
平川市大光寺二早稲田。

神明宮(日月堂)

前回の記事:『神明宮 ・ 日明神社 (日月堂 / 平川市大光寺)』

青面金剛像。

紀年銘は読み取れず。頑張れば読み取れますが、周囲のブロック塀が邪魔なのであきらめました。明和6年っぽく見えますが、たぶん違うでしょうね。

反対側は9月12日かな。ブロック塀が無ければちゃんと読み取れると思います。

参道にはコンクリートが敷かれており、かぎ型となっており、やや正面に貴船神社がありますが、神明宮への参道は左に直角に曲がります。境内は田地・畑地に囲まれ、周囲にブナの木が数本生い茂り、その樹々の中に鎮座。
三之鳥居(石造)
明治百年記念奉納。

昭和42年旧5月15日。

鳥居寄進者芳名碑(昭和42年旧5月15日。明治百年記念、神明宮鳥居建立、世話人滝本和次郎、大川重造。社司有馬千代雄、鳴海館廼舍謹書※寄進者芳名省略)

社殿正面参道。
石灯籠一対(昭和7年旧5月16日、信者講中芳賀市三郎他7名)


石灯籠一対(慶安4年5月16日、鳴海近エ門)
手水舎。

狛犬一対(昭和7年旧6月16日、芳賀市三郎)
読み取れませんがもしかしたら「七」の上にも数字があったかも。

昭和五十乙卯年記念神明宮復元新築奉納寄進者芳名碑。

裏面碑文…『神明宮の由緒と献堂の趣旨抄…日月堂神明宮は、わが鎌倉期以降代々城主並びに近隣部落民及び、北海道方面の善男善女にも深く信仰せられ、もって昭和の現代に至った。古書に由るも、近くは貞享検地帳・安永神社調等にも歴然たる記事あり、旧堂宇は明治三十年改築以来八十年、郷党に尊崇せられかつは神明サマとして敬い親しまれてきた。境内には池・中島・祠も現存し、往古の面影をとどめている。ここに元号五十年を記念して、堂宇の復元新築献納、もって神霊の加護に応えまつうとする…希う嘉して享けられんことを。ちなみに、祭神は天照皇大神にておわします。昭和五十年六月廿四日(旧五月十五日)南津軽郡平賀町大光寺部落』※特別寄進者:大光寺水稲栽培組合(壱拾万円)、一灯庵館廼舍生(五拾万円)…宮司:有馬千代雄。工事関係者…工匠:鳴海由弘、基礎:弘南産業、石匠:山内市太郎(弘前)、写真:芳賀吉金、文書:鳴海助一。※寄進者242名、、経費概要、発起(世話)人:鳴海徹郎(責任総代)他11名は省略。

社殿(向拝神額「日明大神」)。鎌府以来大光寺城主代々崇敬。明治維新に至るまで大光寺組十七ヶ村の村民はもちろん、遠く松前地方からも参詣者があったといいます。堂宇は安政5年4月修復、6坪ありましたが明治19年のコレラ病蔓延の時に、ここを避病院にあてたため、その後これを焼き捨て明治30年旧5月15日に現在の堂舎を建築。無格社であり明治5年5月の廃社調べには廃社として記載。
大光寺史より…『大光寺部落の西方にあり古社の一つ、貞享検地帳にも「日天月天堂地、十二間×十二間、四畝二十四歩、堂有、村中抱』・宝永二年神社調より…『大光寺村日月堂点羽今は籠田神明ト云フ 堂守誓詞職長利善兵衛 境内東西十二間 南北十二間 堂地一間四面 堂東向二尺五寸四面 慶安三年在建立』

石碑「日月宮 天照皇太神 八幡太神 春日大明神」(文政11戊子年9月16日、造立主小和森村今井貞平)
池。水はありませんが。
境内にある池は吉凶を判断し、池水で眼を洗えば眼病が治るといわれていました。
池には2つの島があり、大きい島にはかつて弁財天を祭っていました。
橋を渡ります。

中島から見た橋。

貴船大神。棟札「昭和四十五庚戌年六月十八日 旧五月十五日落成 齋主 有馬千代雄 大工 鳴海丑之助 屋根 古川元一 諸工費 21,000円 米一俵 8,100円 会計係 小山内長吉 滝本鉄男謹書」・「奉斉 貴船大神社殿堅固 村中安全 五穀豊穣 日夜守護 神社責任役員瀧本幸蔵 仝(神社総代)鳴海徹郎 仝(仝)長内竹次郎 仝鳴海助一 神社総代大川重造 仝瀧本粕蔵 仝大川孔一 芳賀兼太郎 小山内常雄 小山内孝王」



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