
八戸市類家2丁目。藩政時代には新井田街道の寺町通と呼ばれた寺院が密集する一角に所在。写真は駐車場にあった大きな寺号標(維時平成7年11月24日、駐車場造成記念、二十二世宏勝代、施工(株)泉山石材泉山良作)。

こちらは駐車場の向かいにあった碑。

一基は庚申塔(天保三壬辰年九月十七日)です。

もう一基は不明。

かつての類家村で江戸期は三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属します。近世初頭は根城南部氏知行地で、元和3年の南部利直下知状(南部家文書)に「るいけ」、翌4年の同知行宛行目録(同前)に「るい家」とあります。村高は「正保郷村帳」140石余(うち田72石余・畑68石余)、「貞享高辻帳」140石余、「元禄10年高帳」520石余(田313石余・畑206石余)、「天保郷帳」415石余、「旧高旧領」587石余。用水は類家(勘太郎)堤、本寿寺前堤を利用。水不足時には町堰からも引水。「雑書」慶安元年7月の条に「三番雁 類家堤」とあり、盛岡藩領時代から鳥の狩猟場となっていましたが、正徳元年には同堤から鍛冶町下までが禁猟区と定められました。元禄6年9月、類家堤水門の石垣工事が行われています。「八戸藩勘定所日記」宝暦11年6月の条に「類家堤水無之ニ付、御町堰北側之方留方南側之方へ相通、右堤へ相下ケ申度」と見えます。火事は寛文8年4月に2軒、弘化4年6月に4軒を焼失。寺院は元和年間の開創と伝える顕本法華宗の正栄山本寿寺、寛文年間の開創とも延宝年間の開創ともいう曹洞宗の自淵山長流寺、寛文7年の開創とされる曹洞宗の松峰山心月院、寛永3年の開創と伝える曹洞宗の月峰山広沢寺があります。また、寛文8年から同11年までは臨済宗の月渓山南宗寺が、宝暦年間頃までは黄檗宗の万聚山玄中寺もありました。新井田方面へ至る道筋にこれらの寺が集中しているため「八戸藩日記」寛文7年9月の条に「寺町通」とみえます。江戸末期、地内の稲荷小路に家中屋敷が形成されたと考えられており、安政2年の「八戸藩勘定所日記」では屋敷替えの記載もみられます。明治初年には江戸から引き上げの旧藩士に屋敷が給され「類家屋敷割地図」「常府引越之族之当屋敷被下ニ付立会絵図」などが伝わります。明治4年八戸県、弘前県を経て、青森県所属。同初年の家数は54。明治12年の「共武政表」によりますと戸数66・人口438(男230・女208)、寺院3、学校1、水車2、牛19、馬49。同22年長者村の大字となります。
門。
本堂修築並位牌堂新築落慶記念、昭和48年10月10日建之、功徳主河原木藤助、杉本六郎、中居鉄藏。

こちらは…

私の手ブレによって読み取れず笑

「天下太平國家安全五穀豊穣 慶應三丁卯三月 願主觀法■」

こちら向かって一番左は庚申塔です。紀年銘は宝暦4戌年10月15日で、上部には日輪と月輪、台石には三猿を刻んでいます。
めちゃ目が合う。

とにかく石仏がたくさん。


山門前の参道両側にはこのように四国八十八ヵ所札所に因む石仏が整然と並んでいます。
これらの石仏は明治時代の廃仏毀釈の際に、徳城寺(現高館小田八幡宮)にあったものを新井田対泉院へと移すはずが、人夫たちが運搬途中で疲れ果てたためにここに安置されたとされます。ちなみに廣澤寺は対泉院末寺。
そんな参道を進みます。
仁王門前。
これらも古いです。
大乗妙典一字一石経塚には享保三戊戌年の文字が見えますし、
こちらの灯籠らしき石塔は安永七戊戌年七月廿四日とあります。あっ、どっちも戊戌ですね。
お掃除お疲れさまです。

庫裡新築記念、仁王尊・無縁塚・水子供養塔勧請造立寄進者名碑(昭和58年11月24日二十二世玄榮宏勝代)

仁王門。
仁王像。
参道。
地蔵菩薩(昭和58年6月24、庫裡新築記念、檀中一同、二十二世宏勝代)。ヒマワリですかね。供えた後も結構伸びたような。

水子地蔵菩薩。

「水子たちみないだかれよ地蔵尊」永平副貫首老梅叟

地蔵菩薩。

比較的新しい感じですね。

石灯籠一対(安政2年4月24日)


石灯籠一対(昭和56年6月11日、慶弔会記念、功徳主番地清、沼舘慶四郎、杉本六郎、岩舘歳蔵)


観音像。聖観音菩薩かな。

石仏(昭和43年旧6月)

高祖承陽大師六百五拾遠忌之碑(明治35年9月29日建立)

石仏(明治6癸酉年10月24日)。この造りで花を持たせることができるのは画期的。

墓碑。古いものです。

五重塔。


廣澤寺のイチョウ。樹高約18m、目通り幹囲5.1m、推定樹齢不明。

寺務所、庫裡。

本堂前灯籠一対(庫裡新築記念、二十二世宏勝代、昭和58年11月24日)


曹洞宗月峯山(月峰山)広澤寺(廣澤寺・こうたくじ)。
御本尊延命地蔵菩薩(類家地蔵尊)の由来には諸説あります。
初代八戸藩主南部直房から賜った延命地蔵菩薩、盛岡藩二代藩主南部利直が江戸で信仰したのを下付した、あるいは盛岡藩三代藩主南部重直(山城寺重直)が浅水村(旧五戸町)の奴佐(ぬさ)という所にあったのを江戸へ持参しその後下付した、八戸藩三代藩主南部通信が参勤交代の帰路に江戸の骨董屋前で地蔵尊が「連れて行け」と言ったので買い求めて下付した等です。いずれにしましても33年に1度しか御開帳しない秘仏(延命地蔵菩薩)となっています。御本尊を信仰対象としたなかに、体の弱い子どもが元気になるよう御本尊にお預けするトリコイレというのがあり、元気になるとトリコサゲーという祈祷が行われます。また、当寺院には奇峰学秀作の達磨大師や韋駄天も安置されています。
藩政時代は近廻五ヵ寺の一つに数えられ、明治時代には八戸御城下三十三観音霊場第二番札所(三十三体観音)になります。



草創は寺の言い伝えによりますと、寛永3年(1626)とされます。また、「八戸祠佐嘉志(ほこらさがし)写」の文書から、当地にあった地蔵堂を守るための別当寺として建立されたことがわかります。開山は対泉院三世林南(安)儀道大和尚。




























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