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関連記事『六興祭 (六戸町)
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2度目の訪問です。無料です。
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実は雨宿りです笑
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六戸町において、奥入瀬川流域に現存する家屋のうちでは最古と思われます。苫米地家の由緒やこの家屋の建築年代を示す史料などは一切残されておりませんが、上北地方の民家の建築手法の進展状況から比較し、恐らく江戸時代後半には建てられていたものと推測されます。茅葺屋根の形は寄棟造りで、屋根中央には煙り出しも見えます。桁行方向(正面)11間、梁間(奥行)5間の建坪約55坪に及ぶすごや(直家)形式。当地方の場合、平面図が長方形の「すごや」がほとんどで、すごやは曲らず真っすぐ馬屋に行けるため、「すぐや=すごや」と呼ぶといいます。
苫米地家のようなすごやは普通の農民住居とは考えられない特に大きな家屋です。なかでも南東側の間口三間の馬屋は15坪(「どま=とおり」を入れると20坪少々)と全体の3分の1ほどで、馬がいかに大切にされたかがわかります。土間は通り(とおり)とも呼び、裏まで通り抜けられるようになっており、現在、その突き当りの一坪分は風呂に改造されています。とおりの隣に常居(じょうい)と台所がとられており、その境には「しびど(囲炉裏)」が設けられ、家族が囲炉裏を囲んでのコミュニケーションの場であったことが分かります。また苫米地家の場合、常居は「にや」としての役割も果たしており、室内作業場として板床が張られています。しびどには天井の梁から自在鈎を下げたカギツケがあり、脇には薪などを入れておく「むろ」が作られています。おもて(表)には「しとめ(しとみ戸)」の遺構が見られ、現在はガラス戸になっています。「しとめ」とは「蔀」の漢字を当てており、上半分を引き上げるか、または取り外すと窓のようになり、更に下をはずすと出入口になるという戸です。
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常居の隣の部屋に一間の玄関があり、幅二尺の縁側も二間分とられています。玄関から入れば客間でしびどがあり、上座に神棚、その下には仏壇が設けられています。しびどの周りは座る人の座席が決まっており、しびどの奥の正面(神棚を背にした場所)を横座(よこじゃ)といって家長が座る席でした。たとえその場所が空いていても家の者たちは別の席に座ります。横座の右側は家長の妻が座る席で「かかざ」とか「おなござ」と呼び、右側は来客とか家族の男たちが座りました。下男・下女の座る席は「きじりま」といいました。客が玄関から入ってくればすぐ横座に座っている主人の目に留まり、家族の行動をよく見ることができる座でもあります。この客間と常居、台所の三部屋には天井が無く、豪壮な梁組み見事です。客間の奥が「なべびや」という寝室に当たる部屋で二部屋。現在は向かって右のなべびやは板張り、左は畳が敷かれています。家屋の西北側に前座敷、奥座敷が配置されています。奥座敷には床の間、その隣に天袋・地袋つきの棚があり、簡素な形が維持され、客間本位に造られて普段は使用されていません。たまに客を迎えた時の泊り部屋として、また前座敷との襖を取り除いて宴会席として使用されたようです。前座敷の前面には一間半の「しきだい」が設けられ、座敷の左側全体に明かり障子が施された「えん」が設けられています。そのほか、内壁に土壁を塗ったクモ壁という工法も見ることができ、梁や指物には今でも釿削りの痕跡が認められ、その歴史の古さを物語っています。
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苫米地家住宅はデーリー東北新聞で連載していた「ふるさとの民家」に紹介されており、八戸工業大学教授高島成侑は苫米地家の「しきだい」についてこのように述べています…『「しきだい」は、「色代」あるいは「式台」という漢字を当てられる。初期の武士住宅においては出入り口を指すのではなく、来客に対する送迎の儀式のための施設であったとみられる。後になって、「玄関」と同様に出入り口を意味するものとなるが、土間床の「玄関」に対して、低く板床を張ったものを「式台」として区別するようなこともなされたようである。もちろん、一般の農家や町屋に設けられるものではなく、「玄関」にしろ「式台」にしても、当時は、武士階級の住宅に限られた出入り口であった。農家では、床屋や肝煎などの階層の住宅には、役人や代官などの来訪を迎えるために設けられているものもある。「玄関」や「式台」と呼ばれるものは、単なる出入り口ではなく、身分や家の格式を表現する施設であったのである。』。普通の民家ではこの「しきだい」を見ることはできません。身分や格式を表す施設であったことは確かです。家主の勲が語るには、苫米地家は鎌倉山内菅領の上杉憲政の系統で、天文20年(1551)10月、北条氏康に敗れ、菅領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲った後、陸奥国へ逃れたといいます。その子、保家一族は南部家の家士となり、三戸郡福地村の苫米地に住みついてその分かれが柳町の苫米地だといいます。
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旧苫米地家住宅(六戸町文化財指定第5号・平成4年11月30日指定)…『<由来>六戸町において、奥入瀬川流域に現存する家屋のうちでは最古と思われるのが、柳町の苫米地勲氏の住宅である。苫米地家の由緒やこの家屋の建築年代を示す史料などは一切残されていないが、上北地方の民家の建築手法の進展状況から比較してみるとおそらく江戸時代後半には建てられたものと推測される。(六戸町史より)旧苫米地家住宅には、「しきだい(式台)」と呼ばれる施設が設けられており、当時は武士階級の住宅に限られた出入口(建物正面左側)であったとされ、身分や家の格式を表現する施設であったとみられる。住宅地、六戸町大字柳町字柳町15の1より平成17年3月現在地へ移築』
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腹ごしらえのために道の駅ろくのへ「メイプルふれあいセンター」へ。あれ?「かふぇOHAKO」さんは閉店したんですね。
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ラーメン&味噌ラーメン。
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