な資料です。この度、わが郷土八戸の歴史と文化を伝える歴史遺産として広く周知され、芭蕉堂や義経伝説などと共に観光資源として活用されることを願い、北村ゆかりの地である芭蕉堂公園へと移設しました。平成22年7月吉日楠公碑移設実行委員会委員長加藤憲曠(※協賛省略)』
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