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岩手県二戸市福岡横丁。
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仁王像。
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山門の天井画。
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かつての福岡村についてです。南部信直・利直の城下町として五日町・九日町が形成され、宿駅を中心として整備がなされ、文化も寺社を中心として発展。利直が盛岡城に移った後は、利直長子の経直が城代となって行政及び治安にあたりました。経直は慶長18年に16歳の若さで逝去し、その後寛永19年に福岡城は廃城。浄土宗光明山善導寺、曹洞宗高沢山竜岩寺、糠部三十三観音第28番札所岩谷観音などが九日町、浄土宗得生山安養寺が五日町に見えます。五日町の呑香稲荷社は社領3石の鎮守で、盛岡藩の北の守りとして藩政上重要な神社であり、藩主重信が貞享3年奉行栃内与五郎左衛門に命じて社殿を再建させています(以後盛岡藩が修復)。また、同社の祭礼はこの地方最大の年中行事であり、文化14年「福岡御役屋年中行事書上帳」に祭礼は7月7日・8日の両日で、近郷近在の老若男女が参加しました。文化12年下斗米秀之進(相馬大作)が江戸の軍学者平山行蔵の教えをくむ実用流道場兵聖閣を開いて、地元の師弟数十名の教育にあたっています。武術をはじめ兵書・経書を講じ、和漢の軍談を語り、厳格で質実剛健を重んじ、短衣弊袴、厳寒でも羽織・足袋を用いず、25日昼夜兼行の武術修練などを行ったり、3昼夜絶食の剣槍の修練を試みるなど専ら心身の鍛錬に努めました。藩主もまた兵聖閣を黙認し、陰ながら援助していたといわれます。彼は文政4年に弘前藩主襲撃を試みた所謂相馬大作事件によって有名ですね。安政5年7月尊王の志士萩藩士小倉謙作が当地に入り、呑香稲荷神社神官小保内孫陸などと会輔社を開校し、地域の子弟に経書を講じ歴史を説きました。小倉氏は滞在1年吉田松陰の死を聞いて去りましたが、次いで常陸の吉田房五郎が万延元年-文久2年3月まで経書を講じ、兵法を説きました。吉田氏が福岡を去るにあたり、会輔社規をつくり役員指名、その後小保内定身・田中館礼之助らを主として会輔社の経営に当たらせました。文久2年呑香稲荷神社の境内に稲荷文庫を開設し、江戸より2000冊の蔵書を購入し、会輔社員及び一般村民が利用、遠くは野辺地、南は日詰、西は花輪あたりまで貸出利用されました。会輔社は明治11年会輔社私学校となり、同15年まで続きました。明治12年には木造岩谷橋が架橋されて九日町と五日町が繋がります。
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曹洞宗高澤山龍岩寺。九戸の戦の政実側の戦死者の菩提を弔う山寺が前身と伝えられています。
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万治元年(1658)、白鳥川との合流点から少し下流の川岸に創建。今の二戸大橋・岩谷観音堂付近です。天保6年(1835)に馬淵川の洪水で土地もろとも流失し、盛岡藩初代藩主信直公御葬礼場跡の現在地に移築。
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市指定文化財として木造観音菩薩立像・観音菩薩坐像・韋駄天像があります。僧・学秀の千体仏に属するものとみられており、荒削りな仏像です。
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境内には南部家忠臣の墓の他、全亮・大超和尚に師事した相馬大作ほか三烈士の碑があり、大作が小塚原で処刑され回向院に葬られたときの墓碑も、回向院の好意により龍岩寺の境内に移されて保存されています。
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案内板より…『わたしたちの宗旨は…【宗名】曹洞宗(禅宗)です。【伝統】曹洞宗はお釈迦さまより歴代の祖師がたによって相続されてきた正伝の仏法です。【日本開宗】曹洞宗は今から800年ほど前、鎌倉時代に高祖道元禅師さまが我が国に伝えて、ゆるぎなき基礎をきずかれ、4代目の太祖瑩山禅師さまが一層盛んになさいました。このお二方を両祖大師と申し上げます。【大本山】福井県の永平寺(高祖道元禅師さま御開山)・横浜市の総持寺(太祖瑩山禅師さま御開山)【本尊】曹洞宗はお釈迦さまをご本尊として仰ぎます。【本尊唱名】南無釈迦牟尼仏【教義】わたしたちはみな仏の子であり、生まれながらに仏心を具えています。しかしそれに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのもとをつくっています。ひとたび仏さまに懺悔し帰依するならば、心が落ち着いておのずから生活が調えられて明るくなり社会のお役に立つことを喜び又どんな苦難にも耐えて生き抜こうとする信念が生まれます。そこに生きがいと幸福とを発見するのが曹洞宗の教えであります。【お経】修証義 般若心経 観音経 寿量品等の諸経典を読誦します。【仁王像とは】仏法・伽藍をお守りする勇猛な金剛神である。山門に向って右側は密迹金剛(口を開き阿形)左側は那羅延金剛(口を閉じ吽形)これを阿吽の二尊という。曹洞宗髙澤山龍岩寺』
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鐘楼。
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梵鐘。
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梵鐘三徳碑…『一、渾身是れ口、口腹一体にして常に心底を語るは鐘なり。二、無舌にして能く鳴る言説を超え真実露堂々なるは鐘なり。三、相手に相応し大小強弱自在の力量を具して傲らざるは鐘なり。』
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十三重塔。
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石徳五訓…『一、奇形怪状無言にして能く言うものは石なり。二、沈着にして気精永く土中に埋れて大地の骨と成るものは石なり。三、雨に打たれ風にさらされ寒熱にたえて悠然動ぜざるは石なり。四、堅質にして大厦高楼の基礎たるの任務を果すものは石なり。五、黙々として山岳庭園などに趣きを添え人心を和らぐるは石なり。』
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遺芳観世音。
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「掃けば散り はらえばまたも塵つもる 人の心も庭の落葉も」
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台座より…『此處ニ供養スル英霊ハ満州支那ノ両事変及ビ大東亜戰役ニ於テ彈雨ノ下ニ奮戰シ盡忠報國遂ニ祖國ノ為ニ散華病歿又ハ公務中不慮ノ死ヲ遂ケタル郷土並ニ近郷出身將士軍属ノ英魂ヲ合祀顯彰スルモノナリ。惟フニ各將士ハ酷寒ノ大陸ニ或ハ北方ノ列島ニ玉砕シ或ハ灼熱南方諸地域ノ大激戰ニ於テ敵ヲシテ心胆ヲ寒カラシメ不朽ノ偉勲ヲ止メシ殉國ノ赤誠ハ以テ亀鑑ト謂フヘシ。茲ニ明治維新ナリテ百年之ヲ記念シテ此ノ地ニ遺芳觀世音ヲ建立シ郷党ト倶ニ永世供養ノ誠ヲ捧ケントス。希クハ大慈大悲ヲ以テ平和ト祖國ノ興隆ヲ加護アラムコトヲ』
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地蔵尊と石灯籠一対(安政6年7月吉日・當寺19世蘭庭代)。
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すべて地蔵様かと思ったら…
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さりげなく閻魔様がおりました。
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本堂前灯籠一対。
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かっこいい灯籠です。
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水子観音。
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本堂裏も庭のようになっておりました。
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本堂裏にある神社。
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稲荷大明神のようです。
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庚申・廿三夜塔3基。
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永代供養墓。
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無縁塔・三界萬霊塔など。
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針供養塔。
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原田為吉翁之碑(後進國分謙吉書)…『翁ハ性重厚温雅夙ニ農事ノ研鑚ニ努メ地方農事ノ改良發展ニ貢献スル所極メテ多ク又公徳會ヲ創立主宰シテ心ヲ潜メテ蚕業改善普及ニ盡瘁セラル公徳會ハ後改組シテ公徳信用組合トナリ翁ノ髙邁ナル識見トソノ堅實ナル經營ト厚キ信用トニ依リテ隆々タル發展ヲ遂タルニ至リ其ノ地方産業ノ興隆發展ニ及ホセシ功績ハ實ニ筆舌ニ盡シ難キモノアリ茲ニ翁ノ功績ヲ偲ヒ深甚ナル感謝ノ意ヲ表スルタメ石ニ刻シテ永ニ翁ノ徳ヲ称ヘントス昭和二十四年六月一日公徳信用組合員一同』
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本堂向かって左手に、南部信直公御葬禮場碑や、相馬大作ほか三烈士の墓碑があります。
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石灯籠一対。
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正面に南部信直公御葬禮場碑(四十三代南部利淳謹書)。
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関良助、一条小太郎、下斗米惣蔵の墓。
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相馬大作(下斗米秀之進)の墓。
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隣の石塔にも篆書体で「下斗米大作塔?」の文字が見えましたが、案内板によりますと大正11年に建立されたものかな。昭和45年に小塚原回向院から移された相馬大作の墓はこちら。
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かつて御利益があるという謂れにより表面が削られているとのこと(※削らないように!)。回向院といえば、両国回向院に鼠小僧次郎吉の墓があって、墓石を削る風習が今でも残っていますね。受験生のお守りにされることで有名です。なお、小塚原回向院といえば私が「尾花」に行く際に立ち寄ることで有名です。
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案内板(石碑)より…『この碑の右にある墓は当地方の生んだ英傑相馬大作先生と義挙に加わった同志関良助の御墓である。先生は本名を下斗米秀之進将真といい南部盛岡藩士であったが津軽公に隠居勧告状を送った後浪人となり関良助を伴って江戸へ行き相馬大作と称していた。しかし二人は捕えられ、入牢1年余りの後文政5年8月29日小塚原で処刑された。両人の遺体を南千住の回向院に埋葬し美濃屋宗三郎が施主となり大観居士(大作)、利白信士(良助)の戒名を刻して御墓を建てた。昭和45年回向院の了解を得て御墓を先生の菩提寺当龍岩寺に移したのである。この墓域にある南部信直公御葬礼場碑は当地にある九戸城を8年間居城とし宮野といわれていたこの地を福岡と改め寛容な政治を行いこの城で病没した南部藩中興の名君信直公の遺徳を忍ぶためのものである。大作先生・関良助・下斗米惣蔵・一條小太郎の四氏の塔は大作先生および義挙を共にした同志の人々を弔うためものである。これらの碑と塔は大正11年当地方の多くの人々の協力により信直公の御葬礼場趾に建てられたが大作先生の御墓を迎えたときここに移したのである。昭和51年12月相馬大作先生顕彰会々長下斗米直昌撰』
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