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八戸市吹上1丁目。曹洞宗自渕山(自淵山)長流寺。御本尊薬師如来(元の御本尊は度重なる火災にて焼失)。御本尊の薬師如来は厨子に収められており、毎年11月7日の年越し法要にて御開帳されるようです。八戸御城下三十三観音霊場四番札所(聖観音(瑠璃観音))。
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庚申供養塔(宝暦14年3月9日)。庚申供養塔は他に天明6年5月のものもあるようですが、一基しか見かけませんでした。見逃していると思います。
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寺標・門柱(本堂庫裡落慶記念、二十四世玄悦代、昭和59年10月28日施主米澤幸藏)
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4.5
青面金剛(安永2年7月3日)。疫病や邪気を取り払うとされる庚申塔。
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かつての類家村。江戸期は三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属します。近世初頭は根城南部氏知行地で、元和3年の南部利直下知状(南部家文書)に「るいけ」、翌4年の同知行宛行目録(同前)に「るい家」とあります。村高は「正保郷村帳」140石余(うち田72石余・畑68石余)、「貞享高辻帳」140石余、「元禄10年高帳」520石余(田313石余・畑206石余)、「天保郷帳」415石余、「旧高旧領」587石余。用水は類家(勘太郎)堤、本寿寺前堤を利用。水不足時には町堰からも引水。「雑書」慶安元年7月の条に「三番雁 類家堤」とあり、盛岡藩領時代から鳥の狩猟場となっていましたが、正徳元年には同堤から鍛冶町下までが禁猟区と定められました。元禄6年9月、類家堤水門の石垣工事が行われています。「八戸藩勘定所日記」宝暦11年6月の条に「類家堤水無之ニ付、御町堰北側之方留方南側之方へ相通、右堤へ相下ケ申度」と見えます。火事は寛文8年4月に2軒、弘化4年6月に4軒を焼失。
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寺院は元和年間の開創と伝える顕本法華宗の正栄山本寿寺、寛文年間の開創とも延宝年間の開創ともいう曹洞宗の自淵山長流寺、寛文7年の開創とされる曹洞宗の松峰山心月院、寛永3年の開創と伝える曹洞宗の月峰山広沢寺があります。また、寛文8年から同11年までは臨済宗の月渓山南宗寺が、宝暦年間頃までは黄檗宗の万聚山玄中寺もありました。新井田方面へ至る道筋にこれらの寺が集中しているため「八戸藩日記」寛文7年9月の条に「寺町通」とみえます。江戸末期、地内の稲荷小路に家中屋敷が形成されたと考えられており、安政2年の「八戸藩勘定所日記」では屋敷替えの記載もみられます。明治初年には江戸から引き上げの旧藩士に屋敷が給され「類家屋敷割地図」「常府引越之族之当屋敷被下ニ付立会絵図」などが伝わります。明治4年八戸県、弘前県を経て、青森県所属。同初年の家数は54。明治12年の「共武政表」によりますと戸数66・人口438(男230・女208)、寺院3、学校1、水車2、牛19、馬49。同22年長者村の大字となります。
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水子地蔵尊。
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和合地蔵尊。
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三界萬霊等。
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観世音菩薩…お笑いになってる!?
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『該観世音菩薩像は、石井孝助氏曽て天津中国税関長の職を去り、終戦の悲しみを胸に秘め帰国途次大同附近に於いて、奇しく因縁に恵まれて享受せしものなり。同氏愛国の情切々の余り救国復興祈願の為め当寺に奉納せしものなり。仍て、茲に威光増加の功徳を冀うて此處に謹んで宝座を設けて奉安し給うなり。 昭和40年11月7日願主石田政市、佐藤一男 長流寺二十四世玄悦代 平成21年11月吉辰、長流廿五世要岳宏州代改修』
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藩政時代に新井田街道の寺町通といわれた道に所在。この一帯には寺院が多く、藩政時代は近廻五ヵ寺のひとつに数えられました。寺は当初、湊街道の小中野村字二本杉の近所折本村に所在したとされ、御門杉と称した2本の大杉が門前にあったことで「二本杉の寺」ともいわれたそうです。
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開創は寛永7年、開山年代はその後の延宝4年と伝えます。開山は新井田対泉寺三世の林南(安)儀道とされています。いつ頃現在地に移ったかは不明(元禄12年に本壽寺の隣に五間の屋敷地が下付されたと考えられています)。藩政時代には藩命により雨乞いの祈祷を行ったことが延宝7年、宝永5年、宝永6年の八戸藩日記にみえます。当寺は県内初の曹洞宗菅長となった西有穆山禅師生家の菩提寺であり、出家して修業を始めた寺でもあります。西有穆山禅師は明治13年に薬師如来一体を寄進したほかに、出家得度の師であった当寺十六世金龍和尚の墓碑を建立。同年秋には火災によって同禅師寄進の仏像や鎮守堂安置の慈覚作と伝わる薬師如来、十二神将の大半が焼失。火難を免れた十二神将は僅かに二体のみで、現在は御本尊とともに本堂に安置。
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扁額「曹洞宗菅長慧玉」(曹洞宗菅長慧玉)
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小祠。
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狛犬一対(昭和10年6月吉日大和文子納)
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稲荷社かな。
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納骨塔…『八戸市立長生園は昭和27年4月25日に創立されていますが在園者で故人となられた方々の御霊の安住を願い当納骨塔は初め長生園正門向いの庭内に昭和30年11月25日に建立しましたが十勝沖地震で崩壊しました。それで昭和45年8月10日当時の菩提寺自淵山長流寺方の特別な御配慮に依り茲に建立されました。多数の故人の冥福をお祈りして爾耒各故人の法要と共に年一度の開塔慰霊祭が取り行なわれています。養護老人ホーム八戸市立長生園。塔梵字訳…「それら諸行は無常なり 生じては壊する性質あるものなり 実に生じては滅することのある それらの諸行には寂滅安楽あり」野沢静証博士書』
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延命地蔵尊。
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小泉紫峰川柳句碑合同句碑「知る人ぞ知るすて石になれる幸」(昭和57年10月10日建立)
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