三戸郡南部町苫米地字神明下河原。

中世の「とまへち」は南北朝期から見える地名であり糠部郡三戸のうち。建武元年8月6日の入道跡注文に「一、とまへち さとや 一丁」などと見えており年貢などの調査が行われています。同年4月晦日の多田貞綱書状によりますと「三戸横溝新五郎入道跡」が南部師行らに預けられており、当地は鎌倉末期に横溝氏が地頭代であったと考えられます。下って戦国期には、永禄10年頃と推定される10月16日の南部晴政書状に「四戸殿人馬別ニ被立、馬見吉・森之腰へ被致打立、かせき被申候」、同日付の東政勝書状案に「昨日も四戸殿人馬別ニ被立馬候而」と見えており、永禄年間の三戸南部一族の内紛の際に、当地は晴政派の軍勢の出撃の要路となっています。なお、当地は三戸南部氏の支配下にあり、天正年間には当地の苫米地館に苫米地因幡が居館して当地を支配していたといいます。現在も馬淵川左岸の河岸段丘上に館跡が残されています。

馬淵川に架かる橋。


ふれあい公園は苫米地館(とまべちだて)跡になります。
苫米地館は馬淵川の左岸にあり、川からの比高差は約10m。馬淵川に突き出した小丘に立地した単郭の館であり、北側に隣接して現在の苫米地集落があります。「南部諸城の研究」(「苫米地館遺跡」福地村教育委員会1997)によりますと、四周に堀と土塁が巡っており、特に大手があった北側が堅固であったといいますが、館跡及びその周辺は福地村ふれあい公園として整備され、当時の様子を知ることはできません。平成7年に公園整備に伴って曲輪内の試掘調査が行われており、15~16世紀に生産された中国産の青磁や白磁、瀬戸・美濃産の陶磁器や三緡(192枚)の銭貨などが出土。銭貨は竪穴建物跡と思われる落ち込みから発見されており、最新銭が宣徳通宝(初鋳年1433)であり、藁紐で綴られていたそうです。なお、この調査は狭い範囲における調査で、館に関する明確な遺構は検出されませんでした。
館の由来については明らかではありませんが、天正19年(1591)の九戸政実の乱の際に、九戸方の櫛引氏に攻撃を受け、苫米地因幡はこれを撃退したといいます(青森県史資料編)。
苫米地館は福地村の中では高橋館とともに馬淵川左岸にあります。馬淵川流域に存在する城館の多くは川の右岸にありますが、当時も主要な道であったと考えられる鹿角街道(三戸街道)が現在の苫米地集落の中を通っています。この集落の北側には福地村で最も広い平野部があり、江戸時代中頃には八戸藩主の御前米の産地でした。この平野部は中世においても穀倉地として重要であったと考えられ、穀倉地に隣接する本館は道や川とともに穀倉地の管理や交易に適した立地であったと考えられます。


思っていたより広いですね。案内図にはちびっこプール、アスレチック広場、ローラースケート場、ゲートボール場などが記されていましたがあまり機能していない様子。
そして綺麗に整備されており、館跡の雰囲気はあまりわかりません。
馬淵川流域ふるさとの森と川と海保全地域。

四阿。
馬淵川沿いに降りられるようになっていますが雑草が残念でした。
もしくは安全対策なのかな。

達者村百景「南部町ふれあい公園と苫米地橋(つり橋)(跡)」。(跡)が後から足された感じですね。

行ってみましょう。

跡です。
苫米地橋(昭和33年4月竣工)
台風で流されてしまったようです。
馬淵川と苫米地橋(跡)。
公園内にある碑。吊り橋の形かな。

こちらは苫米地橋の記念碑で、当時の写真も見ることができます。ちょっと怖そうな吊り橋。私には無理かも。
裏面碑文「苫米地橋(吊り橋)の記念碑建立」…『馬淵川を境として栄えてきた旧田部村と旧地引村の二村が昭和の合併により、昭和30年4月に福地村として生まれ変わり、旧二村を結ぶ吊り橋の工事を昭和32年1月に着手し、昭和33年5月に延長100m、事業費686万9千円で「苫米地橋」が完成した。この橋の落成式には、来賓、村の関係者をはじめ嫁や孫に手を引かれた高齢者たちも加わり500人を超えた村民が集まり、盛大に渡り初めが行われた。この吊り橋がきっかけになり、村民の交流に大きく関わり、中学校の統合までと発展し、中学生、高校生の通学や勤労者の通勤に利用されてきた。その後、下流に福地橋、続いて歩道橋のふれあい橋が建設されたことから通行者が減少してきた。馬淵川の増水により幾度なく被害を被って耐えてきた吊り橋であったが、平成23年9月の台風十五号では、戦後二番目の水位を記録し、濁流や瓦礫により押し流されついに耐えきれなくなって損壊した。この風情ある吊り橋は、町民のシンボル的な存在であったが、吊り橋を復旧させたとしても、今後も馬淵川の増水で損壊を繰り返されることが懸念されることから、50年以上にわたり利用されてきた吊り橋を廃止することにした。今日まで住民に愛された吊り橋を将来まで記憶に留めておくために、ここに記念碑を建立するものである。平成25年3月南部町』

休憩所と記されていた建物へ。

休憩所ではなく物置ですね。ほとんどが「とまべちまつり」で使用されるものでしょうね。

見下ろした噴水。こちらも機能しておりません。
苫米地館跡の案内板がありました。

苫米地館跡…『苫米地館は馬淵川の左岸に位置し、東西約90m、南北約120mで、かつては周囲に土居と堀がめぐらされていたといわれるが、現在、土居は削平されてみられない。また堀は館の北方に残っているが、地形からみると馬渕川の旧河道を利用した堀であることが明らかである。南方は馬淵川に臨み断崖で、規模は小さいが堅固な館である。この館の起源は明らかでないが、「三戸館持支配帳」に「苫米地館300石苫米地因幡」とあることから、この地に代々居住した苫米地氏の居館であったことは確かである。天正年間(1573~92)南部氏の内訌で九戸政実が乱を起した際は、苫米地氏は南部信直に与している。政実方の部将櫛引河内守清長は三戸城を攻撃する足場を確保するため天正19年(1591)この館を夜襲したが、城主因幡と高橋館の高橋駿河が協力してこれを撃退している。昭和56年8月福地村教育委員会』

ふれあい公園内に鎮座する神社へと向かいます。
鳥居。


『福地村史下巻』にて、「苫米地舘稲荷神社は、ふれあい公園の中に苫米地舘の舘神さまとして祀られている。境内裏手の斜面には、直径1.5メートルほどの欅の大木がそびえ、ほかにも欅の古木や通称アマジャケの木(実が食用となる=テンポナシ)が茂っている」という文章と、「苫米地ふれあい公園内の苫米地館の堀沿いに力石があった。苫米地一族の守り神といわれる礬(爻=土)井(どい)大明神神社が鎮座している。境内の藤の巨木の曲線美は圧巻である。」という文章があったのですが、果たしてどっちの神社なのか、もしくは同一神社(大明神)なのか。ちなみに私は1社にしか気付きませんでした。

社殿。

本殿。陶器製の双頭巳神があります。稲荷神社という雰囲気ではないですね。棟札には「奉建立諸大明神社堂壹宇當村安穏諸願成就如意祈攸 大行事帝穏天 小行事四大天王 聖主天中天 迦陵頻伽聲 哀愍羅主故 我等今敬礼」(しょうじゅてんじゅうてん かりょうびんがしょう あいみんしゅじょうしゃ がとうこんきょうらい)・「于時天保十二年旧八月一日 乙金澤村大工伊佐松 苫米地村中大願●● 導師大學坊寛●」とあります。

社殿横の石殿。こちらにはボロボロの棟札がありますが当然読み取れず。

力石もわからなかったし、ちょっぴりモヤっとしたので…
ふれあい公園から歩いて行ける「KEKU CAFE(ケクーカフェ)」へ。

ほんと久々。



おいしかったです。


以下は昔のケクーカフェの写真です。



かなり昔の写真なのでスルーしてください。




スルーしてください涙


スルーしてください泣






























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