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八戸市吹上1丁目。顕本法華宗正栄山本寿寺(本壽寺)。日蓮宗の流れをくむ市内唯一の顕本法華宗寺院。藩政時代には新井田街道「寺町通」と呼ばれた類家村に寺院が密集する地区、現在の市中心街に程近い県立八戸東高等学校西側に所在。藩政時代後期には晩鐘が八戸八景の一つに数えられていました。
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庚申塔(文政7甲申歳8月晦日、講中)。状態がいいですね。この他に天保3年9月17日、天保3年4月、文化4年4月の庚申塔があるようです。
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題目塔(南無妙法蓮華経、一天四海皆帰妙法、日蓮大菩薩、維持天明元辛丑10月13日)。こちらも状態が良好です。
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「五百遠忌大恩報謝正栄山本壽寺」
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こちらも題目塔かな。アジサイに囲まれて近寄れず。裏面には「天長地久國土安穏五穀豊穣萬民快樂 明治十三年四月 正栄山本壽寺第十五世智定■■■」
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参道。
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かつての類家村。江戸期は三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属します。近世初頭は根城南部氏知行地で、元和3年の南部利直下知状(南部家文書)に「るいけ」、翌4年の同知行宛行目録(同前)に「るい家」とあります。村高は「正保郷村帳」140石余(うち田72石余・畑68石余)、「貞享高辻帳」140石余、「元禄10年高帳」520石余(田313石余・畑206石余)、「天保郷帳」415石余、「旧高旧領」587石余。用水は類家(勘太郎)堤、本寿寺前堤を利用。水不足時には町堰からも引水。「雑書」慶安元年7月の条に「三番雁 類家堤」とあり、盛岡藩領時代から鳥の狩猟場となっていましたが、正徳元年には同堤から鍛冶町下までが禁猟区と定められました。元禄6年9月、類家堤水門の石垣工事が行われています。「八戸藩勘定所日記」宝暦11年6月の条に「類家堤水無之ニ付、御町堰北側之方留方南側之方へ相通、右堤へ相下ケ申度」と見えます。火事は寛文8年4月に2軒、弘化4年6月に4軒を焼失。寺院は元和年間の開創と伝える顕本法華宗の正栄山本寿寺、寛文年間の開創とも延宝年間の開創ともいう曹洞宗の自淵山長流寺、寛文7年の開創とされる曹洞宗の松峰山心月院、寛永3年の開創と伝える曹洞宗の月峰山広沢寺があります。また、寛文8年から同11年までは臨済宗の月渓山南宗寺が、宝暦年間頃までは黄檗宗の万聚山玄中寺もありました。新井田方面へ至る道筋にこれらの寺が集中しているため「八戸藩日記」寛文7年9月の条に「寺町通」とみえます。江戸末期、地内の稲荷小路に家中屋敷が形成されたと考えられており、安政2年の「八戸藩勘定所日記」では屋敷替えの記載もみられます。明治初年には江戸から引き上げの旧藩士に屋敷が給され「類家屋敷割地図」「常府引越之族之当屋敷被下ニ付立会絵図」などが伝わります。明治4年八戸県、弘前県を経て、青森県所属。同初年の家数は54。明治12年の「共武政表」によりますと戸数66・人口438(男230・女208)、寺院3、学校1、水車2、牛19、馬49。同22年長者村の大字となります。
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安穏廟。
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唐破風懸魚、蟇股、木鼻等。
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安穏廟前の無縁塔(大正15年秋 上口安太郎建)
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「佛心」(日仰書、昭和47年8月吉日、寄進者杉本榮助・杉本フク)
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安穏廟会員碑。
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こちらは墓碑ですね。かなり古いものです。向かって右は寛永6己巳年7月13日(實相院殿妙梄日逕大姉)、中央は天明4甲辰年5月5日(三重院殿妙行日藏大姉)、左は弘化2乙巳年(當山十三世慶幸院日五、台座に瀧尻氏)。
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こちらは宗祖大聖開宗六百御十年報恩紀念(向かって左)等と見えます。
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御本尊は十界曼荼羅。御領内寺院来由全によりますと、草創は元和年間で、開山は本壽院正榮日久上人。一説では草創を寛永18年とします(新撰陸奥国誌)。山号と寺号は日久上人の法名から命名されたといいます。
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藩政時代には領内で寺格の高い寺院を指す領内十ヶ寺、更に内五ヶ寺として位置付けられていました。また、八戸藩の祈祷寺として宝永4年に大漁祈願、翌年に白銀浜止雨の祈祷を藩命により行っています。その後、八戸城鬼門の守護神として弁財天を祀る鮫村の蕪島弁天堂(蕪嶋神社)の別当に任命され、雨乞いなどの祈祷を再三命じられています。藩政時代末期の天保6年に八戸藩七代藩主南部信房が信仰した日蓮大聖人像をはじめ、法器や仏具類の寄進を受けましたが、明治24年に火災による飛び火で類焼し、遺品を納めた長持十二棹のうち、八戸藩家紋付の長持一棹だけが残ります。
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当寺背後の地は初代藩主南部直房火葬の地と伝え、三十三回忌に夫人霊松院が施主となり阿弥陀仏の石像を建立。四代藩主南部広信の出生を記念して松1千本・柏30本の植樹が行われたり、四代藩主南部広信の生母であるお類の方(桂氏、八戸藩主三代通信の側室、盛岡藩士桂七郎太夫の妹、宝永6年病没)と五代藩主南部信興の六女である見恵姫(盛岡南部家の後嗣に嫁ぐことになっていたものの、後嗣が急死したため剃髪し、25歳で没しています)が眠っています。
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境内には天保12年・弘化4年に建立された八戸藩お抱え力士相撲記念碑(千年川音松の碑)のほか、八戸小唄の作詞者として知られている法師浜桜白「鶴くるや朝な朝なに岳の色」や前田桜曙「階岳を築山にしてけひの月」の句碑(昭和52年)が建立されています。千年川音松は種差の出身といわれ、八戸藩お抱えの相撲力士の一人として活躍。勝負に際して八百長が発覚しそうになったことから毒を盛られて非業の最期を遂げたと伝えます。
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本堂蟇股・木鼻。
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本寿寺…『正栄山本寿寺は八戸類家にあい当時は京都妙満寺の末で日蓮宗である。寛永十八年日久上人の開基で藩主広信公の母堂桂氏を葬る処である。内五ヶ寺の一つである当寺は八戸第七代信房の在世中信仰せられし処で天保六年石手洗村にて知行十石金弐両を寄附せられた。寺領二十石の処十石が増計三十石となった。これは信房の信仰せられし日蓮の木像並法図仏具数種を預け置かれし供物料に充てる為めである。因に信房法号仙渓院は数年日蓮宗たりし結果退隠せられし後も法体せられ日常日蓮宗の諸高僧と親しみを深くし談じ、宗儀を研讃し麻布市兵衛町の下屋敷に祖師像を安置し仏具法器を陳列して結構寺院に模し荘厳の美観人目を驚かす程であった。後身延山の貫主より梅明院日長上人と贈られ、自身朝暮の看経怠らず毎年十月の会式には市街の男女に随意参詣を許し盛況を極めたが卒去の後この諸器具一切を八戸へ下し本寿寺へ預けられたのである。其の法具諸器の多きこと長持十二棹に余ったということである。昔時境内桜樹多く春緑の候遊覧の地であった。又老杉梢を並べ活潑なる読経の声と爽快なる太鼓の音と和して参詣者絶える時なく殊に其鐘の如きは八戸の寺中で有名で、殊に秋風枯葉を鳴らすの時正栄山の鐘の音は入相の空に響きて一しおの愁感を催さしめた程であった。』
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鐘楼。
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梵鐘。
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なぜか二宮尊徳がいました。
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村上しゅら・加藤憲曠・法師浜桜白合同句碑(昭和57年8月8日建立)…「えんぶりの笛いきいきと雪降らす しゅら」「田草取立てば両手を外にひろげ 憲曠」「翁面外してもおきな里神楽 桜白」
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正風遠州流花道宗匠、松好齋鈴木一枝碑。
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